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プロローグ 『首切り坂の夜』

挿絵(By みてみん)


 大正四年、冬。


 それまでの俺は、酒を飲めば世界は少し黙るものだと思っていた。


 少なくとも、世の酒飲みはそのために酒を飲むのだろうと、勝手に考えていた。実際、安酒を一合、二合と腹へ流し込めば、足も舌もほどよく鈍り、胸の奥に固く結ばれていたものまで、いくらか緩むような気はした。


 しかし、耳だけは駄目だった。


 隣の卓で杯の底が板へ触れる音。徳利を傾けても、もう一滴も出ないと知った男の舌打ち。店の奥で女中が鼻を啜り、そのあと誰にも聞かれぬよう、短く息を吐いたこと。勘定場では、店主の親指が帳面の角を三度撫でている。苛立っている時の癖なのだろう。もっとも、俺がそれを知ったところで何の役にも立たない。


 女中は俺の卓へ来る時だけ、炭火鉢を大きく迂回した。袖が火へ触れるのを恐れたのではない。俺の背後を通りたくなかったのだ。こちらを見ないように伏せた目が、盆の上で小さく震えていた。


 俺はこういうことばかり、よく分かった。分かりたくもないことに限って、じつによく分かった。酔えば少しは鈍くなるだろうと思ったが、鈍るのは足と舌ばかりで、目も耳も頭も、困ったことに働くのをやめなかった。人の機嫌は湯気より先に立ちのぼり、嘘は口から出る前に瞼の裏で身じろぎをした。黙っている者の沈黙には、口にされた言葉より多くのものが詰め込まれていた。


 世界は、ひどく饒舌だった。


 その晩の俺は、雪に濡れた野良犬より見苦しかったに違いない。二十八にもなった男が、安い飲み屋の隅で背を丸め、空になった徳利をいつまでも傾けている。髪は濡鴉のように黒く、顔は死人のように青白い。眠れぬ夜が続いたせいで両の目の下には墨を擦り込んだような隈が沈み、もとより白目の多い目つきは、黙って座っているだけでも他人を睨んでいるように見えた。


 おまけに身体ばかりは大きい。背丈も肩幅もあり、骨が太い。昔、軍服の上から叩き込まれた姿勢はとうに崩れていたが、身体そのものは酒と不摂生にも頑固に耐えていた。壊れたのは身体ではない。神経の方である。


 青白い顔をした大男が、薄暗い店の隅でひとり酒に沈んでいるのだ。女中が避けたくなるのも無理はなかった。


「旦那」


 店主が声をかける前に、俺は彼が何を言うか知っていた。彼は帳面を閉じ、俺の空の徳利を見て、それから俺の懐へ目をやった。ほんの一瞬だった。その短い視線の中には、勘定への疑いと、追い出す算段と、俺が暴れた場合に呼ぶべき男の人数まで、ほとんど過不足なく入っていた。


 金の心配をしたのだな、と分かった。


 分かってしまった。


「そろそろ、お勘定を」


「もう一本」


 声は思ったより明瞭に出た。舌は鈍っていたはずなのに、乞食にも似た言葉だけは器用に形を保ったらしい。店主の鼻脇がわずかに強張った。


「先に、これまでの分を願います」


 俺は懐へ手を入れた。指先に触れた硬貨を数えるまでもない。足りないことは、店へ入る前から知っていた。それでも俺は飲んだ。酒が世界を黙らせてくれるのではないかと、まだ愚かにも期待していた。


 卓へ置いた金を見て、店主は息を吐いた。その息には怒りより先に、やはり、という諦めが混じっていた。俺はそれすら拾った。


「足りませんな」


「そうでしょうね」


「帰ってください」


「もう一本だけ」


「帰れと言っているんだ」


 肩を掴まれ、俺はようやく顔を上げた。立ち上がると、店主の手から力が抜けた。彼の目が俺の肩から胸へ、それから拳へと動く。自分より頭ひとつ大きな男が、思っていた以上に頑丈な身体をしていたので、急に恐ろしくなったのだろう。


