経験
人間の経験について考察していく。
まず、ここでいう経験は伝統的な哲学分野である経験論などにおける経験という語とは異なるものとして定義して、より一般的に用いられる語として経験に近い意味として定義を行う。
純粋経験なるものは仮定せず、経験と体験を区別する。体験とは、接触であり、一連の経緯それ自体を指すものとして考え、それらが解釈、概念化を経ることによって経験として認識されるものと考える。それゆえに、自己の経験と他者の経験は根本的に意味が異なるものと定義される。つまり自己の経験は自己によって解釈され、概念化されたものであり、その根底には記憶から薄れゆく体験というものが存在する。それに対して、他者の経験といったものは語られたものであり、常に異なる主体が先んじて内部構造によって解釈され、概念化されたあとの情報を取得し、さらにその「聞いた」「見た」というまた別個の形式での体験を経たうえで、それらをさらに解釈、概念化することによって経験として保持される。つまり、自己の経験と他者の経験の根本的な違いは、解釈、概念化といった処理が異なる主体によって二重に行われているということなのである。
次に経験の一般化について考察していく。経験が一般化できるか否かは問わずして、人は自らの経験を人に語るとき、その一般性をある程度考慮すると考えられる。多くの人間が同種の経験を持っており、語られたそれが一致している、あるい近似している場合、人はその一般性を支持し、そうでない場合は一般的でないことを認識したうえで言い添えることもある。
また、同一の体験的過程を経ていても、主体による感性、また先ほど述べたような解釈や概念化の過程で異なる結論や価値づけ、重みづけを行うことも多く、それらは経験の一般化を妨げるものであり、もし一般化の精度を気にするのであれば、解釈や概念化のやり方に関するより包括性の高いアプローチを行うのが合理的になるはずだが、実際の人々の解釈や概念化は、その一般化の精度についてはかなり意識が薄く、実際には一般的でない解釈や概念化を、さも一般的なものとして語るような事例は決して少なくない。
また、そうした過度な一般化が行われた経験に影響を受けるのは、同種の経験を持っていない人々であり、そうした人々は二重解釈された仮想の経験をもとに、さらにそれを他の人に伝播することがある。噂や迷信などはこうして生まれることがある。
科学や医学、その他多くの学術機関や国家機関などは、こうした人間の不安定さを軽減するために、解釈や概念化を外部化、明文化し、揺れを少なくするための工夫をしており、それらは機能的に有効である。




