第一蒐集篇 『太陽を一匙』 後編
子供の身体は、腿の半ばまで沈んでいた。
海が満ちたのではない。水面は夕陽の赤を揺らしているだけで、波らしい波も来ていない。子供の方が、砂へ落ちるように、海の中へ少しずつ沈んでいた。
「春子!」
女が叫んだ。
叫んでから、自分で口を押さえた。周囲の者も、息を止めたように動かない。その一拍遅れの沈黙のあと、海の中から、同じ声が返ってきた。
「春子」
女の声だった。声色も、喉の掠れも、子供を呼ぶ時だけ最後の音が少し上ずる癖まで同じだった。
けれども、同じではなかった。
最初の声には、子供の身体をこちらへ引き戻そうとする力があった。二つ目の声には、何かを呼び戻すのではなく、こちらへ落とそうとする静けさがあった。言葉の形だけを借りて、海の底にある別のものが、女の声をひとつ遅れて真似たように聞こえた。
気持ちが悪かった。
浜にいた男たちが、いっせいに女の口を塞ごうとしたが、遅かった。海は女の声を覚えてしまったらしい。水面の赤いところどころが、口のように細く開き、音もなく「春子」と繰り返しているように見えた。もちろん、夕陽の反射だったのかもしれない。だが、そうだとしても、あまり見たいものではなかった。
すでに走り出していた俺は、鞄まで放り出し、人のあいだへ踏み込んだ。
背後で先生が何か言った。止める声ではなかった。俺がどこへ行くのか、もう分かっている声だった。
普段の俺は、なるべく身体を小さくしている。大きな男が狭い場所にいるだけで、人は少し警戒する。肩をすぼめ、背を丸めていれば、いくらか害のなさそうなものに見える気がした。
だが、あの時は違った。人をかき分けた時には、背は自然に伸びていた。濡れた砂へ踏み込み、子供へ手を伸ばす。春子は胸まで海へ沈み、腕だけをこちらへ差し出していた。その手を掴むと、驚くほど冷たかった。
「離すな」
誰に言ったのか、自分にも、子供にも分からない。俺は腕を引いた。子供の身体は軽かった。軽すぎた。水に浸かった衣服の重みさえなく、まるで海の方が先に、半分を持っているようだった。
その時、俺の影が岩と岩のあいだへ触れた。
黒いものが、足元からほどけた。
前に見た、隙間で溶ける影だった。けれども今度は他人のものではない。俺の影は、夕陽を背にして長く海へ伸び、岩の細い割れ目へ落ちたところから、水のように流れ始めた。
俺は反射的に足を引いたが、俺だったはずの影はついてこない。
黒い水が、砂の上を海へ走る。その先端が波打ち際へ触れた瞬間、俺の身体まで一緒に引かれた。
靴底が砂を削った。俺は片手で春子を抱え、もう片方の手を、浜へ引き上げられていた小舟の縁へ掛けた。腕の筋肉が軋み、指の関節が白くなる。それでも、引く力の方が強い。海は荒れていないのに、俺の身体だけが沖へ曳かれていく。
春子の着物の裾からは、海水が一滴も落ちなかった。濡れているのは見えるのに、重さがない。俺が掴んでいるのは子供の腕ではなく、夕陽の中へ映った子供の形だけなのではないかと思った。そんなはずはない、と言い聞かせるほど、腕の中の体温が遠くなる。
「先生!」
自分でも情けない声だった。叫びながら、俺は腹の底で、先生なら何とかするのではないかと思っていた。その確信がどこから来るのかは分からない。まだ先生に雇われて、ひと月ほどしか経っていないのに。
目の前の夕陽が揺れた。海と空の境目がなくなり、赤い光の中へ黒い影が溶けていく。影が俺なのか、俺が影なのか、一瞬だけ分からなくなった。腕の中の子供まで、自分の身体から借りているもののように遠い。
死ぬ、と考えた。
それは首切り坂で考えた死とは違った。あの晩は、世界から自分を引き剥がしてしまいたかった。今は、腕の中の子供ごと、名も知らぬ海の隙間へ落ちていくのが恐ろしかった。
その横で、先生は懐を探っていた。
「先生! 何をしているんです!」
「少し待ちたまえ。たしか、このあたりに」
