第二蒐集篇 『星ひとつない夜の青い蛾』 後編
「……駅は、どちらでしたっけ」
言ってから、自分の声がひどく遠く聞こえた。
駅の場所を知らないわけではない。村の位置も、森へ入った道も覚えている。帳面には通った沢や、二股の杉、時刻まで書いてある。俺はそれらを見落とす人間ではない。むしろ、見落とせない人間だった。
ただ、今いる場所から駅へ至る道だけが、どうしても結べなかった。
先生はすぐに答えなかった。俺の顔を見て、それから肩や袖に積もった青い鱗粉へ視線を落とした。青は夜のなかでも淡く光っていた。星のない空からこぼれた粉が、俺にだけ降り積もっているようだった。
「神崎君。そのまま動かないでくれ」
「ですが、入口では立ち止まるなと」
「今は私の言うことを聞きたまえ」
声の調子は柔らかい。だが、先生がこの言い方をする時は、たいてい冗談を挟む余地がない。俺は頷いて、地図を持ったまま立ち尽くした。
まず、理屈で戻ろうとした。帳面を開き、記録を読み返す。現在地。入った時刻。風向き。沢を渡った場所。人型を見た場所。紙の上には必要なものがすべてある。俺は線を指で辿った。
「ここから入って……この木を通って……ここで、人型を見て」
記憶は正しい。出来事も正しい。けれど、それらは一つの経路にならなかった。沢は沢として思い出せる。杉は杉として見える。駅も村も知っている。しかし、杉を越えれば沢へ出る、沢を渡れば村へ戻る、村から駅へ行ける――その当たり前のつながりだけが、紙の上から静かに消えていた。
俺には右が分かる。左も分かる。北と南も分かる。駅という言葉の意味も、村という場所の名前も、ルシアン先生が誰なのかも分かる。
物は残っている。
関係だけが消えている。
その事実を理解した時、少し先にいた祓う人型が崩れた。
頭がほどけ、腕がほどけ、胴の輪郭が夜へ溶けた。最後には黒い混濁だけが木の根もとに残り、それさえ土へ吸われていく。別の場所でも、同じように一つ、人型が消えた。さらに一つ。人が迷うはずだったものを引き受ける器が、夜の重さに耐えられず、次々に壊れている。
今年の森は、もう抱えきれないのだろう。本来なら人型へ流れていた迷いが、そのあふれた分だけ、森を歩く人間へ直接こぼれ始めている。
「先生」
「なんだい」
返事があった。すぐ近くで、先生の声がした。
「……ここにいますよね」
「いるよ」
「そうですよね」
自分でも妙な確認だと思った。先生は目の前にいた。細い肩の線も、暗い着物の色も見える。それでも、彼がここにいるということを、声で一度確かめなければならなかった。地図が信用できない。道が信用できない。自分の見ているものさえ、どこまで信じていいのか分からない。
その中で、先生の返事だけが、いったん俺を止めてくれた。
青い蛾がまた飛んだ。羽ばたきのたびに、淡い鱗粉が森の闇へ散る。先生は見えている。俺も見えている。なのに、先生が俺からどれほど離れているのか分からなくなった。二、三歩先にいるようにも、木々の向こうにいるようにも思える。そもそも俺は、先生の方を向いているのだろうか。
「先生」
「なんだい」
「……俺を呼んでください」
先生は理由を尋ねなかった。
「藤四郎」
名前が呼ばれた。
ほんの一瞬、声と俺のあいだに細い線が引かれた。俺はそちらを見る。先生がいる。そこにいる。自分の名を呼んだ人間が、確かに見えた。
だが、それも長くは持たなかった。
「藤四郎」
また声がする。先生の声だと分かる。それなのに、どこから聞こえたのか分からない。前でも後ろでも、右でも左でもない。音が耳へ届くことと、その音がどこにあるのかを知ることは、別のことだったらしい。
「先生?」
「ここにいるよ」
ここ、という言葉は理解できる。しかし、ここが場所にならない。
「どこです」
先生は目の前にいる。
「ここだよ」
