第七章 元恋人
「律?」
もう一度、名前だけが返ってきた。二年分の間があいたせいで、澪の声は記憶にあるものよりわずかに低く聞こえた。
「澪。カテーテルが抜けた」
『……どういう状況か、順番に言って』
看護師の声だった。驚きを腹の底へしまい込み、必要な情報だけを取りにくる声。律はその変化の速さに、二年前と同じ安堵を覚えた。
「殴られて、接続部がずれた。今は薬液が体内ではなく皮膚の外へ漏れている。カートリッジは残っているが、投与できない」
『数値は』
「七・五。まだ落ちてはいるが、急激ではない」
『そこ、どこ』
「言えない」
一拍の沈黙があった。
『……は?』
「刺された事件の犯人にされている。ネットに映像が出回っていて、警察も探している。あなたに迷惑がかかる」
『迷惑とか、今その話してんの』
澪の声が跳ねた。感情を抑えていた分だけ、崩れ方が急だった。
「大久保病院には、敵の協力者がいる可能性がある。戻れない」
『敵って何。誰と喋ってんのか、私には分かんないんだけど』
「説明する時間はない。カテーテル一式を持ってきてほしい。それだけでいい」
律が言うと、電話のむこうで小さく息を吐く音がした。あきれたのか、それとも別の何かをのみ込んだのか、判断はつかなかった。
『……西武新宿駅前通り側の、雑居ビルと立体駐車場の間。合ってる?』
「なぜ場所が」
『発信位置。前に一度、あんたが倒れたとき使ったアプリ、消してなかったから』
律は答えられなかった。二年間、消し忘れていたことにも、澪がまだそれを見ていたことにも、どちらにも言葉が追いつかない。
『十五分で行く。動くな』
通話が切れた。
*
「元カノ?」
未明が壁に背をあずけたまま言った。腫れた右手首を庇いながら、律の手にあるスマートフォンを一瞥している。
「看護師です。カテーテルを持ってきてくれます」
「呼んでよかったのかよ」
「ほかに手段がありません」
「病院の内部に協力者がいるかもしれないんだろ。看護師も病院の人間じゃん」
律は答えなかった。未明の言うことは正しい。それでも、腕時計に表示された数字は、正しさより先に判断を強いてくる。
> 21:04 CORTISOL 7.4
> FLOW ERROR
接続部が外れてから三分で、さらに〇・一。今の負荷なら急落と呼ぶほどではない。だが、身体へ入る薬がゼロである以上、下がる向きだけは変えられなかった。
律は壁へ背を預け、四秒かけて息を吸い、六秒かけて吐いた。二度目の呼吸の途中で、指先の感覚が薄れはじめているのに気づく。
通路の外では、駅前通りのざわめきが途切れずに続いていた。空車のランプを灯したタクシーが列をなし、千鳥足の酔客の笑い声に、コンビニの自動ドアが開閉する電子音が重なる。立体駐車場の換気口からは油の焦げた匂いが漏れ、通路に積まれたポリバケツの生ごみ臭と混じって、狭い空間にわだかまっていた。頭上の非常灯だけが、二人の影を壁へ長く伸ばしている。時間の流れは、その光の点滅だけでしか測れなかった。
未明は通路の入口に立ち、駅前通りへ目を光らせていた。誰かに聞かせるためではなく、自分に言い聞かせるような小さな声で、彼女がつぶやいた。
「……信用してんじゃん、その人のこと」
「分かりません」
「分かんないのに呼んだの」
「分からないから、賭けるしかありませんでした」
未明はそれ以上何も言わなかった。革靴の底で小石を踏みつぶす音だけが、しばらく通路に響いていた。
*
十四分後、通路の入口に人影が差した。
白いダウンコートの下に、紺のスクラブが覗いていた。肩につく程度の黒髪はほつれないよう一つにまとめられ、化粧っ気のない顔には夜勤特有の隈がうっすらと滲んでいる。背はさほど高くないが、迷いのない足取りで通路の奥まで進んでくる姿は、二年前と変わらなかった。片手に膨らんだトートバッグを提げ、もう片方の手にはスマートフォンのライトを持ったまま、澪はためらわずに奥へ入ってきた。
「……本当に、酷い顔してる」
律の顔と、腹部を押さえた手を見て、澪の声が低く沈んだ。二年前、律が倒れたときにも同じ声で名前を呼ばれたことを、律は覚えている。
「時間がない」
「……その冷たい喋り方、まだ変わってないんだ」
澪は短く息を吐き、トートバッグを下ろした。責めているわけではなく、確認するような口調だった。
「知ってる。座って」
澪は律をコンクリートの壁際に座らせ、トートバッグからビニール袋に入った医療用具を取り出した。滅菌手袋、消毒綿、新しいカテーテルのセット。院内の在庫表からは外れている型番だと、律にも一目で分かった。
「これ、どこから」
「備品庫。当直の後輩に、急患の練習だって噓ついて出してもらった」
「盗難として扱われる」
「じゃあ黙ってて」
澪はシャツの裾をめくり、濡れた被膜を剥がした。皮膚の下で、カテーテルの先端が半分抜けたまま揺れている。指先で創部を確かめる手つきに、迷いはなかった。
律の喉が小さく鳴った。声には出さなかったが、壁についた指先が、白くなるほど固く曲がっている。澪はその手を一瞥しただけで、何も言わなかった。
