第一蒐集篇 『太陽を一匙』 前編
「先生、これは何ですか! どうなってるんですか!」
俺がそう叫んだ時、ルシアン先生は玄関の敷居へ片足をかけたまま、いかにも気楽そうに振り返った。
「境界を解いたんだよ、神崎君」
館の玄関扉の向こうには、本来なら首切り坂が見えているはずだった。雪はもう消え、庭の椿には鈍い緑が戻っていたから、今朝までならば、坂の下に町の屋根と電線が見えたはずである。
しかし、そこには海があった。
海の手前には、小さな無人駅がひとつあった。色の褪せた木造の駅舎、端の欠けたプラットホーム、錆びた線路。線路は館の玄関からまっすぐ延び、ホームを抜け、その先の海へ沈んでいた。潮の匂いが館の中へ吹き込み、玄関脇の机に置きっぱなしだった古い新聞の頁を、ぱらりと鳴らした。
遠くで汽笛がした。
俺は玄関の内側へ半歩退いた。汽笛は、線路の先からではなく、海の底から鳴ったように聞こえた。
「そんなことができるんですか!」
「館の外は坂である、という結び目を少し緩めたんだよ」
「外が坂でなくなるということですか。こちらは館で、向こうは……」
向こうは、と言いかけて、俺は口を閉じた。海だ、としか言えない。だが、海は海であって、玄関の向こうにあるものではない。少なくとも、昨日まではそうだった。
先生は困らせた相手の顔を眺める時だけ、少し愉快そうに目を細める。その時もそうだった。
「まあ、歩きながら話そう」
話していない。何ひとつ説明していない。そう抗議したかったが、先生はもう海の方へ歩き出していた。
*
俺がルシアン先生の元で働き始めて、まだひと月にもならなかった頃のことである。
仕事そのものは、驚くほど順調だった。これは少し意外だった。前の図書館を辞めてからというもの、俺は自分が本を扱う仕事に向いていなかったのだと思うようにしていた。働けなくなった人間が、自分には何も向いていなかったのだと考えるのは、存外、手軽な逃げ道である。向いていたのに続けられなかったと認めるより、その方が諦めはつく。
けれど、館の書庫へ入ると、手は勝手に動いた。書架から本を抜き、紙の傷みを確かめ、背表紙に貼られた小さな番号札を書き写し、棚の隙間に押し込まれた紙片を拾い上げる。夕方になれば目も肩も痛んだが、それは以前のように、誰かの声や視線で内側を擦り切らせた痛みではなかった。
ここには利用者がいない。同僚もいない。上司と呼べる者は先生ひとりで、その上司は大抵、どこかの部屋で煙管をくゆらせながら原稿を書いているか、庭で見知らぬ鳥の羽を眺めているか、突然どこかへ出掛けている。
本は俺を値踏みしなかった。昼食を抜いても、返事が遅れても、書架のあいだへ重い沈黙を置いて帰ることがない。頁を繰る音は、一日中、同じ速さで俺のそばにあった。
問題は仕事ではなく、人間の方だったのかもしれない。
そんなことを考え始めたのは、この館に来てからだった。
もっとも、本だけを相手にしていれば済む書庫でもなかった。棚には古今東西の文学、博物誌、旅行記、民俗資料が並んでいたが、それらの間へ、どうにも置き場の分からない本が平然と混じっている。
『影を失った者の名簿』。
『雨天における死人の数え方』。
『食用に適さない月について』。
どれも悪趣味だった。悪趣味で、題名だけなら冗談にしか見えず、しかし開くと妙に細かな図版や脚注が添えられている。『食用に適さない月について』などは、月を煮る際の注意から始まり、三十頁ほどかけて「それでも食べる必要がある場合」を論じていた。必要があるのか、と俺は欄外へ小さく書いた。
その時、背後から先生の声がした。
「神崎君。その本は面白いかい?」
振り返ると、先生は書庫の入口へ寄りかかりながら俺を見ていた。その口元はいつも緩やかな弧を描いていて、それは胡散臭いとも、怪しいとも、穏やかだとも思えるような笑顔だった。曹灰長石のような瞳が、面白がるように細められた。
「面白いかどうかは、まだ判断しかねます」
「そう。なら、もう少し読んでみたまえ」
「仕事中です」
「真面目だねえ」
「先生が、書庫を何式で分類しているのかさえ分かれば、もう少し効率よく働けます」
先生は棚を見上げた。そこにはロシアの詩集の隣へ、江戸時代の薬草図譜と、黒い革表紙の楽譜と、なぜか乾燥した海星を挟んだ植物標本帳が並んでいる。
「私式だよ」
「そんな分類法はありません」
「今ここにあるじゃないか」