俺の呼吸が浅くなった。胸の内側に、ぬるい水が少しずつ満ちてくるようだった。帳面を見ればいい。記録に戻ればいい。そう思って開いた紙には、文字と線と矢印がある。読める。意味も分かる。なのに、何の役にも立たない。
俺は同じ線を何度もなぞった。駅。村。森。駅。村。森。指は紙の上を動くのに、どこへ行っても次の場所へ着かなかった。やがて指先が止まり、帳面が手から落ちた。
濡れた地面へ、俺の記録が開いて伏せた。
記録は世界を持ち運ぶためのものだった。少なくとも、俺はそう思っていた。見たものを残せば、失くさずに済む。順序をつけ、名前を与え、棚へ戻せば、世界は少しだけ扱いやすくなる。
その夜、紙の上には何も失われていない。それでも俺は、帰る場所を見失った。
入口で聞いた女の声が、遅れて頭の中へ戻ってくる。
はぐれた者がいても、探さないでください。
探せば、道がそちらへ寄ります。
探してはいけない。覚えている。だが、先生がどこにいるのか分からないなら、何をしてはいけないのかなど、ひどく遠い規則に思えた。
「先生」
「ここにいるよ」
「先生」
「いる」
「ルシアン先生」
「藤四郎」
「どこです」
「ここにいる」
「いるんでしょう」
「いるよ」
「返事してください」
「しているよ」
言葉は返ってくる。そのことは分かる。先生がいることも分かる。見えている。聞こえている。名も知っている。
それなのに、先生へ至る方法だけが存在しなかった。
俺は一歩を踏み出した。先生の方へ向かったつもりだった。途中で、なぜこちらへ歩いたのか分からなくなった。立ち止まり、向きを変え、また止まる。数間先にいるはずの人へ、俺はどうしても辿り着けない。
「先生のところへ、行けない」
声にすると、恐怖は急に形を持った。森から帰れないことではない。駅が分からないことでもない。
先生のところへ行けない。
「俺を……置いていかないでください」
自分が言ったのだと、すぐには分からなかった。先生は一度も俺を置いて行こうとしていない。むしろ、ずっと目の前で俺の名を呼んでいる。それでも、約束と先生と俺自身を、同じ一つの関係にできない。
「置いていかないよ」
先生の声がした。
「……先生」
何度確かめても足りなかった。視界が滲んだ。冷たい夜気のせいだと思ったが、頬へ落ちたものがある。俺はそれを拭うこともできずにいた。
先生が静かに虫籠を開けた。中で青い蛾が一匹、羽を震わせている。先生は小さな鋏を取り出し、傷つけないよう注意深く、羽の付け根を調べ始めた。あの人は俺が壊れかけているそばで、そんなことまで見落とさない。
鱗粉は場所どうしの結び目を切る。骨は蛾の形を保つ。では、羽の根元から伸びる細い根は何なのか。
先生が、羽の根元から伸びる細い根を一本、傷つけないよう引き出した。それは虫籠の底ではなく、夜そのものを探るように揺れている。
「藤四郎。これを握りたまえ」
俺は言われるまま、差し出された根を握った。乾いた糸のように見えたのに、掌の中でかすかに脈打つ。先生が根のもう一端を持つ。
根が、わずかに張った。
先生が引く。
その瞬間、世界へ一本だけ線が戻った。
村でもない。駅でもない。帰る道でもない。
俺と、ルシアン先生。
「藤四郎」
今度は、声ではなく分かった。こちらだ。根が引かれる方に、先生がいる。
「こちらだ」
俺は根を握り直した。一歩進む。根がまた張る。もう一歩。手繰るように、引かれるままに歩く。世界のほかのどの関係も、まだ戻らない。だが、この一本だけは嘘ではなかった。
根の先に、先生がいた。
俺は反射的に先生の外套の裾を掴んだ。指が白くなるほど強く掴んでから、ようやく自分が震えていることに気づいた。言葉を出そうとした唇も、どうにも言うことを聞かない。
「……先生」
「ここにいるよ」
裾を掴む手に、さらに力が入る。
「離すなよ、藤四郎」
「……離しません」
少し間があった。先生の裾は俺の手の中にある。それを確かめなければ、次の言葉が出なかった。
