第九章 北口
駅員は、律の名前を知っていた。
北口改札の脇で電話を耳に当てたまま、雨に濡れた三人を見つめている。五十歳前後。濃紺の制帽を目深にかぶり、左胸には銀色の名札がついていたが、離れた場所から文字までは読めなかった。
律のスマートフォンには、通話を切られたあとの暗い画面だけが残っている。
「近づくな」
律が言うと、先に足を止めたのは澪だった。未明は二歩進んでから振り返り、腫れた右手首をコートの内側へ押し込んだ。
「駅員だろ」
「まだ分かりません」
「制服着てんじゃん」
「制服は、本人の身分を証明しない」
駅員の唇が動いた。電話の相手へ何か答えたらしい。次の瞬間、右手からスマートフォンが落ち、硬い床を滑った。
男の膝が折れた。
受け身を取ることもなく肩から倒れ、制帽が改札機の下へ転がっていく。額が床へ当たる鈍い音に、券売機の前にいた女が短い悲鳴を上げた。
「動かないで」
律が止めるより早く、澪が駆け寄った。
男を仰向けにし、頸動脈へ指を当てる。呼吸を確かめようと顔を寄せたところで、閉じていた男の右手が動いた。澪の手首をつかんだのではない。掌に隠していた透明な筒を、床へ置いた。
カートリッジだった。
「律」
澪の声が低くなる。
男のスマートフォンから、蘭堂の声が流れた。
『残り一分四十秒です』
律は左手首を見た。
> 22:06 CORTISOL 6.9
> CARTRIDGE 1 MIN
表示の下で、赤い警告線が明滅している。共栄興業ビルを出たときには残っていた指先の感覚が、今は親指の付け根まで遠のいていた。耳の奥では、改札を通る電子音が水の底から聞こえるように鈍く重なっている。
澪が男の胸元を開き、呼吸と脈をもう一度確かめた。
「意識はある。脈も乱れてない。ねえ、聞こえてるでしょ」
呼びかけても男は目を開けない。ただ、律の側からは、伏せた睫毛が一度だけ震えたのが見えた。
『一本目をお届けしました。どうぞ、お使いください』
「中身を証明してください」
『できません』
「封が切られている」
床に置かれたカートリッジは、外見だけなら通常品と変わらない。透明な薬液は男が倒れた衝撃で細かく揺れ、底面のチップにも異物は見えなかった。しかし、キャップと本体をつなぐ封印には、針先ほどの切れ目が入っていた。
『では、使わなければいい』
蘭堂は穏やかに答えた。
『安全を確認して死ぬか、私を信用して生きるか。久世さんがお好きな方を』
「信用はしていません」
『それでも使う?』
律は答えず、男の顔を見た。倒れたとき、右肩から先に床へ落ちている。頭を守ろうとした動きはなかったが、額が床へ当たる直前、顎だけはわずかに引かれていた。失神した人間の反応ではない。
視線を制服へ移す。左胸の名札には名字ではなく、銀色の板に黒いテープが貼られている。男が立っていたあいだ、一度だけ改札機の警告音が鳴った。通り抜けられずにいた客が助けを求めても、彼は顔さえ向けなかった。
「その人は、駅員ではない」
未明が男の胸元を見下ろした。
「じゃあ何なんだよ」
「蘭堂さんの人間です」
『正解です』
倒れた男の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
『ですが、中身が本物かどうかは分からない。あなたの問題は一つも減っていません』
腕時計が長く震えた。
> CARTRIDGE EMPTY
ポンプの作動音が止まる。
それまで腹部の奥にあった鈍い圧迫感が消え、代わりに身体の輪郭そのものが薄くなっていく。呼吸を吸い込んでも胸がひろがらず、膝から下へ血が落ちていかない。
澪が床のカートリッジを拾った。
「律、時間ない。入れるよ」
「待って」
止めたのは未明だった。澪の手から奪おうとはせず、透明な薬液を睨みつけている。
「毒だったらどうすんだよ」
「入れなくても死ぬ」
「だからって、こいつの言うとおりに――」
「未明さん」
律が名前を呼ぶと、彼女の口が止まった。
声を出したつもりだったが、自分の耳にもほとんど届いていない。律は壁へ左肩を預け、ポンプの蓋を開いた。空になったカートリッジを抜こうとして、指が留め具を二度滑る。
澪がその手を押さえた。
「私がやる」
律は拒まなかった。
澪は封の切れ目を一瞥し、カートリッジを差し込んだ。蓋が閉じる。読み取りに必要な数秒が、改札前のすべての音を奪ったように長く続いた。
ポンプが、一度だけ低く鳴った。
> 22:07 CORTISOL 6.7
> CARTRIDGE 43 MIN
> DOSE RISING
新しい薬は認識された。それでも数値は〇・二下がっている。投与された薬が身体へ回るまでの遅れを、腕時計は待ってくれない。
『なぜ、使ったのですか』