 殴られる、と彼が思ったことも分かった。


 俺は殴らなかった。


 本気で腕を振れば、この男はおそらく立てなくなる。人の身体のどこが脆いかを、俺は知っていた。知りたくて覚えたことではない。忘れたくとも、身体は雪の野に置き去りにしたはずの記憶を、骨の内側へ丁寧にしまい込んでいる。


 それに、金もないのに飲んだのは俺だ。


 怒る資格など、どこにもなかった。


 店主は俺が抵抗しないと知ると、急に声を大きくした。奥から二人の男が出てきた。ひとりの拳が頬へ当たり、口の中で鉄の味がした。もうひとりは腹を蹴った。俺は卓へぶつかり、杯をひとつ割った。その音だけが妙に澄んで、店中の視線を俺へ集めた。


 憐れみ。嫌悪。安堵。好奇心。


 人の目というものは、実にさまざまな刃を持っている。俺はそれらを一本ずつ受け取り、何も返さなかった。戸が開き、雪の夜が四角く口をあけた。男たちに腕を取られ、その口の中へ放り出される。膝から落ちた俺を、雪は拒みもせず受け止めた。


「二度と来るな!」


 背後で戸が閉まった。俺はしばらくそこに蹲っていた。雪の上へ、口の端から血が一滴落ちた。赤は白いものの上でだけ、自分が赤であることを思い出すらしい。


 やがて立ち上がったのは、生きようと思ったからではない。戸口に倒れていては商売の邪魔になると気づいたからだった。あの店主を、俺は恨めなかった。退職を勧めた上役も、恨めなかった。俺の働きを惜しんでくれた人だった。何度も勤務を減らし、休みを取り、医者にかかるよう言い、最後まで席を残そうとしてくれた。それでも俺は眠れず、食べられず、朝になると玄関の前で身体が動かなくなった。


 本は嫌いではなかった。書架の配列を正し、目録を作り、誰も所在を知らぬ一冊を埃の中から探し出すことは、むしろ好きだった。紙は人間ほど多くを語らない。記されたことだけを語り、黙っている箇所まで勝手にこちらへ押しつけてはこない。


 仕事はできる、と言われた。そのあとに、しかし、と続いた。人は、しかし、の前に置いた言葉には責任を持たない。俺は職を失った。正しく言えば、手放した。さらに正しく言うなら、とうに持っていられなくなっていたものを、ようやく指から剥がされた。


 実家へ戻ることも考えなかったわけではない。父母は戸を閉ざすまい。三人の兄たちは、それぞれに立派な人生を送っていた。四男ひとりを食わせるくらい、神崎の家には何の痛手にもならなかったはずだ。


 だからこそ、帰れなかった。妹から届いた手紙も、開けずに鞄の底へ押し込んであった。妹の文字は封筒の中にいてさえ俺を心配しており、返事を書かぬ日が増すほど、その声が大きくなるような気がした。誰も悪くなかった。


 誰も悪くない場所で生きられないなら、悪いのは俺なのだろう。恨む相手がいないというのは、存外、救いのないことだった。俺は雪の町を歩いた。往来にはまだ人影があった。軒下の灯が濡れた路面に滲み、車輪が薄雪を裂いて通り過ぎる。煮売屋からは醤油と炭の匂いが流れ、どこかの二階では女が笑った。笑い声の最後に、ほんの少し疲れが混じっていた。


 俺は歩いた。やがて店の灯が減り、人の声が背後へ遠ざかった。雪は、町の音をひとつずつ白い底へ沈めていった。屋根も、電柱も、路傍の石も、古い傷を覆い隠すように同じ色へ近づいていく。その中で俺の身体だけが、酒と泥と血の色を抱え、世界から吐き出された異物のように動いていた。


 もう死ぬしかないのではないか、と考えた。大仰な決意ではなかった。刃物も縄も持っていない。川へ入るには寒すぎたし、汽車へ身を投げるには駅まで戻らねばならない。それすら億劫だった。