待てるわけがない。俺の踵はもう波打ち際を削っている。先生はようやく、小さな硝子の容器を取り出した。中には黒い液体とも、光の消え残りともつかぬものが、指先ほど入っている。
「以前、蒐集したものでね。持ってきてよかった」
「何ですか、それは!」
「夜だよ」
先生は栓を抜いた。
容器からこぼれたものは、地面へ落ちる前に広がった。夕陽と俺の影のあいだへ、唐突に夜が差し込む。黒ではなかった。色というものが、そこだけ一度、使われる前の状態へ戻ったような暗さだった。
海の赤が消えた。
汽笛が、途中で切れた。
俺の影は、夜の縁で断たれた。
次の瞬間、身体から引く力が消えた。俺は春子を抱えたまま砂へ倒れ込んだ。母親が駆け寄り、子供を受け取る。春子は泣かなかった。ただ海を見て、まだ海の中に置いてきた何かを探すように、ゆっくり瞬きをしていた。
女は子供の肩を抱いて、何度も名を呼びかけた。今度は海から何も返らない。春子はしばらくしてから、母親の袖を掴んだ。
「お母さん、下にもいたよ」
誰が、と女が尋ねる前に、子供は目を閉じた。眠ってしまったのか、答えたくなかったのかは分からない。先生はそれを聞いても、表情を変えなかった。ただ、海と小瓶の夜を見比べるように、静かに目を細めていた。
夜は一息だけ浜に残り、それから先生の掌へ戻るように、硝子の容器へするりと収まった。夕陽が戻った時には、海は何事もなかったように赤かった。
*
しばらく、俺は砂の上で息をしていた。肺へ入る空気が痛く、腕は春子を抱えていた形のまま固まっている。助かったと理解すると、遅れて怒りが来た。
「先生」
「なんだい」
「そういうものを持っているなら、先に言ってください」
「使うと思わなかったからね」
「俺が死にかけてから思い出すな!」
先生は、本当に分からないという顔をした。モノクルの奥の淡い目が、少しだけ丸くなる。
「死ぬとは?」
「今、死にかけたでしょう!」
「しかし、死んでいないじゃないか」
「結果論でしょう!」
「そうかな。私は助けるつもりだったよ」
「間に合わなかったらどうするんです!」
「間に合わせたじゃないか」
悪びれる様子はなかった。俺の命を軽く見たわけではないのだろう。先生の中では、最初から救い出せる出来事だったのだ。ただし、その見通しを俺へ教える必要までは、まるで感じていない。
頭が痛くなった。怒鳴り続ける気力もなく、俺は砂を掴んだ。指のあいだから、乾いた粒が落ちる。
「先生」
「今度は何だい」
「蒐集品にも用途があるじゃないですか。今の夜は役に立ったでしょう」
先生は小瓶を光へかざした。中の夜は、先ほどより少なく見えた。
「困ったねえ」
「何がです」
「夜に用途ができてしまった」
役に立ったなら、よいことではないか。俺には、その困り方が分からなかった。
春子は母親の膝で、ようやく小さく泣き始めた。集落の人々は周囲を囲み、誰かがぬるい湯を持って来た。皆、助かったことを喜んでいたが、海の方を見ようとはしない。夕陽はもうほとんど沈み、影は足元へ縮んでいた。
俺は自分の手を見た。春子を掴んでいた右手の掌には、砂に混じって黒いものが薄くこびりついていた。拭ってもなかなか取れず、指の皺へ入ったそれは、まるで影が皮膚の内側から滲んだように見えた。先生が水筒の水を少し垂らすと、黒いものはすぐ洗い流された。
「大丈夫かい、神崎君」
「大丈夫に見えますか」
「見えないね」
ではなぜそんな穏やかな顔をしているのか、と言いかけて、やめた。先生にとっては、俺が生きてここで文句を言っている時点で、十分に大丈夫なのだろう。
俺の影だけが、少し遅れて動いた。
立ち上がると、黒い形がひと呼吸ぶん遅れて砂から剥がれ、俺の足へ追いついた。
「先生、影が遅れてるんですが」
「ついて来ているなら、いいじゃないか」
「遅れてるんです!」
先生は笑った。俺は自分の足元を睨んだ。影は睨まれても、何の気配も返さなかった。
*
日が完全に沈む直前、先生は波打ち際へ戻った。集落の者たちはもう止めなかった。先生は銀の匙を取り出し、最後に海面へ残った赤をひとすくいした。
