第二蒐集篇 『星ひとつない夜の青い蛾』前編
ルシアン先生が「夜を採りに行こう」と言い出したのは、午後の紅茶がすっかり冷めたころだった。
先生は窓辺の長椅子に腰をかけ、読みかけの本を伏せていた。テーブルには、先日あの海辺から持ち帰った夕日の残りが、小さな硝子瓶に入れて置かれている。瓶の底で、橙色のものが蜂蜜よりゆっくり揺れていた。蓋を開ければ、たぶん塩気と、どこか懐かしい甘さがするだろう。先生はそれを茶へ一匙ずつ垂らして飲んでいる。
「神崎君。夜を採りに行こう」
俺は帳面から目を上げた。
「夜を?」
「この間、君に使ってしまったからね。補充しておきたい」
使った、というのは、海へ沈みかけた俺と子供のあいだへ、先生が夜を滑らせたあのことだ。あの一瞬、夕日と影の間に落とされた夜が何を切ったのか、俺はいまだにうまく書けない。記録には「接続を断ったものと思われる」と記したが、思われる、などという言葉は便利なだけで、何一つ分かったことにはならなかった。
「……夜って、補充するものなんですか」
「なくなったものは補充するだろう?」
先生は、いかにも常識を言ったような顔をした。俺が何も返せずにいると、彼は立ち上がって本を棚へ戻し、玄関の方へ向かった。そこに用意されていたものを見て、俺は二度目の質問をせずにはいられなかった。
「なぜ虫取り網を」
先生の片手には、子供が夏休みに振り回すような、柄の長い虫取り網があった。網は白く、妙に新しい。もう片方には木の枠の虫籠まで提げている。薄い和紙を貼った蓋に、通気のための小さな穴がいくつも穿たれていた。
「夜を採りに行くからだよ」
「質問の答えになってません」
「そうかい?」
先生は本気で不思議そうに首を傾げた。人は答えたつもりでいる時ほど、相手を困らせるものらしい。もっとも、先生の場合は困らせたこと自体を楽しんでいる節がある。
先生は濃紺の着物の上から黒い外套を羽織り、虫籠を持ち替えた。玄関の内側に吊られた小さなベルが鳴った。清い音が館の廊下を走り、どこか遠くの扉までひとつずつ叩いて行くようだった。先生が重い扉を開くと、その向こうには夕方の山村があった。
山の裾に、十数軒ばかりの家が寄り合っている。低い屋根の向こうから、濃い森が立ち上がっていた。空はまだ青みを残していたが、日が沈めば森の方から先に暗くなるのだろうと思わせる色だった。村の入り口には、古びた道標と、こちらを待っていたらしい三人の男女がいた。誰も先生の網を笑わなかった。これまでの経験から言えば、その時点で嫌な予感をしておくべきだった。
年嵩の男が、先生へ深く頭を下げた。
「今夜は星がありません」
俺は空を見た。まだ星の出る時刻ではない。
「見れば分かる話では」
「そういう意味ではありません」
男の声音には、こちらを咎める鋭さがなかった。だから余計に、言葉だけが冷たく残った。
先生は「そう」と頷き、虫籠の蓋を一度確かめた。村人たちは森へ入る前の注意を、薬の用法でも読み上げるような調子で教えた。来た道を辿って戻ろうとしないこと。青い蛾を素手で払わないこと。鱗粉がついても、その場に立ち止まらないこと。人の形をした黒いものを見ても、呼びかけないこと。人型が形を保てなくなったなら、森の奥へ入らないこと。姿の見えない者に自分の名を呼ばれても、すぐには振り返らないこと。
最後に、若い女が言った。
「もし、はぐれた者がいても、探さないでください」
「探さない?」
「探せば、道がそちらへ寄ります」
「……道が?」
俺は聞き返したが、女は頷くだけだった。先生が隣で「なるほど」と言う。
「なるほどじゃありません。説明になってません」
「説明はされたよ。君が納得していないだけだ」
