PSYCHO-PASS考、贈り物について
槙島聖護は、新しい世界のビジョンを持っていたのではなく、それを創造するだけの才能を持っていなかった。本人はそれを自覚していたがゆえに、自らが可能性を感じた者に対して、力を与えていた。
彼は、豊かな社会の構造そのものに、本能的な嫌悪を感じ取っており、その改善案としては、あくまで「古い時代への逆行」というものしか持っておらず、その貧しさに対しても自覚的であった。彼は「自らの想像力の外側にある、新しい『人間らしい世界』」というものを求めてはいたが、それを具体化する創造性も、それを実現するためのビジョンも、それを相談し、共有する他者もいなかった。
彼はそれでも「人間性」を模索したがった。それゆえ、社会の端にいる人物に対し「自由に自らの望みを実現できる力」を与え、その成り行きを見守ったが、あくまでそれは「退屈しのぎ」にしかならず、自らを驚かせるには至らなかった。ただひとり、彼を執拗に追い回す一匹の猟犬にのみ、彼は強い関心を抱いた。自らの一度きりの人生が、その猟犬に噛まれることによって終わることを確信しながら、自らそれを選び、その通りに終わることを、彼はむしろ幸福に感じた。それこそが「人生」だと理解したからだろう。
彼は、自らが特別な人間であることは最初から最後まで求めておらず、どこまでも普通に生き、普通に死ぬことを望んでいた。ただ、それが叶わない社会であったがゆえに、このような道筋をたどることになったのではないかと、私は思った。
私は、特別な人間でありたいと思う。自分にとってではなく、社会にとってではなく、世界全体、人類史において、特別な存在でありたいと思うのだ。
たとえば、井戸を発明した人間は、それだけで特別な人間であると言えると私は思う。おそらく井戸は、ある一か所で発明されたものではなく、別の地域、別の場所で、それぞれ必要であったから生み出されたものであろうと思う。
それを考え、実行し、後世が継承できるようにした人物は、それが何十人、何百人いたとしても、ただ人が作ったものをそのまま受け継いで暮らし、死んでいった人と比較して、特別であったと私は言えると思っている。
つまるところ、人間を特別なものにするものは何かといえば、それは贈り物である。
未来を生きるすべての人への贈り物。それが自覚的であってもそうでなくても構わない。それが残ったとしても、残らなかったとしても、それが贈り物としての機能し、影響を与えたのならば、それで十分。
なぜならば、人間は、ただ自分や周囲の人のために生き、死んでいった場合、ほとんど何の贈り物もせずに生き、死んだのと変わらず、またそういう生き方こそが、人間としての生のデフォルトの在り方だからだ。
ほんの少しでも、この世界に対して贈りものがあったならば、それだけで、その人間は特別な人間であろうと私は思う。
私は、自分がこの先どうやってこの社会に貢献していけばいいかと考えると、とても憂鬱な気持ちになる。
だが、残りの人生で、私はこの世界に対してあとどれだけ多くの贈り物ができるだろうかと考えると、なんだか、とても楽しくて、希望に満ちた気持ちになる。




