ゼタ
碧い目をした、美しい白髪の青年が、この美しくない街の美しくない橋の上、美しくない街灯の下に立っている。こちらを見て笑って手を振った。それを見ただけで、僕はなんだか、とても悲しい気持ちになった。
「久しぶりじゃないか」
彼はそう言った。
「あぁ、うん。久しぶり」
ちょっとそっけない態度をとってしまう。どういう風に彼と接するのがいいかわからなかった。
「どうしたんだい。そんな複雑そうな表情をして」
僕は黙って首を横に振った。
「別に、何かあったわけじゃないよ……ただ、僕が今、君に会うということそれ自体に対して……疑いを抱いているんだ」
「疑い?」
「それが本当に、必要なことか、ということだよ」
彼は、昔と同じように、ふっと軽く息を吐いて、その綺麗な髪をなびかせながら、あごをあげて空を仰いだ。昔は、その仕草を見るたびに、その美しさに息を呑んだものだ。今はただ……こういう絵になる仕草を、彼は意図的にやっているのだろうか、とか、そういうことを考えてしまう。
「君はこれまで、必要なことと必要でないことを振り分けながら生きてきたのかい?」
「いや」
否定しておいて、否定した自分をまた否定したくなる。
「生きていれば、優先順位をつけることは多くなると思うんだ。僕は多分、人より、必要でないと判断したものを多く切り捨ててきたようにも思う」
「そうして、僕も一度切り捨てたのかい?」
「それもわからないんだ。本当に切り捨てていたのなら、ここに君はいられないはずだから」
彼は、ゆっくりとまた向き直って、ゆっくりと首を、一回、二回、三回と、横に振った。
「一度捨てたものを、拾いなおすことだってあるだろうさ」
「でも僕は、君を捨てたという意識も、記憶もないんだ」
「必要でないものを手放すのに、意識も記憶も、それこそ必要ないだろう? 君は多分……別の何かを愛するために、僕を愛するのをやめたんだ」
「別の何か?」
「君のお気に入りだった人が、その本質であってほしかったところ、その本質の話さ」
「……なんとなく、わかる気がする」
「でも君はそれも手放して、必要なものが何かわからなくなった。愛すべきものも。だから、昔愛していたものを再び呼び戻して、愛し方を思い出そうとしているんだ」
「でも、君を見ていても、思い出せるようには思えないんだ。君を見ても愛おしく思わないし、君の美しさに、見とれることさえできない。全部が……古くて、わざとらしいもののように思えてならないんだ」
「それは、真実だろうね」
そして、と彼は僕から視線を逸らした。少しうつむいた。見たことのない、表情だったかもしれない。
「真実であり、本質なんだろうね」
その表情のまま、彼はそう言いなおした。僕は何も言えなかった。
「どう生きればいいかわからないんだ」
僕は、率直にそう言った。
「十年前と、君は同じことを思っているんだね」
「あぁ」
「でも君は、十年前は、素直にそう言うことはできなかったんじゃないかな。そう問うだけの勇気がなくて、それに対する答えに、正面から向き合って悩むだけの、息の長さも、まだなかった」
「そうかもしれない。そうでもないかもしれない。十年前のことなんて、ちゃんと覚えていないから」
「君は『何のために生きるのか』ということに対しては、子供のころからよく考えていた。そして君は、人生に目的がないこと、生は、何かひとつの目的にただ費やすにはあまりに長く、同時に短すぎることもわかっていた。君は、その問いが、空論であることがよくわかっていたんだ。だから、他の問いもきっと空論であろうと思っていた」
「それは、そうだと思う」
「でも君は今、空論でない問いを持っている。『どう生きるか』。この問いは、目的とか、理由とか、そういうことじゃない。何を選び、何を考え、何を好み、何を捨てて、何を選んで生きていくか、ということだから。君がどの責任を負い、どの責任を放棄し、どの罪を裁き、どの罪を犯すのか。それを、自ら考えて、人生と一体化して、いわゆる『普通の人間』とは異なる、奇妙な合成獣のような存在としてその生をまっとうしようという、そういうことなのだから」