太陽を、一匙。
それは小瓶の中で、ブラッドオレンジ色のまま、ゆっくり粘っていた。よく見ると、その奥にごく小さな黒いものが揺れている。砂粒にしては、あまりに形が整っていた。
俺の影の欠片に見えた。
「先生、それ」
「なんだい」
「……いえ」
確かめるのが怖かった。影が少し欠けたままなら困る。だが、あの黒いものが俺の一部で、それを先生が持ち帰るのだとしたら――その考えに、なぜか背筋がぞくりとした。
館へ戻ると、玄関の向こうには首切り坂があった。夜の坂はいつも通り静かで、海の気配などどこにもない。ただ、扉を閉めても潮の匂いだけが、しばらく玄関の絨毯へ残っていた。
その落差に、かえって足元が頼りなくなった。ついさっきまで、俺の影は海の方へ流れ、子供の声を真似る何かが水の下にいた。それが今は、玄関の脇に傘立てがあり、時計が八時を打ち、書庫の奥には俺が途中まで作った目録帳がある。世界は平然と元の形へ戻る。こちらの方が異常だったのではないか、とさえ思えてくる。
先生は何事もなかったように茶を淹れ始めた。俺は鞄から帳面を出し、濡れた頁を暖炉のそばで乾かした。鉛筆の文字は途中から乱れていたが、読めなくはない。
「先生。正体も分からないものを飲まないでください」
「さっき、君も味見をしたじゃないか」
「そういう問題ではありません」
先生は答えず、銀匙で夕陽をひとすくいした。琥珀色の紅茶へ赤い筋が沈み、カップの底に一瞬だけ、小さな夕焼けができた。
先生はそれを飲んだ。
湯気の向こうで、先生の喉が一度だけ静かに動いた。夕刻の海と同じ色が、白い指に持たれた薄いカップの中から消えていく。俺は、そのわずかな動きまで見てしまった。見ようとして見たわけではない。ただ、先生の周りでは、取るに足らないものまで妙に目へ残る。
小瓶の中にあった黒いものを、俺は思い出していた。あれが俺の影だったとしたら。俺の一部が、今ごろ先生の舌を通り、喉を落ち、身体のどこかへ溶けていっているのだとしたら。
妙なことを考えたものだ。
だが、嫌ではなかった。むしろ、ひどくいい。そう思った時、俺は自分の口元が緩んでいることに気づいた。
「神崎君」
「……何です」
「ずいぶん嬉しそうだね」
「気のせいです」
先生はそれ以上、何も言わなかった。分かっているのかもしれない。本当に気にしていないだけかもしれない。俺には、まだ判断がつかなかった。
帳面へ向き直る。今回の蒐集品の記録を書かなければならない。
品名 夕日
採取地 ――村沿岸
数量 一匙
性状 橙赤色。粘性あり。
味 甘味、酸味、わずかな塩味。
用途。
そこで、鉛筆が止まった。夕日は食べられた。夜は人命救助に使えた。ならば蒐集品には、それぞれ何らかの用途があるはずだった。役に立たぬものを、先生があれほど手間をかけて棚へ並べる理由が、俺にはまだ理解できなかった。面白いから、というあの人の答えでは、分類欄は埋まらない。
しばらく迷った末、俺は書いた。
飲用?
後ろから先生が覗き込んだ。
「違うよ、神崎君」
「では何です」
「夕日だよ」
「それは品名です」
「そうとも」
俺は帳面の用途欄と、小瓶の中でまだ赤く揺れている夕日を見比べた。
「ところで、先生。結局のところ、先生は何を蒐集しているんです」
先生は少し考えるように、小瓶を灯りへ透かした。
「芸術になる前のものだよ」
「芸術になる前?」
「人の手で、形を与えられる前のものさ」
夕日を一匙すくう。それを見て、何かを感じる。言葉にする者もいれば、絵にする者もいるだろう。その時になって初めて、芸術というものになるのかもしれない。
ならば先生が集めているのは、その一歩手前にあるものなのか。
俺には、まだ分からなかった。
けれど、分からないものがまだこの館にあることを、以前ほど悪いことだとは思わなかった。明日になれば、もう一度、帳面を開いて考えるつもりだった。それでいい気がした。