 ただ、次に何をすれば生き続けられるか、それを考えることをやめたかった。気づけば、俺は町外れの坂へ向かっていた。首切り坂。いつからそう呼ばれていたのかは知らない。昔、罪人の首を落とした場所だとも、坂の上から転げた武士の首が、胴より先に麓へ着いたからだとも聞いた。坂沿いに椿が多いせいで、花が落ちる様を人の首に見立てただけだという者もいた。


 どの話も、語る者の顔つきだけは本当らしかった。坂の両脇には、その夜も椿が咲いていた。厚い葉の上に雪を載せ、赤い花だけが暗がりの中からいくつもこちらを見ている。風が枝を揺らすたび、雪がさらさらと落ちた。やがて一輪の椿が、花弁を散らさぬまま、ぽたりと雪へ落ちた。


 首だった。


 無論、花だった。そんなことは俺にも分かっている。けれども今夜ばかりは、どうにも首に見えて仕方がなかった。赤い首は雪の上で、まだ何かを考えているように上を向いていた。


 坂の上には古い洋館があった。長く空き家だったはずのその館へ、近頃、妙な外国人が住みついたという。飲み屋で聞いた噂では、骨や人形や死人の持ち物ばかり買い集めている男だった。別の噂では、たいそう名のある学者で、また別の噂では、祖国を追われた魔術師だった。


 夜ごと窓に灯がともる。誰もいない部屋でベルが鳴る。あの館へ品物を届けに入った男は二度と帰らなかった――もっとも、その男は翌月、隣町で妻と暮らしているのを見た者がいるという。噂というものは、事実よりもよく肥える。互いに食い合いながら、いつの間にかひとつの生き物になる。


 俺はその生き物の口へ、自分から入っていった。洋館へ行く理由などなかった。ただ、縁起の悪い坂なら、今の俺にはよく似合うと思ったのだ。首を落としに行くような心持ちで、一歩ずつ坂を登った。


 登るほど、町の音は消えていった。雪と、椿と、俺の荒い息だけが残った。いっそ首から上がなくなれば、さぞ静かだろう。人の顔色も、声色も、視線も、嘘も、沈黙も、もう拾わずに済む。頭というものを失えば、世界はようやく黙るのかもしれない。


 坂の上に黒い門が見えた時、俺の足はそこで役目を終えた。膝が折れた。手をつこうとしたが間に合わず、肩から雪へ倒れ込む。起き上がろうとは思わなかった。顔のすぐそばに椿が落ちていた。花の赤と、俺の口から落ちた血とが、白い地面の上で境を失っていた。


 雪は冷たかったはずだ。しかし、冷たさは少しずつ俺から遠ざかっていった。身体の輪郭が雪へ溶け、どこまでが俺で、どこからが夜なのか分からなくなる。


 このままでいい、と思った。


 その時、雪を踏む音がした。ゆっくりと、迷いのない足音だった。犬でも、死神でもなく、人間の歩幅でこちらへ近づいてくる。黒い鼻緒の草履と、濃紺の着物の裾が視界へ入った。場違いなほどきれいな裾だった。雪の夜を歩いてきたはずなのに、泥の跳ねた跡がひとつもない。


「……放っておいてください」


 俺が言うと、男はしばらく黙った。その沈黙には、困惑も憐れみもなかった。俺の言葉を聞いているというより、珍しい器物の罅でも眺めているような間だった。


「それは困ったな」


 柔らかな声が降ってきた。男は俺の傍らへしゃがみ込んだ。外国人だった。初老に差しかかった細身の紳士で、白いものの混じる髪を後ろへ撫でつけ、その上に黒いソフトハットを載せている。目尻と額には年齢相応の皺があったが、それが顔を衰えさせる代わりに、長い時間を愉しんできた者だけが持つ陰影を与えていた。


 片目にはモノクルが嵌まり、細い鎖が頬の脇から垂れている。西洋人の顔へ和服を合わせた姿は、ひどく奇妙なはずなのに、本人があまりに自然としているため、こちらの常識の方が気恥ずかしくなるほどだった。彼は俺より先に、雪の上の椿へ手を伸ばした。白く長い指が、赤い花を拾い上げる。


