第八章 一本目
三十分——蘭堂が区切った猶予は、電話のやり取りだけですでに半分近くが溶けていた。
律はスマートフォンをポケットへ戻し、通路の壁から身体を離した。
「行きます」
「は? 一人で行く気?」
未明が眉を吊り上げた。
「あなたを巻き込むわけには」
「もう巻き込まれてんだよ。名前まで知られてんのに、今さら」
未明は痛めた右手首をコートの内側へ引っ込め、左手だけでリュックの肩紐を締め直した。反論の余地を最初から与えない口調だった。
澪もトートバッグを肩にかけ直す。
「私も行く」
「澪まで来る必要はない」
「無関係な子の指が、今から切り落とされようとしてるんだけど」
それ以上の議論は、誰の口からも出なかった。
*
表通りに出た途端、律は反射的に足を止めた。
靖国通り沿いのビル壁面ビジョンに、まだ夜のニュースが流れている。画面の隅に、見覚えのある灰色のコートの静止画がよぎった。律は顔を伏せる。
未明が無言でリュックのポケットからキャップを取り出し、律の頭へかぶせた。
「喋んな。俯いてろ」
タクシー乗り場には、客待ちの車が数台並んでいる。先頭の運転手はスマートフォンを覗き込んだままで、開いた窓からニュースアプリの通知音が漏れていた。律たちは二台目を選んだ。
助手席側の窓に背を向ける位置で、未明を先に乗せる。律は最後に、俯いたまま滑り込んだ。
「西新宿五丁目まで、お願いします」
澪が先に行き先を告げた。運転手はミラー越しに一瞥し「……かしこまりました」
と、少し戸惑いつつも車を発進させた。ラジオからは天気予報に続いて短いニュースが流れはじめる。
『……歌舞伎町で発生した傷害事件で、警視庁は依然として、犯人と見られる男の行方を――』
「すみません、ラジオ、消してもらえますか。車酔いしやすくて」
澪の声に、わずかな硬さが混じった。運転手は特に疑う様子もなく、つまみへ手を伸ばす。
車内に、雨音とタイヤの水音だけが残った。
窓の外を歌舞伎町のけばけばしい光が流れ去り、青梅街道を越えたあたりから、街の密度が急に薄くなっていく。低層マンションと古い倉庫、シャッターの下りた工場が入り混じり、街灯の間隔も間延びしていった。
助手席の後ろで、未明はキャップの下から窓の外をうかがっている。澪はスマートフォンを握ったまま、ときおり律の横顔を見た。誰も、これから何が起きるかを口にしなかった。口にした瞬間、それが確定してしまう気がした。
> 21:35 CORTISOL 7.4
> CARTRIDGE 30 MIN
新しいカートリッジへ交換してから十六分。薬は正常に入っている。それでも、殴られた脇腹の痛みと、次に何が起こるか分からない緊張に、投与が追いついていなかった。
律は腕時計の光を袖の内側へ隠し、目を閉じた。四秒吸って、六秒吐く。タクシーの振動が、いつもより身体の奥へ響いた。
フロントガラスに、最初の一粒が当たる。
天気予報にはなかった雨だった。
「……降ってきた」
未明がつぶやいた声は、誰に向けたものでもなかった。
「西新宿五丁目の交差点を越えたところで停めてください」
澪が運転手に告げた。目的地の正確な位置を知られないためだった。運転手は何もたずねず、方南通り沿いへ車を寄せた。
タクシーを降り、表通りから一本入った坂道を西へ下ると、神田川沿いの細い道へ出た。古い商店とアパートが並び、雨に濡れた街灯の光が、黒い川面で途切れている。
西新宿五丁目の外れまで歩いたところで、色褪せた看板に《共栄興業ビル》と書かれた五階建ての建物が現れた。外壁は半分が解体用の足場に覆われ、上層階の窓はほとんど割れている。裏口へ回ると、指示どおり鉄扉が薄く開いていた。
腕時計を見る。
> 21:49 CORTISOL 7.6
> DEADLINE 2 MIN
車内で身体を動かさず、呼吸を抑えていたぶんだけ、数値は〇・二戻っている。それでも安全域には届かず、猶予もあと二分しかなかった。
*
律が先に扉を押すと、埃と錆の匂いが鼻を突いた。床には割れたガラスと、めくれたビニールシートが散らばり、踏むたびに湿った紙の感触が靴底へ伝わる。天井の配管はところどころ剥き出しになり、雨水がどこかから滴る音が、規則的に暗闇へ落ちていた。非常灯だけが灯る一階フロアの奥に、パイプ椅子が一脚置かれている。
「皆川」と社員証に書かれていた若い女性が、そこに座らされていた。両手を後ろで結束バンドに固定され、口元にはガムテープ。入ってきた三人を見て、目だけが大きく見開かれる。
その傍らに、大柄な男が立っていた。
尾関だった。
黒いブルゾンの内側から右手でスマートフォンを取り出し、スピーカーモードのまま静かに掲げる。
『時間どおりです。褒めて差し上げたいところですが』
蘭堂の声が、埃っぽい空間に反響した。
『今回、私はここにいません。手の離せない別件がありまして』
「用件を」
律が言うと、尾関がテーブルの上を顎で示した。
白い保冷ケースが一つ、置かれている。
『中には、カートリッジが三本。あなたの身体を、最長で四時間半保たせられます』
律の左手首が震えた。四時間半という数字の重みが、指先まで伝わってくる。今の残量では、明日の朝どころか、この夜さえ危うい。
『取り方は簡単です。彼女を助けなければいい。尾関に引き渡していただければ、ケースはそのままお持ち帰りいただけます』
「彼女をどうするつもりですか」