「あなたは、まだ私を死なせない」
律は壁から肩を離した。
「死なせるだけなら、路地で六本とも奪えば終わっていました。あなたが欲しいのは、私が選ぶところです」
通話のむこうで、蘭堂が小さく息を吐いた。笑ったようにも聞こえた。
『ご自分の価値を、ずいぶん高く見積もるようになった』
「あなたの都合を計算しただけです」
『それで結構。二番ホームから、二十二時十分発の各駅停車が出ます。北口改札を通り、階段を上がって、最後部車両へ乗ってください。発車まで二分二十秒です』
頭上のスピーカーから、蘭堂の言葉を追うように発車案内が流れた。改札の内側で待っていた客が動きだし、階段へ続く狭い通路に人の背中が重なっていく。
「乗ったら、どうなるんです」
『少なくとも、警察より先に歌舞伎町を出られます』
「未明さんの弟は」
『その質問は、彼女から聞きたい』
倒れていた男が目を開けた。
澪が反応するより早く上体を起こし、床に落ちていたスマートフォンをつかむ。未明が左手を伸ばしたが、男は画面を彼女へ向けてから、すぐに胸元へ引いた。
暗い部屋に、椅子へ縛られた優真が映っていた。
六秒で終わった動画とは違う。少年の胸が上下し、顔の横を小さな虫が飛ぶと、閉じていた瞼が動いた。画面の隅に表示された時刻は、二十二時七分。ほんの数秒前だった。
「優真」
未明の声から、荒さが消えた。
男は立ち上がった。制帽を拾うこともなく、北口の外へ走り出す。
「待て!」
未明が追った。
律は腕を伸ばしたが、指先がコートの背をかすめただけだった。
「三枝さん、行くな!」
未明は振り返らない。痛めた右腕を腹へ押しつけ、左腕だけを振って雨の中へ飛び出していく。
澪があとを追おうとしたところで、改札内から本物の駅員が駆けてきた。
「お客さま、どうされました!」
四十代ほどの駅員は、床に残された制帽と空のカートリッジを見て足を止めた。それから律の顔へ目を移し、表情を変える。
見覚えがある。
その反応が言葉になる前に、券売機のそばから女の声が上がった。
「この人、動画の男じゃない?」
周囲の空気が止まった。
律の顔とスマートフォンの画面を見比べる者が一人、二人と増えていく。改札を通りかけていた若い男が足を止め、カメラをこちらへ向けた。
「駅員、倒したのこいつ?」
「さっき薬みたいなの取ってた」
「警察、呼んだ方がいいんじゃない」
誰も近づかない。その代わり、黒いレンズだけが四方から律へ向けられた。
律のポケットで、スマートフォンが震えた。画面には番号も名前もなく、灰色の円だけが表示されている。応答すると、倒れていた男の端末から流れていた声が、今度は律の手の中へ移った。
『残り一分四十秒』
先ほどと同じ言葉が、今度は電車の発車までの時間として繰り返された。
正面の駅員が無線機へ手をかける。澪が律と人垣の間へ立った。
「この人は患者です。いま治療が必要で――」
「澪」
律は声を落とした。
「説明しても、今は誰も聞かない」
「だからって一人で行く気?」
「未明を追って」
澪の眼が細くなる。
「また置いてくの」
律は答えられなかった。
未明を追うなら、澪の方が速い。今の律がついていけば二人の足を遅らせ、警察に囲まれる人間が三人へ増えるだけだった。一人が追い、一人が電車で包囲を抜ける。その方が生き残る確率は高い。
計算は、今回も間違っていなかった。
答える代わりに、改札機へ交通系ICカードを触れさせた。電子音が鳴り、薄い扉が左右へ開く。
背後で、澪が何か言った。群衆の声と発車案内に重なり、言葉までは聞き取れない。律は振り返らず、ホームへ続く階段を上がった。
*
一段ごとに、脚が自分のものではなくなっていく。
右足を上げたつもりが、靴先が段差へ当たる。手すりをつかんだ左手には冷たい金属の感触がなく、指が触れているかどうかは、肩の位置で判断するしかなかった。
前を歩く会社員が腕時計を見て速度を上げる。その背中を避けようとした若い男が律の肩へぶつかり、「すみません」とだけ言って先へ行った。
誰にとっても、ただの終電前だった。
ホームへ出ると、各駅停車の扉が開いていた。車内には空席もあるが、立ったままスマートフォンを見ている客が多い。最後部車両のドア脇で、制服姿の車掌が発車時刻を確かめている。
律は腕時計へ目を落とした。
> 22:09 CORTISOL 6.9
> CARTRIDGE 40 MIN
〇・二戻っている。少なくとも、カートリッジには有効な薬が入っていた。
それでも、視界の縁にできた暗い輪は消えず、雨で濡れたホームの白線だけが異様に明るく浮き上がっている。
車内へ入れば、電車は一分足らずで動き出す。高田馬場まで行けば別の路線へ移れる。警察も、蘭堂の人間も、少なくとも今いる群衆からは離れられる。