「綺麗だねえ」


「……死んでるでしょう」


 自分でも、なぜそんな返事をしたのか分からない。花は初めから生きても死んでもいない。ただ、枝から落ちた。それだけのことだった。


 男は椿を指先で回し、わずかに首を傾げた。


「落ちたからといって、美しくなくなるわけではないだろう?」


「もう枯れます」


「枯れるものは美しくないのかい」


「……知りません」


「結構。分からないものは、まだよく見られる」


 妙な男だった。


 そう思ったところで、彼はようやく俺へ目を向けた。モノクルの奥の淡い瞳が、腫れた頬から裂けた唇へ、雪と泥に汚れた着物へと静かに移る。俺は身を固くした。これから向けられるものを、もう知っているつもりでいた。嫌悪か、憐れみか、せいぜい善人らしい義務感だろう。


 だが、どれも来なかった。


「ひどい顔だね、君」


「……見れば分かるでしょう」


「いや。よく見ようと思ってね」


 男の指が顎の下へ触れた。俺は反射的にその手首を掴みかけた。途中で止めたのは、もはや抵抗する気力がなかったからか、それとも彼の指に妙なためらいのなさがあったからか、今でも分からない。顎を持ち上げられる。


 首を落としに来た坂の上で、俺は見知らぬ男に、顔を上げさせられた。彼は俺の目を覗き込んだ。俺は睨んだ。少なくとも、彼にはそう見えたはずだ。青白い顔の中で、隈に縁取られた白目の多い目が、愛想よく見える道理はない。


 ところが男は、面白そうに笑った。


「君、いい目をしている」


挿絵(By みてみん)


 何を言われたのか、すぐには分からなかった。怖い目だと言われたことはある。気味が悪い、神経質そうだ、何を考えているのか分からない。そういう言葉なら、いくらでも覚えていた。俺の目は、人が隠したものを見つけるくせに、自分の中にあるものまで余計に見せてしまう、出来の悪い窓だった。


 それを、いい、と言う人間は初めてだった。


「……目つきが悪い、とよく言われます」


「目つきの話ではないよ」


「では、何の」


「君が見ているものの話さ」


 男の指はまだ俺の顎にあった。薄い皮膚を通して、その指先の温度だけが不自然なほどはっきり分かった。雪も、酒も、殴られた痛みも遠のいていたのに、その温度だけが、夜の底へ打たれた小さな鋲のように俺をそこへ留めていた。


「死にたいのかい」


 問う声は穏やかだった。諭す響きも、責める気配もない。だから俺は、嘘をつく理由を失った。


「……もう、生きる理由がない」


「そうか」


 彼はそれだけ言った。生きていればよいことがあるとも、家族が悲しむとも、命を粗末にしてはいけないとも言わなかった。俺の言葉を病人の譫言として払いもせず、人生の真理のように重く扱いもせず、ただ一度、手の中で重さを確かめるように受け取った。それから、親指で俺の顎をひと撫でした。


「なら、私がやろう」


「……何を」


「君に生きる理由をやろう」


 雪の中へ、また椿が落ちた。音はしなかった。それでも俺は、その赤い首が落ちる瞬間を、たしかに聞いたような気がした。以後のことは、よく覚えていない。


 男に肩を貸されたようにも思うし、自分の足で歩いたようにも思う。記憶はそこで途切れかけている。ただ、重い扉の開く音だけは覚えていた。


 白と赤だけになっていた世界へ、暖炉の火が流れ込んできた。琥珀色の灯、濃い木の色、壁紙に沈んだ緑、男の着物の深い紺。色というものがまだこの世に残っていたことを、俺はその時まで忘れていた。濡れた着物を脱がされ、何か乾いたものに包まれた。水を飲まされ、額へ手を当てられた。看病と呼ぶには手際がよすぎ、親切と呼ぶには情が薄い。ただ、目の前の人間を死なせないために必要なことだけが、淡々となされた。


 その無関心に似た正確さが、ありがたかった。俺は火のそばで眠った。


 夢は見なかった。


     *


 翌朝、目を覚ますと、身体のいたるところが昨夜の続きを主張していた。頭蓋の内側では鐘が鳴り、頬は熱を持ち、腹と背には鈍い痛みがあった。生きている身体というものは、じつに恩着せがましい。頼みもしないのに夜を越え、その代償をひとつ残らず請求してくる。