「納得できる人がいたら見てみたい」
俺が帳面を取り出すと、女は少しだけ笑った。だが、その笑みも長くは続かなかった。森の方を見る目には、長年そこで暮らしてきた人間だけが持つ、諦めに似た慎重さがあった。
「あれは人ではありません」と、彼女は言った。「代わりに迷うものです」
俺はその言葉を帳面へ写した。
祓う人型。森で人間の代わりに迷うもの。
分類欄は空けておいた。最初から埋められない欄があることにも、俺は少しずつ慣れたつもりでいた。慣れた、というだけで、平気になったわけではない。
「今年は少し、夜が重いんです」
年嵩の男が続けた。例年より濃い。灯を消しても闇が家の隅に残る。青い蛾の色が深くなった。祓う人型が早く崩れる、と。
「今年の夜は、出来がいいらしいね」
「酒みたいに言わないでください」
「酒も夜も、出来のいい方が面白い」
その面白さで村人が困っているのだが、と言いかけてやめた。先生は村人の困りごとを軽んじるわけではない。ただ、美しいものと危険なものが同じ顔をしている時、先に美しさを見る人だった。
森へ入って間もなく、暗さの育ち方が普通ではないことに気づいた。
空から夜が降りてくるのではなかった。黒いものはまず木の根元に溜まり、湿った土から細い根を伝って幹をのぼり、枝のあいだへ沁み出して行った。梢が暗さを抱え、葉の裏に夜を隠し、それからようやく空を黒くした。森そのものが、一日じゅう溜め込んだ夜を、日没とともに吐き出しているようだった。
「この森が、夜の寄り辺なんだろうね」
先生が言った。
「寄り辺」
「寄る場所。形のないものにも、落ち着く先はある」
夜が落ち着く場所。言葉としては分かる。しかし実際に木々のあいだから夜が滲み出してくるのを見ると、分かるということは急に頼りなくなる。俺は懐中時計を見た。針は正しく進んでいた。だから何だ、と思った。時計が正しくても、森の中で正しいものが他に残っているとは限らない。
最初の人型を見たのは、細い沢を越えた先だった。
それは初め、霧にしか見えなかった。濡れた煤のような、夜の蒸気のようなものが、木の幹と幹のあいだでゆっくり寄り集まっている。やがて頭らしい丸みが生まれ、肩ができ、腕のようなものが垂れた。顔はなかった。あったとしても、暗さの底へ押し込まれていて見えなかった。
人型は俺たちへ背を向け、道の外れを歩いていた。こちらに近づくでも、遠ざかるでもない。けれど、ふいに右の腕の先がほつれた。黒い糸のようなものが地面へ落ち、すぐ根のあいだへ吸われて消える。
先生が足を止める。俺も息を潜めた。
少し離れた場所で、薪を背負った村の男が立ち尽くしていた。彼は何度も分かれ道を見比べ、どちらへ行くべきか決めかねているようだった。人型の指が、また一本、ほどけた。
俺はその場で理解した。あれは迷っているのではない。人間が迷うはずだったものを、あの形で引き受けている。
道を失うこと。方角を失うこと。帰る家を失うこと。それらが黒い人の手足や顔を削り、その削れたものを森が呑み込んでいるのだろう。怪物を退けるのではない。誰かの足もとに開きかけた穴を、自分の身体で塞いでいる。そういう役目のものだった。
けれど、その晩の人型はあまりにも脆かった。さらに奥へ進むと、腕の片方のないもの、胸から下が霧に崩れているもの、顔の半分を失くしたものが、もういくつも見つかった。迷いを祓う器の方が先に壊れている。
「先生」
「うん」
「これが例年どおりなら、村の人はわざわざ今年の夜が重いとは言わないでしょう」
「私もそう思うよ」
先生は答えながらも、虫取り網を肩から下ろした。その声音はいつもと変わらない。ただ、網を持つ指が、これまでより少しだけ慎重だった。