「先生も……離さないでください」
「もちろん」
先生は涙のことを言わなかった。震えていることも、みっともない声だったことも。俺が掴みやすいように、ただ歩調を落とした。
それからしばらく、俺は裾を離せなかった。数歩歩いては横を見る。いる。また数歩歩いて、もう一度見る。先生はそのたびそこにいた。俺が自分から手を離せるようになるまで、何も言わなかった。
先生は、根を伝って虫籠へ意識を向けた。今年の夜そのものが悪いわけではない。祓う人型も、村人の祓いも、これまでは正しく働いていた。ただ、森に対して夜が濃すぎた。一つの寄り辺が抱えられる量を超えたのだ。
「消す必要はない」と、先生は言った。「少し、別の場所へ分けてやればいい」
青い蛾の根を、虫籠の籠目へ這わせる。白い根が木の枠へ絡みつくと、はじめ何も起こらなかった。やがて、虫籠の内部だけが深く暗くなった。周囲よりも濃い、底の見えない黒だった。
夜が、そこへ根を張り始めている。
森の暗さが、少しずつ虫籠へ移った。奪われるのではない。森が抱えきれない分だけ、余った夜が新しい寄り辺へ移植されていく。青い蛾の群れが薄くなり、崩れかけていた人型の輪郭が、遠くでかろうじて保たれた。
その時、森の向こうから音がした。
「お――――い」
深い井戸の底から引き上げられるような声だった。何重にも反響して、言葉の形を失っている。俺の手がまた裾を掴み直す。
「お――い……だい……じょう……ぶ……か――」
夜が虫籠へ移るにつれて、声の輪郭が少しずつ戻ってきた。音だけだったものが、声になる。声が、人間のものになる。
「おーい! 大丈夫かー!」
入口で注意をくれた案内人の声だった。しかも、それはただ聞こえるだけではなかった。あちらからこちらへ、近づいてくる声になっていた。
木々の間に、小さな灯が見えた。火の色ではない。白みを帯びた、まだ明けきらない朝の色だった。行灯の中には、朝の欠片が入っているのだと、のちに聞いた。
朝は夜を殺さない。夜が終わったあと、木や石や道を、もう一度そこにあるものとして浮かび上がらせる。その土地では、深い夜の森へ人を迎えに行く時、朝の欠片を行灯へ入れるのだという。帰るために必要な範囲だけ、世界の輪郭を戻すために。
行灯が近づくにつれ、木の幹は木の幹になり、草は草になり、地面の上の細い道は、どこかへ続く道になった。
「いたいた。遅いから心配しましたよ」
案内人は俺たちを見つけ、そこで一度だけ黙った。先生の裾を両手で掴んでいる大の男と、細い根の絡んだ虫籠。森の人間でなければ、もう少し驚いたかもしれない。
「歩けますか」
「……歩けます」
そう答えたが、手は離さなかった。
行灯を先頭に、案内人、先生、俺の順で森を出た。行灯が照らした場所だけ、道が道として続いていた。杉を越えれば沢へ出る。沢を渡れば村へ戻る。村から駅へ行ける。その関係が、少しずつ自分のなかへ戻ってくる。それでも、先生の裾はしばらく離せなかった。
森の境界を越えたところで、俺はようやく自分の手を見た。次に、掴んでいる先生の裾を見た。夜の中で、ずっと両手で握っていたらしい。
俺はそっと手を離した。
先生は何も言わなかった。
蒐集館へ帰った時、扉のこちら側はもう朝だった。先生は虫籠を標本棚の上へ置いた。籠の内部だけが完全に暗い。黒い煙でも液体でもない。ただ、そこだけが夜だった。籠目には青い蛾から採った細い根が絡みつき、下ではなく上へ伸びている。見えない夜へ帰ろうとしているようだった。
先生は棚の奥から、以前の夜を収めていた小さな保存瓶を取り出した。先日の海辺で、俺とあの子供のあいだへ使われた夜の残りである。瓶の中には、夜がほとんど残っていなかった。
根を張った夜の一部を、先生は細い管で吸い上げ、保存瓶へ移した。新しい夜は、瓶の内側へ静かに沈んだ。これで、使ってしまった分は補充された。残った夜と根は、虫籠ごと今回の標本になるのだろう。