 俺は見知らぬ長椅子に横たわっていた。掛けられていた毛布は厚く、昨日まで借りていた部屋の布団より上等だった。すぐそばの暖炉では薪が赤く崩れ、火の粉が小さな虫のように煙突へ吸い込まれていく。部屋は、ひと目見ただけでは何のための場所か分からなかった。


 壁一面を書架が占め、その前に異国の仮面と、鳥の骨格標本と、青い石を抱いた仏像が並んでいる。天井からは乾燥した植物の束が吊られ、窓辺の硝子函には、文字の書かれた卵が七つ収められていた。暖炉の上には女の肖像画が掛かっているが、顔のあるべき場所だけ、画布が四角く切り取られていた。どれも埃ひとつなく手入れされている。


 悪趣味な物置と呼ぶには美しく、美術館と呼ぶには秩序がなかった。


「目が覚めたかい」


 声の方を見ると、昨夜の男が窓辺の椅子に座っていた。帽子はなく、銀の混じる髪が朝の光を薄く弾いている。濃紺の着物の襟元は寸分の乱れもなく、片目のモノクルから垂れた鎖だけが、彼が頁を繰るたび細く揺れた。


「……どうやって、俺をここまで」


「案外、素直に歩いたよ」


 男はそう答えた。どこまで本当かは分からなかった。昨夜の記憶を探ってみても、雪の白と椿の赤ばかりが浮かび、肝心の道筋はどこにも残っていない。


 彼が手にしている本には見覚えがあった。俺の鞄へ入れていたものだった。


「勝手に人の本を読まないでください」


「おや。人の家の長椅子で寝ている男に言われるとは思わなかった」


 返す言葉がなかった。彼は本を閉じ、間に挟まれていた紙片を抜いた。それは俺が勤めていた図書館の名刺だった。裏には、神崎藤四郎、と俺の名が印刷されている。


「元司書だそうだね、神崎君」


「元、という字は印刷されていないはずですが」


「昨夜まで司書だった男は、あんな飲み方をしないよ」


「司書にも酒飲みはいます」


「だが、君の酒は楽しむためのものではなかった」


 男は静かに笑った。俺は目を逸らした。見抜かれたことが不快だったのではない。俺は普段、人の中にあるものを勝手に拾ってしまう。その俺が、拾われる側へ回ったことに慣れていなかった。


「……あなたは、誰なんです」


「ルシアン」


「それはお名前でしょう」


「私を呼ぶには十分だ」


「そういうことを聞いているのではありません。職業は」


「好事家だよ」


「それは職業ではありません」


「困ったねえ」


 ルシアンと名乗った男は、少しも困っていない顔でモノクルを直した。


「では、小説家ということにしておこうか」


「ということにしておくような職業ですか」


「肩書きとは、たいていそういうものだろう?」


 やはり妙な男だった。


 昨夜の噂を思い出した。骨を集める外国人。死人の品を買う男。夜中にベルを鳴らす魔術師。どれかひとつくらいは否定してほしかったが、彼は俺の顔を見て、むしろ愉快そうに目を細めた。


「仕事が欲しいんだろう?」


「……昨夜、そんな話をしましたか」


「顔に書いてあったよ」


「ひどい顔だと仰ったでしょう」


「ひどい字でね」


 この男と話していると、言葉が本来嵌まっているはずの場所から、少しずつずれていく。椅子も机もそのままなのに、部屋だけが知らぬ角度へ傾いていくような心地がした。ルシアンは本を脇へ置いた。


「この館には、書物がいささか多すぎる。ほかにも、記録しておきたいものがある。整理し、分類し、必要な時に必要なものを出してくれる人間を探していた」


「司書をお探しだったんですか」


「昨日までは司書だった男なら、ちょうど見つけたところだよ」


 俺は室内を見回した。書架の本は国も年代も揃っていない。分類番号もなければ、目録らしいものも見当たらない。硝子函の中の卵には一から七まで数字が振ってあるが、なぜか三だけが二つあった。鳥の骨格標本の足首には、小さな鍵が結ばれている。