日が沈みきると、空には本当に星がなかった。雲はない。月もない。星だけが、最初からそこへ生まれなかったように消えていた。夜空というものは、遠くにある点があって初めて遠いのだと、その時になって知った。何もない黒は、頭上から押し下がってくる天井に似ている。
青いものが、木々の奥で灯った。
一つ、二つではない。小さな火が葉陰から浮かび、細い光の群れになって俺たちのまわりを巡り始める。青い蛾だった。羽ばたくたび、鱗粉が淡く光り、森の闇へ星屑のような傷をつける。森へ入る前、俺は女に、あれは本当に蛾なのかと尋ねていた。
では何なんです、と俺が尋ねると、彼女は一度だけ空を見て、星ですよ、と答えた。
星のない空から落ちたもの。そう思えば、青い蛾の飛び方まで、空を忘れられないもののように見えた。
「先生。本当にやるんですか」
「そのために持ってきたんじゃないか」
先生は虫取り網を振った。夜の森で、黒い外套の外国人が虫取り網を構える姿は、恐ろしいものを見る時より先に笑ってしまいそうになる。だが先生はひどく真剣だった。ひらりと青が網へ入る。網の目に引っかかった光が、魚の鱗のように瞬いた。
俺は時刻、風向き、最初に出た位置、群れの数を帳面へ記した。記録すべきことがある間は、まだ自分の足場がある。そう思っていた。
捕えた蛾を虫籠へ移す時、先生が蓋を少し開けて見せた。青い羽は、近くで見ると夜光虫めいた薄さだった。けれど鱗粉の下には、蛾にあるはずのない細い骨が透けていた。羽の付け根からは、髪の毛ほどの根がいくつも伸び、虫籠の底を探るように揺れている。
「……先生」
「うん」
「蛾に骨があります」
「あるねえ」
「何に根を張るんです」
先生は虫籠ではなく、その向こうの夜を見た。
「夜に」
「夜は土ではありません」
「だから面白いんじゃないか」
俺は何も言えなかった。面白い、で済ませるには、目の前の青があまりにきれいだった。理解できないものは恐ろしい。だが、恐ろしいものが美しくないとは限らない。その二つを同じ器に入れて眺められることが、先生にはできる。俺にはまだ難しかった。
青い蛾が一斉に羽ばたいた。
その風で、俺の髪と肩へ鱗粉が積もった。袖にも、帳面の表紙にも、地面にも。払おうとして、村人の注意を思い出す。素手で払うな。立ち止まるな。俺は手を半端に上げたまま、ゆっくり歩いた。
その時、少し先にいた人型の肩が崩れた。
黒い肩から、夜が布の切れ端のように剥がれ落ちた。次いで腕がほどけ、胸の輪郭が風に散った。森のあちらこちらで、似たような崩れる音がした。音といっても、何かが砕ける響きではない。紙を水へ浸した時のように、形が静かに失われる音だった。
「戻ろう」
先生が言った。
俺は頷き、帳面のあいだに挟んでいた簡単な地図を取り出した。駅、村、森。入った道。沢。目印にした二股の杉。線は正しく書いてある。文字も読める。針路を示す印も、俺自身がつけたものだ。
ただ、その線がどこへ続いているのか、分からなかった。
一度、確認した。二度、指でなぞった。駅から村へ。村から森へ。森から、今いる場所へ。そこまでは分かる。それなのに、駅という文字が、どこかの土地の名としてしか見えない。そこへ行けば何があるのか。なぜそこへ戻るのか。線の向こう側が、急に白紙になっていた。
「どうしたんだい、神崎君」
「……少し待ってください」
俺は地図から目を離せなかった。青い鱗粉が紙の上でかすかに光り、駅と村を結ぶ線の上へ、細い星屑のように積もっている。
星ひとつない空。青い蛾。崩れていく祓う人型。すぐ隣にいる先生の輪郭だけが、夜のなかで妙にくっきりしていた。
「先生」
「なんだい」
喉がひどく乾いていた。
「……駅は、どちらでしたっけ」




