隠された聖女2
教会の一室。
午後の光が、白い壁を淡く染めている。窓から差し込む風は柔らかく、カーテンをゆっくりと揺らしていた。
その静けさの中で――桜は、小さく座っていた。
椅子の端に、体重を預けきらないように。
いつでも逃げられるように。
そんな座り方。
足は床に届かず、宙でわずかに揺れている。
無意識なのだろう。
不安が、そのまま形になっている。
(……軽い)
わたくしは向かいに座りながら思う。
手首は細く、骨の形が浮いて見える。
頬も、少しこけている。
食事だけの問題じゃない。
緊張と恐怖で、まともに眠れていなかった顔。
(こんな状態になるまで、“放置”じゃなくて“管理”してたのね)
胸の奥で、じわりと嫌悪が広がる。
怒りとは少し違う。
もっと粘ついた、不快な感情。
吐き捨てたくなるような。
(人を、何だと思っているのかしら)
思考が冷えていく。
感情が、鋭くなる。
――強制召喚。
それ自体が、既に踏み越えている。
本人の意思も、人生も、全部無視して。
勝手に引きずり込む。
それだけでも十分に“外道”だ。
なのに。
(その上で、“使えそうな方だけ表に出す”?)
ユイは“扱いやすい聖女”。
ミレイは“表向きに都合のいい聖女”。
そして桜は――
(選別から外れて、地下に封じられた)
利用価値で仕分け。
人間を。
物みたいに。
思わず、指先に力が入る。
だが、すぐに緩める。
ここで見せる顔じゃない。
この子に向ける感情じゃない。
ゆっくりと息を吐く。
視線を落とす。
桜が、こちらを見ていた。
不安そうに。
でも、目を逸らさずに。
(……見てるのね)
ちゃんと。
こちらの“空気”を。
この子は、もうそれを読む癖がついている。
怒られないように。
捨てられないように。
(本当に、ろくでもないことをしてくれたわね)
胸の奥で、怒りが静かに燃える。
でも表には出さない。
出すべき相手は、別にいる。
「桜」
できるだけ穏やかに呼ぶ。
それだけで、肩がびくりと揺れる。
反射。
条件反射。
(……はぁ)
ため息を飲み込む。
「怖い?」
あえて聞く。
逃げ道を作る。
桜は、少し迷って――
「……ちょっと」
小さく答えた。
“ちょっと”。
きっと本当は、もっと怖い。
でも、それ以上言うと何かが起きると学習している。
(抑えてる)
感情を。
八歳の子供が。
「そう」
頷く。
「でも大丈夫」
ゆっくりと言葉を置く。
「ここは、あなたを閉じ込める場所じゃない」
桜の目が、わずかに揺れる。
「……ほんとに?」
確認。
何度も。
当然。
「ええ」
視線を合わせる。
逸らさない。
「少なくとも、わたくしがいる限りは」
言い切る。
断定する。
曖昧さを残さない。
桜は、じっとこちらを見て――
ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
それでも完全には抜けない。
長く染みついたものは、そう簡単には消えない。
(時間がかかるわね)
でも、それでいい。
急がない。
「これからの話、するわね」
桜が、また少し身を固くする。
その反応が、胸に刺さる。
(“話=決定”だったのね)
今までは。
本人の意思なんて関係なく。
勝手に決められてきた。
だから、構える。
「難しいことは言わないわ」
前置き。
「あなたは、ここにいていい」
短く、はっきり。
桜の目が見開かれる。
「どこかに閉じ込めたりもしない」
「……」
「勝手にどこかへ連れていったりもしない」
一つずつ、否定していく。
これまで受けてきたであろうことを。
「ここで、普通に生活してもらう」
“普通”。
その言葉に、桜が少しだけ首を傾げた。
分からないのだろう。
その“普通”が。
(そりゃそうよね)
経験していないのだから。
「ご飯を食べて」
「眠って」
「話して」
ゆっくり、噛み砕く。
「それだけ」
桜は、しばらく考えて――
「……それでいいの?」
不安そうに聞く。
条件を探している。
“対価”を。
(ないのよ)
本当は。
そんなもの。
「いいの」
即答する。
「むしろ、それをやってもらわないと困るわ」
少しだけ冗談めかして。
空気を軽くする。
桜の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑いにはならない。
でも、変化はある。
(よし)
ほんの少しだけ、前に進んだ。
立ち上がる。
手を差し出す。
「とりあえず、ご飯にしましょう」
桜がその手を見る。
じっと。
長く。
迷っている。
触れていいのか。
信じていいのか。
(……ゆっくりでいい)
急かさない。
待つ。
時間をかける。
やがて。
そっと。
本当にそっと、指先が触れる。
冷たい。
でも、生きている温度。
そのまま、手を握る。
逃がさないように。
でも強すぎないように。
歩き出す。
桜は、少しぎこちなくついてくる。
一歩。
また一歩。
その歩幅は小さいけれど、確かに前へ進んでいる。
廊下に出ると、光が一段明るくなる。
桜が目を細めた。
その仕草が、妙に幼くて――
(ああ、本当に子供なのね)
当たり前の事実が、胸に落ちる。
守られるべき存在。
守られなかった存在。
だからこそ――
(今度は、こちらがやる番)
後ろで、フリックが静かに扉を閉める音がした。
その音が、妙に“区切り”のように聞こえる。
地下と地上。
過去とこれから。
はっきりと分かたれた気がした。
「ねぇ」
桜が、小さく声を出す。
「なに?」
「……ここ、こわくない?」
足を止める。
振り返る。
その目は、まだ揺れている。
当然だ。
場所が変わっても、すぐには変わらない。
怖さは残る。
でも。
「怖いものは、あるわ」
正直に言う。
桜の目が少し大きくなる。
「でも」
軽く笑う。
「わたくしの方が、もっと怖いから大丈夫よ」
「……え?」
ぽかん、とする桜。
その顔に、ほんの少しだけ間ができる。
緊張が、緩む。
「だから安心して」
そのまま歩き出す。
桜も、ついてくる。
さっきよりも、ほんの少しだけ足取りが軽い。
(……決めたわ)
心の中で、静かに。
桜は、わたくしの管理下に置く。
守る。
育てる。
“普通”を教える。
そして――
(あの連中には、きっちり落とし前をつけさせる)
強制召喚。
選別。
監禁。
全部まとめて。
許すつもりはない。
絶対に。
その代わり。
この小さな手は、離さない。
――それが、わたくしの出した答えだった。