「統一性がありません」


「あるよ」


「どこにです」


「私の趣味に」


 俺は額を押さえた。二日酔いの頭には、いささか酷な答えだった。


「仕事内容を、もう少し具体的に話してください」


「書物と蒐集品の整理。目録の作成。調べ物。それから、私が見落としたものを見つけること」


「あなたが見落としたものを、俺が?」


「君は人が見ないものを見ている」


 昨夜と同じ、淡い瞳がこちらを見た。


「見えすぎるなら、見ればいい。気づきすぎるなら、記録したまえ。君は、それができる目を持っている」


 あまりに簡単に言うので、俺は腹が立った。それまで何年も、医者も上役も家族も、俺自身さえ、どうすれば見ずに済むかを考えてきた。気にするな。考えすぎるな。もっと気楽に。人はそこまで他人を見てはいない。


 どれも正しく、何の役にも立たなかった。この男だけが、見えなくなれとは言わなかった。俺は長椅子の上で身を起こした。頭の鐘がいっそう激しく鳴ったが、それでもルシアンから目を離せなかった。


「雇って、何を見せるつもりです」


「世界を」


「世界なら、嫌というほど見てきました」


「いや、君が嫌になったのは、同じところばかり見せられたからだよ」


 ルシアンは立ち上がり、書架と仮面と骨と、顔のない肖像画の間を歩いた。濃紺の袖が、朝の光を連れて揺れる。


「まだ知らない土地がある。見たことのない色がある。名前を持たぬもの、用途のないもの、説明されるのを嫌うものがある。君がもう少し生きていれば、それらのいくつかを見ることができる」


 彼は暖炉のそばで足を止めた。


「死ぬのは勝手だが、せめて面白いものを見てからにしたまえ」


 ひどい雇用主だった。


 死ぬなとは言わなかった。俺の命を尊いとも言わなかった。ただ世界の方を指して、まだ見ていない、と言った。その言葉は、慰めよりずっと深く俺へ入った。


 まともに考えれば断るべき話だった。相手は素性の知れぬ外国人で、場所は死人の品を集めていると噂される洋館だ。仕事の範囲も賃金も曖昧で、室内には番号の重複した卵と、鍵をつけた鳥の骨がある。しかし、俺には帰る場所も、次の仕事も、生きる予定もなかった。


 そして昨夜、この男だけが俺の目を、いい、と言った。


「……給金は」


 ルシアンの口元が、ゆっくりと笑みを作った。


「そこを尋ねられるなら、まだ大丈夫だね」


「働く以上、当然でしょう」


「衣食住は保証しよう。給金は月に――」


 彼が示した額は、胡散臭さを差し引いても悪くなかった。俺はしばらく黙った。窓の外では、夜から降り続いた雪が庭を白く覆っている。椿の枝が重たげに撓み、その先で赤い花が揺れていた。


 やがて、花がひとつ落ちた。昨夜と同じように、花ごと、ぽたりと落ちた。首に見えることは変わらなかった。ただ今度は、その首がこちらを見ているようには思えなかった。雪の上へ赤いものが置かれた。それ以上でも、それ以下でもなかった。


 俺はそのことを、今はまだ、うまく説明できなかった。


「分かりました」


 自分の声が、思いのほか静かだった。


「お引き受けします」


 ルシアンは満足そうに頷いた。


「では、よろしく。神崎君」


 こうして俺は、首切り坂の上に住む、妙な外国人の司書になった。あの朝、もう一度生きようと決めたわけではない。ただ、この男の見ているものを、もう少しだけ見てみようと思った。それは生きる理由と呼ぶには、あまりに頼りない好奇心に他ならなかった。


 俺がルシアン先生に拾われたのは、そのような雪の晩だった。

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― 新着の感想 ―
雪と椿、古い洋館、そしてルシアンと藤四郎の空気感がとても好きです。 「世界は、ひどく饒舌だった。」から「見えすぎるなら、見ればいい。」へ繋がっていくところが特に印象に残りました。 藤四郎にとって苦し…
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