俺はその作業を、黙って見ていた。
夜が瓶へ収まっていく。さっきまで俺を包み、地図を意味のない線にし、先生の声から方向を奪ったものが、硝子の内側で何事もなかったように揺れている。頭では分かっている。ここは森ではない。鱗粉も降っていない。祓う人型もいない。自分がどこにいるかも、扉の外が坂であることも、全部分かる。
それでも、身体のどこかがまだ夜を信用していなかった。
先生が保存瓶を持ち上げた。棚へ戻すため、俺の机から数歩離れる。一歩。二歩。どこへ行くのかは分かる。棚の位置も、そこまでの距離も、先生が向かう方向も、すべて理解できる。
それなのに、胸の奥がざわついた。
見えているのに、辿り着けない。その感覚だけが、まだ指のあいだに残っている。
「先生」
思わず呼んでいた。
先生が振り返る。
「なんだい」
返事がきた。先生は棚の前にいる。方向も距離も分かる。その瞬間、身体からわずかに力が抜けた。
俺は何を確かめるために先生を呼んだのか、そこで初めて分かった。
「……いえ」
少し間を置いて、俺は言った。
「何でもありません」
何でもないわけがなかった。先生はそれ以上尋ねず、保存瓶を棚へ収めた。だが、そのまま奥の棚へ戻ることはせず、俺の机の近くへ帰ってきた。何事もなかったように虫籠を置き直し、細い根の様子を確かめ始める。
慰めるでもない。怖かったのかと尋ねるでもない。ただ、俺から離れない場所で作業を続けた。
「よく根付いたね」
「……夜に根付くって言葉を使うんですか」
「根があるんだから、根付くだろう」
「そうですか」
いつもの会話だった。いつもの先生だった。それだけのことで、蒐集館の机や棚や、朝の光を含んだ硝子窓が、少しずつ本来の場所へ戻ってきた。
その代わり、森で言ったことまで鮮明になってくる。
俺を呼んでください。
返事してください。
俺を置いていかないでください。
先生も離さないでください。
おまけに、涙まで流して先生の裾を掴んでいた。さっきも、先生が数歩離れただけで呼び止めた。
できれば、そのまま標本棚の奥へ収蔵されてしまいたかった。俺は帳面だけを見つめ、どうしても先生の顔を見られなかった。
「どうしたんだい」
「……何でもありません」
「そうかい」
少し間があってから、俺は小さく言った。
「……すみませんでした」
「何がだい」
何が、と聞かれると答えに詰まる。取り乱したことも、縋ったことも、記録係のくせに帳面を落としたことも、今なお先生が近くにいることを確認せずにはいられないことも、すべてがひどく恥ずかしい。先生はそんな俺をしばらく見て、それからようやく気づいたらしかった。
「ちゃんと連れて帰っただろう?」
俺は顔を上げた。
その言葉は、森から館へ帰ったという意味だけではなかった。ここは蒐集館だ。森ではない。道は繋がっている。声には方向がある。俺はここにいる。先生もここにいる。
先生にとっては、俺が何を口走ったかも、どんな顔で縋ったかも、たぶん大した問題ではないのだろう。必要だったから繋いだ。連れて帰ると決めたから、連れて帰った。それだけだった。
俺は棚に収められた保存瓶を見た。あの森で、先生とのあいだの道を失った感覚は、まだ消えていない。だが横を見れば、先生がいる。今度は名前を呼ばなかった。
「藤四郎。記録を頼むよ」
「……はい」
机の上には、森から持ち帰った帳面がある。文字も線も読めるのに、何一つ自分を導いてくれなくなった帳面。最後には俺自身が手放し、地面へ落としたものだ。
俺はそれを取った。表紙を開く。紙。文字。線。記録。
今は、それぞれが正しい場所へ繋がっている。
いつもの返事をして、俺はペンを取った。森からは帰った。夜も持ち帰った。だが、俺の中には一本だけ、以前より太くなってしまった道がある。その先には、ルシアン先生がいた。