「自然体で、生きていたいと思っていたよ。つい最近まで。だって、自分の意識で何かを決めたって、うまくいくことはほとんどなくて、つらくて苦しいことばっかりで、呼吸するだけでせいいっぱいになってしまうから。だから、せめて楽に生きられるように、自分の足だけで立てるように、そういうふうになりたいって思ってた。でも、生きるってそういうことじゃない。生きるっていうのは、とっても多くの制約の中で、限られた選択肢を見出して、その中で、苦渋に満ちた選択を繰り返すことなんだ。どの選択肢を見つけて、どんな苦しみを味わって、どんな涙を流すのか。それを選ばらないとか、流れに身を任すとか、そんなのはただの詭弁。責任の放棄という、責任の負い方をしているだけで、結局は、生きることに囚われているんだ。だから僕は……この生の檻から解放されることではなくて、この檻の中で、何をするかを考えなくちゃいけないんだ」
「君はずいぶん長い遠回りをしてきたのだと思う。その分、人よりも、ずいぶん出遅れてしまったのかもしれない。今更、君は君よりものを知らず、身勝手で衝動的な人々が十何年も前に通り過ぎてきた道のあとを、追って歩いていかなければいけないのかもしれない。君の人生にはこの先、痛みと苦しみがたくさん待っていることだろうと思う。きっと、人並みの、だけれど、耐えがたい、苦痛が、君を何度も試すだろうと思う。君はそのたびに、歯を食いしばりながら耐えて、その中で、最善はどれだろうと、健気に考えて、信じた方を選び続けるのだろうと思う。そして時には間違えて、そのたびに深く反省して、反省しても決してその結果が変えられないことと、その反省が生かせる機会が二度と得られないという事実にまた苦しみながら、それでも反省せずにいられないその性分とともに、死ぬまで苦しみ続けるんだ。それでもいい、と、その刑罰を甘受しながら」
「君の口からも、そういうことを聞く羽目になるなんてね」
うんざりしたような口ぶりながら、僕の目は潤んでいた。喉は落ちてきた涙と鼻水でひりひりと痛んだ。
「結局僕らの役割はそれだけなんだ。君に、現実の生と向き合うことを諭すこと。この残酷で、どうしようもない現実と」
「でも僕はいつも思うんだ。これもきっと、一個の現実逃避なんだろうけれど。僕は……僕に対して、こういう生き方を選ばせることに対して、どうすればいいかわからない。でも、他の人に対して、同じことを言うことはできないと思うんだ。他の人に、こんな残酷なことを押し付けて、そのように生きろなんて言うのは、無理だ。できない。でも事実は……みんな、僕とそう変わらない。僕より状況が悪い人だって、山ほどいる。そういう人たちに、君は同じことを言うのかい? 人生は、よいものではないけれど、それでも、自分自身がよい存在であるために、悩み、苦しみ、その先に報いもなく、ただ意味もなく死んでいくことを、そう確信しながら、選択し続けるべし、だなんて」
「それにふさわしい人は、多くない。知らないまま死んで行ける人は、それでいいじゃないか」
「それは、悲しい選民思想だよ。慰めみたいな、小さな優越感で、少しでもその苦しみを耐えやすくするための。粗悪な鎮痛剤だよ」
「それなら、他にどんな答えがあるんだい? どうやって君はこの世界を許して、生き続けられるというのかい?」
「きっと、何かあるんじゃないかと思ってるんだ。もっと、よい真実が。この世界には、僕らにはまだわからない、もっと広くて深い、価値みたいなものが隠されているんじゃないかって。信じるとか、賭けるとか、そういうんじゃないけど、僕の目にはまだ、光を探すための機能が残っているように思うんだ。その限りは、諦めきってはいけないんじゃないかって、そうも思ってる。たとえ、何も見つからないとしても、それでも、あると仮定して、探している方が、いいんじゃないかって」
「だから、意味がないとわかっていても、古い価値である僕を呼んだんだね。でも、この会話は君の中で何度も繰り返してきたものだろう? それを誰が話していたってきっと同じはずだよ。僕が君に言っても、君が別の人に言っても、それは、きっと何も変わらない」
「うん。結果として、今回も変わらなかった。でもまた、僕はこれを繰り返すだろうと思う。何か違うことが起こるかもしれないから。意味もなく、苦しみ続けることをそっくりそのまま受け入れる以外の、もっといい生き方が見つかるのではないかって、そんな愚かな想いを抱きながら、ね」
「多分君は認めないだろうけどね、僕はこう思うんだ。君はきっと、君が思っているよりも、美しくて、価値のある存在なんだろうってね」