律は開いた扉の前まで進んだ。
発車メロディーが鳴る。
その音の下から、女の叫び声が聞こえた。
「離せ、クソ野郎!」
未明だった。
律はホームの端から下を見た。北口へ続く階段の踊り場、その格子窓のむこうに、雨の路地が細く見える。偽の駅員を追っていった未明が、二人の男に両腕を押さえられていた。
一人は未明の左腕を背中へねじ上げ、もう一人は負傷している右手首をつかんでいる。未明が身体を捻るたび、腫れた関節へ男の指が沈み、悲鳴が歯の間から漏れた。
澪が男の背中へつかみかかった。振り払われ、濡れた路面へ片膝をつく。
律の右足は、すでに車内へ入っていた。
扉が閉まりはじめる。
『そのまま乗ってください』
スマートフォンから蘭堂の声がした。
『薬は手に入りました。三枝さんの弟も生きている。あなたが戻って得られるものはありません』
閉じる扉の隙間から、未明の顔が見えた。
彼女はこちらを見ていない。男の手へ噛みつこうと首を伸ばし、右手首をさらに捻られて、膝から崩れている。
戻れば、電車は出る。
逃げ道を失い、群衆と警察のいる北口へ引き返す。未明を助けられる保証もない。数値はまだ六・九で、走れば新しい一本も急速に失われる。
計算すれば、答えは出ていた。
律は車内から右足を抜いた。
扉が閉じる寸前、身体をホーム側へ滑り込ませる。コートの裾が一瞬だけ挟まり、警告音とともに扉が開き直した。
「お客さま、危険です!」
車掌の声を背中で聞きながら、律は階段へ向かった。
『なぜ戻るのです』
蘭堂がたずねた。
「分かりません」
律は手すりをつかみ、一段目を下りた。
「だから、戻ります」
発車メロディーが止まり、扉が閉まる。電車は律を残して、雨に濡れた線路のむこうへ動き出した。
*
階段を下りきる前に、北口から未明の姿が消えた。
外へ出ると、白いワンボックス車が線路沿いの道を走り去るところだった。後部の曇った窓に、誰かの掌が一度だけ当たり、すぐに見えなくなる。
律は追おうとした。
二歩目で右膝が落ち、改札脇の壁へ肩からぶつかった。澪が駆け寄り、倒れる寸前の身体を支える。
「走るな。薬入れたばっかりでしょ」
「車の番号を」
「見えなかった」
「色は」
「白。そこまで。……ごめん」
律は息を整えながら、車が消えた交差点を見た。謝る必要がないことを伝える言葉が出てこない。代わりに、左手首を持ち上げた。
> 22:11 CORTISOL 6.8
> CARTRIDGE 36 MIN
階段を往復し、数十メートル走っただけで、予測残量が四分減っている。数値は再び下がっていた。
北口の内側では、本物の駅員が無線で応援を呼んでいる。遠くから近づくサイレンは、雨音に紛れていても一台ではなかった。
「律、ここにいたら――」
澪が言いかけたところで、周囲のスマートフォンがほとんど同時に鳴った。
通知音は一つずつ違っていた。それでも、券売機の前、タクシー乗り場、雨宿りをしている若者の手元で、同じ縦長の映像が開いていく。
画面の中で、偽の駅員が倒れた。
そのそばへ律が近づき、床からカートリッジを拾う。実際には澪が拾ったはずの場面が、別の角度からは律が男の胸元を探り、何かを奪ったように編集されていた。
映像の題名が赤い文字で重なる。
> 《歌舞伎町刺傷事件の男、西武新宿駅員を襲撃》
視聴者数は一万二千を越え、画面を更新するたび数百ずつ増えている。
コメント欄には、《北口にいる》《女も共犯》《警察きた》《逃がすな》という言葉が流れていた。
その映像が途切れ、暗い車内へ切り替わる。
未明が映っていた。
後ろ手に縛られ、口元を男の掌で塞がれている。右手首は不自然な方向へ曲がり、痛みに耐えるためか、額を前の座席へ押しつけていた。
カメラの外から蘭堂の声がする。
『久世さん。北口を出て線路沿いを南へ。西武新宿駅前通りを渡り、シネシティ広場の中央まで来てください』
映像の下に、新しい時刻が表示された。
【切断まで 06:00】
「切断?」
『篠宮さんと二人で。警察へ保護を求めても構いません。ただし、今あなたを見ている一万二千人のうち、何人が警察より先に近づくかは、私にも分からない』
券売機のそばにいた若い男が、スマートフォンを構えたまま一歩近づいた。別の男は、逃げ道をふさぐように北口の前へ立っている。
彼らの顔に怒りはなかった。
画面の中の出来事を、もっと近くで見たいだけだった。
視聴者数が、一万三千を越えた。
『次は、皆さんの前で選んでいただきます』
未明の右手を押さえている男が、小指だけを伸ばした。
その爪の根元へ、刃先が触れた。
律の左手首が震える。
> 22:12 CORTISOL 6.7
六分後に何が起こるのか、説明は必要なかった。