『何も。ただ、あなたが選ばなかった証拠として、しばらく預からせていただくだけです』
皆川の喉から、くぐもった声が漏れた。ガムテープの下で、何かを訴えようとしている。
未明が一歩前へ出た。
「ふざけんな」
尾関の視線が、初めて未明の方へ動いた。腰の高さで握られたナイフの柄に、指がかかる。
『ふざけてはいません。三枝さん、これはあなたの弟のときと、まったく同じ構造です。誰かを引き換えにするか、しないか。それだけです』
澪が律の腕をつかんだ。
「律。時間ない、はやく決めて」
律は白いケースへ目を落とした。四時間半――今の残量を考えれば、目の前の十数分に追われず、次の手を探せるだけの猶予だった。数値に換算すれば、迷う余地のない答えのはずだった。
視線を上げると、皆川の目と合った。
恐怖に見開かれたまま、彼女は瞬きもせずこちらを見ている。テープの下の唇が、声にならない何かを繰り返し形づくっていた。
律は、パイプ椅子の脚の角度も、結束バンドの食い込み方も、もう数えていなかった。喉の奥が、乾いているのとは違う渇きで詰まっている。
「彼女を離してください」
『……ほう』
蘭堂の声に、初めて短い間があった。
「ケースは要りません」
『理由を聞いても?』
「計算していません」
律がそう言うと、尾関の肩がわずかに動いた。ナイフを持った手が、皆川の首筋へ一段近づく。指示を待つような、あるいは指示を煽るような、小さな揺れだった。
澪が息をのむ音がした。未明が半歩、皆川の方へ踏み出そうとするのを、律は左腕で制した。
何秒か、応答はなかった。雨音だけが、割れた窓の外で強くなっていく。
『尾関。彼女を離しなさい』
蘭堂の声が響くと、尾関は無言でナイフを取り出し、皆川の手首を縛る結束バンドを一度で断ち切った。テープを剥がされた皆川が、激しく咳き込みながら床へ崩れる。澪がすぐに駆け寄り、その背中を支えた。
尾関は白いケースを持ち上げると、律たちには目もくれず、ビルの奥へ引き返していった。ケースを持ち去られたことに、誰も抗わなかった。抗う理由が、もう律の中になかった。
『久世さん』
蘭堂の声が、まだ電話越しに残っていた。
『今夜、いくつかの数字を集めるつもりでしたが——あなたは今、私の予想にない答えを出しました』
「それが何か」
『次からは、もう少し、条件を厳しくする必要がありそうです』
「次があるんですか」
『もちろん。今夜の観察を、ここで終わらせるつもりはありません』
スピーカーのむこうで、蘭堂が何かを机へ置く硬い音がした。
『次の一本は、二十二時五分に西武新宿駅北口でお渡しします。改札の外へ、三人そろってお越しください』
「受け渡す人間は」
『着けば分かります。遅れた場合、その一本は処分します』
通話は、それきり切れた。
澪は皆川の背中をさすりながら、律の方を一瞬だけ見た。何かを言いかけて、結局は口をつぐんだ。二年前には見たことのない顔だった。
*
「……マジで、もらわなかったの」
未明が呆れたように言った。皆川を澪に任せ、律の顔をのぞき込む。
「はい」
「バカじゃねえの」
罵る声に、しかし棘はなかった。
律は答えず、腕時計を見た。
> 21:53 CORTISOL 7.3
> CARTRIDGE 13 MIN
四分で、〇・三。皆川の怯えた眼を前にしていたあいだ、ポンプは動きつづけていた。それでも、痛みと緊張で増えた必要量には追いつかなかった。
残り十三分。次のカートリッジのあてはない。
それでも、喉の渇きは、さきほどより少しだけ軽くなっている気がした。数値では測れない場所に、何かが残っている。それが何なのか、律にはまだ名前がつけられなかった。
*
裏口を出ると、雨脚が強くなっていた。街灯の下で、皆川が震える声で「ありがとうございました」と繰り返している。澪は自分のコートを脱いで彼女の肩へかけ、タクシーを呼ぶために表通りへ向かった。
皆川を乗せて見送ったあと、皆川を乗せたタクシーを見送ると、澪はすぐに後続車へ手を上げた。西武新宿駅まで歩けば、律のカートリッジが先に尽きる。
「西武新宿駅の北口までお願いします」
三人が後部座席へ乗り込むと、車は雨に濡れた方南通りへ出た。未明は律の左手首を横目で見ている。
「大丈夫かよ、その残量で」
「走るよりは持ちます」
「持つかどうか聞いてんだけど」
律は答えず、座席へ背を預けた。脇腹を圧迫しないよう呼吸を浅くしているのに、指先の感覚は少しずつ遠ざかっている。
「病院、寄れないの」
澪がたずねた。
「協力者がいる可能性がある限り、危険だ」
「じゃあ、次はどうすんの」
律は答えなかった。答えを持っていなかった。
タクシーが西武新宿駅北口の手前で停まった。料金を支払って外へ出ると、左手首が長く震えた。
22:05 CORTISOL 7.1
CARTRIDGE 3 MIN
座っていたことで消費はわずかに抑えられた。それでも、共栄興業ビルを出てから十二分で、残された時間は三分まで削られていた。
そのとき、律のスマートフォンが震えた。画面には、また灰色の丸いアイコンだけの表示。
『久世さん。北口から乗る電車には、気をつけてください』
「……何のことですか」
『あなたが乗る前に、駅員が一人、倒れます』
通話が切れた。
北口の改札前で、制服を着た駅員が一人、耳に電話を当てたまま、こちらへ視線を向けていた。