話にならない。俺は机の上へ目録帳を置き、今までの分類をいったん横線で消した。先生の趣味を体系と呼ぶには抵抗があったが、少なくとも本人が何をどこへ置きたがるかを記録しておかなければ、次に探す時、先生自身が困る。
「神崎君」
「はい」
「出掛けよう」
顔を上げると、先生はもう書庫の奥を見ていなかった。淡い目だけが、こちらへ向けられている。
「どちらへです」
「さて」
「さて、では困ります。汽車なら時刻を――」
「帳面を持ってきたまえ。君は記録係だからね」
先生はそれだけ言い、返事を待たずに廊下へ消えた。
記録係。
その呼び方が嬉しかったことを、俺は認めたくない。雇われた以上、仕事を頼まれるのは当然だ。先生が何を見つけ、何を持ち帰ろうとするのかを記録するのも、俺の役目である。ただ、俺がそういう役目として数えられていることが、胸のどこかへ小さく収まった。
どうにも、先生は人を使うのが上手すぎる。
帳面と鉛筆を鞄へ入れ、俺は玄関へ向かった。館の廊下は、昨日よりわずかに長いような気がしたが、もう驚くほどのことではない。先生の館では、壁も扉も、ときどき自分の都合で位置を変える。俺はそれを目録に記すべきか、いまだ決めかねていた。
玄関には、先生がいた。その重い木の扉の脇、普通なら外側にあるはずの呼び鈴が、館の内側へ吊られている。真鍮の小さなベルで、これまでにも何度か目にした。だが、何のためのものかを尋ねる機会はなかった。
「先生。それは何です」
「ベルだよ」
「見れば分かります」
「なら、君はずいぶん賢い」
先生は笑い、ベルを鳴らした。
音は澄んでいた。小さいのに、玄関だけでなく、館じゅうの窓硝子と書架の奥、庭の池の底まで鳴らしたような音だった。一度、余韻が消えた。それから、どこか遠い場所で同じ音が返ってきた。
先生が扉を開けた。
そして、海があった。
*
「ですから、境界とは何の境界なんです」
駅のホームへ降りながら、俺は三度目になる問いを繰り返した。館の玄関を出た時にはきちんと履いていたブーツの中へ、今は細かな砂が入り込んでいる。理屈の上では、これは海辺へ来た証拠になるはずだ。しかし、館の敷居をまたいだだけで海辺へ来たということの証拠には、あまりならない。
「固く結ばれすぎたものを、少しほどいただけさ」
「館の外は坂だという結び目を、緩めたと仰るんですか」
「そう。少しだけね」
「説明になっていません」
「そうかい?」
先生はプラットホームの端で足を止めた。帽子の鍔を押さえる指の向こうで、海は昼の色をしていた。曇り空を映した鉛色の水面が、緩い波を繰り返している。小さな集落が駅の先に見え、低い家並みの屋根から、昼の煙が真っ直ぐ上がっていた。
「難しく考えなくていい。今日は、少し変わった夕日を見に来たんだよ」
先生は懐から一通の手紙を出した。封筒は何度も開け閉めされたらしく、口のところが毛羽立っている。
「この土地では、夕方になると海から日を汲むそうだ」
「日を?」
「日を」
「太陽を、ですか」
「夕日をね」
俺は手紙を受け取った。差出人の名は、海辺の集落に住む女のものだった。文面には、夕方の習わしについて簡潔に記されていた。日が海へ触れる頃、家ごとに瓶や皿を持って浜へ出ること。汲んだ日は菓子に垂らすことも、死者へ供えることもあること。そして、末尾には二つの注意が、まるで書き足されたように細い字で添えられていた。
日が海へ深く触れたあとは、子供を浜へ出してはいけない。
その頃、汽笛が聞こえても、名前を呼んではいけない。
俺は顔を上げ、海を見た。
「夕日は、どこでも同じでしょう」
先生は、いかにも面白いことを聞いたように笑った。
「さて。それを確かめに来たんじゃないか」
海から、また汽笛が鳴った。
*
集落の人々は、先生を見ても特に驚かなかった。駅から海沿いの道を十分も歩くと、手紙の差出人だという年嵩の女が、店先で干した魚を裏返していた。先生が名を告げると、女は「遠いところを」とだけ言って、こちらの着物についた砂を一瞥した。その目は、俺たちがどこから来たのかを問う目ではなかった。来るべきものが来たかどうかを確かめる目だった。
「今日は、よく汲めると思いますよ」
女は空を見上げた。昼の雲は薄く、午後になるほど西の方から赤みを帯びていった。
「日汲み、というものを見に来たんです」
俺が帳面を出すと、女は少し考えた。
「見れば分かります」
「由来を伺いたいのですが」
「由来?」
女は困ったように笑った。話を聞くと、日を汲む理由は一つではなかった。祖父は冬に食べるためだと言っていた。夫は海で死んだ兄へ供えるものだと言っていた。隣の家の婆さんは、昔からそうするものだからそうするのだと言った。菓子屋の若い男は、ただ美味いからで十分だろう、と肩をすくめた。
俺は帳面の余白へ、それぞれの説明を書いた。死者への供物、保存食、縁起物、習慣。四つ書いてから、どれを採るべきか分からなくなった。
「結局、どれが正しいんです」
先生は女の店先に置かれた、空の瓶をひとつ手に取った。
「全部でいいじゃないか」
「記録になりません」
「記録にはなるよ。四つの答えがあった、と書けばいい」
その言い方があまりに平然としているので、俺は反論を飲み込んだ。四つの答えがあった、と書くことはできる。しかし、それでは結局、日汲みが何なのかは分からない。分類欄を埋める手は、そこで止まったままだった。四人が四人とも嘘をついているわけではない。それが、なおさら始末に悪かった。
夕方が近づくと、集落の人々は家から瓶、小皿、柄杓を持って浜へ下りていった。子供たちまで小さな硝子の器を提げていたが、大人はまだ誰も急かさない。浜は祭りの前のように静かで、笑い声だけが風へ細くほどけていた。
西の海へ、日が触れた。
最初は、ただ夕陽を映した海水にしか見えなかった。赤い光が水面を長く走り、波のひとつひとつが火を抱えたように揺れている。しかし、波打ち際へ近づくにつれ、赤は光ではなくなっていった。海面から掬い上げられたものは、柄杓の中で水よりゆっくり揺れ、濃い橙色のまま、粘りを引いて硝子瓶へ落ちた。
太陽が、少しだけ溶けていた。
村人たちは誰も声を上げない。いつもの夕方に、いつものものを汲んでいるだけだった。白い粉糖をかけた菓子の上へ、女が瓶から日を垂らす。赤橙の雫は粉を沈ませ、血にも、果実の蜜にも見える染みを作った。
先生はその瓶を眺め、断りもなく指先へ少し取った。
「先生、何を」
止める間もなく、先生は舐めた。
「なるほど。ブラッドオレンジに近いね。砂糖と、ほんの少しの塩」
「食べていいものかも分からないでしょう」
「君も試すかい?」
断るべきだった。海から汲んだ太陽らしきものを、初対面の女が菓子にかけて差し出している。まともに考えれば、口へ入れる理由はない。だが、白い粉糖に沈んだ赤が、どうにも美しく見えた。俺は小さな菓子を受け取った。
甘酸っぱく、確かに柑橘の味がした。その奥に、乾いた塩と、夕方の海の匂いが残った。口の中で日が沈む、というのはこういうことかもしれない、と一瞬だけ思った。
その時、先生が俺の帳面を覗き込んだ。
「神崎君。影を見たまえ」
日が傾くにつれ、浜の人々の影は長くなっていた。長くなりすぎて、足元から離れた影が、砂の上を別の生き物のように這っている。俺は最初、夕陽の角度のせいだと思った。だが、浜へ下りる木段の隙間へ触れた影だけが、黒い液体になって落ち始めた。
ぽたり、と板の下の砂へ沈む。舟を浜へ引き上げるための太い板の割れ目でも、家の戸口の石の継ぎ目でも同じだった。黒い染みはひと息だけ揺れ、それから何事もなかったように影の形へ戻る。
周囲の者は、誰も気に留めなかった。
「この時間はそういうものです」
先ほどの女が言った。
俺は帳面へ時刻を書いた。日没との距離、隙間の幅、影の変形、元へ戻るまでの時間。鉛筆を走らせていると、先生が静かに笑った。
「君は本当によく見ているね」
「記録係ですから」
自分でも、少し早口だったと思う。帳面へ落とした視線のまま、俺は次の項目を書いた。褒められたからではない。記録すべきことが多すぎるだけだ。もっとも、先生の声が耳に残って、鉛筆の先がいつもより軽かったことまでは否定できない。
やがて、海から汽笛が鳴った。
それまで浜にいた人々の空気が、目に見えぬ布をかぶせられたように変わった。大人たちは子供の手を取り、日汲みの瓶を急いで片付け始める。女は店の方へ走りながら、こちらへ言った。
「日が深く触れたら、浜へ子供を残さないでください」
俺は手紙の文面を思い出した。
その時だった。波打ち際に、小さな子供がひとり立っているのが見えた。
誰かが、息を呑んだ。
子供の足元は、まだ浅い水にしか浸かっていない。海は荒れていない。けれど、その身体だけが、膝のあたりからゆっくりと沈み始めていた。
「名前を呼ぶな!」
鋭い声が浜を裂いた。
子供のそばにいた女が、青ざめて口を開いた。母親なのだろう。俺は帳面を砂の上へ取り落とし、考えるより先に走り出した。その瞬間、海からもう一度、長い汽笛が鳴った。
子供の身体は、腿の半ばまで沈んでいた。