「消毒するけど、しみるから」
「大丈夫」
綿が触れた瞬間、律の腹がひとりでに強張った。目を閉じ、四秒かけて息を吸う。二年前、澪の前で何度も見た癖だった。
「大丈夫って言うの、あんたの口癖だよね」
澪は綿を押し当てながら、視線を上げずに続けた。
「二年前もそうだった。倒れて、意識戻って、私が処置してるあいだずっと『大丈夫』。それで、退院した次の週に別れ話」
律は答えなかった。答えを持っていなかったからではなく、正しい答えが澪を余計に傷つけると分かっていたからだった。
「なんで黙ってんの」
「説明しても、澪を傷つけるだけだ」
「傷つけないように黙るのって、優しさじゃないから。ただの逃げだから」
新しいカテーテルが皮下へ差し込まれる。律の腹の奥で、鈍い抵抗が一度だけ抜けた。
止めていた息が、喉の奥から短く漏れた。律は目を開けたまま、頭上の非常灯だけを見つめている。表情はほとんど動かなかったが、こめかみに浮いた汗の粒だけが、そこに何かがあったことを示していた。
「あなたの前で、また倒れるのが怖かった」
律が言うと、澪の手が一瞬止まった。
「私が処置できなかったらどうしようとか、そんなことじゃなくて」
「じゃあ何」
「澪に、自分の身体の管理を頼る人間になりたくなかった。それはいつか必ず、澪の負担になる」
澪はしばらく黙って、テープで接続部を固定した。
> CARTRIDGE 46 MIN
「予備は」
律はコートの内ポケットから、蘭堂に返された一本を取り出した。澪はラベルと封を確かめ、漏れつづけていたカートリッジを外すと、新しい一本をポンプへ差し込んだ。
これが、律の手元に残された最後の一本だった。仕上げの手つきは、二年前と変わらず正確だった。
「頼るのが負担になるかどうかは、私が決める。あんたが勝手に決めることじゃない」
そう言った声に、怒りよりも疲れがにじんでいた。
「そうやって、何も感じてないみたいに喋るのも、同じ理由?」
澪が丸めた綿をビニール袋へ放り込み、律の顔をのぞき込んだ。律はその眼を避けるように、腹の上で組んだ両手へ視線を落とした。
「感情を乗せれば、また同じことが起きる」
「だから、私と話してるときまで声を空っぽにするんだ」
律は答えなかった。距離を測ることでしか、自分の脈拍を制御できない。二年前、それを誰よりも早く見抜いたのが澪だった。
「近づきすぎたら、また同じことが起きる」
「近づきすぎたら、じゃなくて。近づいたら、でしょ」
澪は短く笑ったが、目は笑っていなかった。律は答えず、腹の上で組んだ両手に視線を落とした。距離を測ることでしか、自分の脈拍を制御できない。二年前、それを誰よりも早く見抜いたのが澪だった。
澪が蓋を閉じると、ポンプが低く作動音を立てた。途切れていた薬液が皮下へ押し込まれ、腕時計の表示がゆっくりと持ち直していく。
> 21:19 CORTISOL 7.9
> CARTRIDGE 46 MIN
新しい一本なら、通常は九十分と表示される。それが四十六分しかないのは、七・四まで落ちた数値を戻すため、ポンプが通常の倍近い速度で薬を送り込んでいるからだった。
「……ありがとう」
「礼はいい。次からは、私が救急外来にいる夜に倒れて」
澪はゴム手袋を外し、使用済みの綿をビニール袋へまとめた。手を止めたところで、未明の視線に気づいたらしい。
「なんか言いたそうな顔してる」
未明は壁にもたれたまま、目だけを澪へ向けた。
「なんでこいつ、あんたには普通に喋ってんのに、他人と話してるみたいなんだよ」
澪は少しの間、答えなかった。トートバッグの持ち手を握り直し、律の方は見ないまま口を開く。
「二年前、私と言い合いになってる最中に、この人、目の前で倒れたの。声を荒らげたわけでもないのに、数値が五・〇を割って、意識が飛んで、痙攣も起こした。私が救急車を呼んで、そのまま担ぎ込んだ」
「……それで?」
「退院してから、この人が出した結論が『感情が動くと、身体が壊れる』。だから、声から感情を抜くようになった。敬語を使うかどうかじゃない。私には普通に話す。でも、近づいてる感じはしない。言葉が近いだけ」
未明は何も言わず、律の横顔を一度だけ見た。律は俯いたままシャツの裾を整え、反論も訂正もしなかった。
澪はトートバッグの持ち手を握り直し、立ち上がった。そのとき、コートのポケットでスマートフォンが震えた。
画面を見た澪の表情が、一瞬で強張った。
「……何、これ」
差し出された画面には、写真が一枚だけ届いていた。撮影場所は分からない。薄暗い倉庫のような空間で、若い女性がパイプ椅子に座らされ、両手を後ろへ回されている。律の見覚えのない顔だった。
「誰」
「備品庫、貸してくれた子。今夜の当直の子」
送信元には番号も名前もなく、灰色の丸いアイコンだけが表示されていた。
続けて短い文面が届く。
> 【彼女を巻き込んだのは、あなたです】
> 【三十分以内に、西新宿五丁目、解体予定の《共栄興業ビル》裏口へ。久世さんが来なければ、この子の指から一本ずつ減っていきます】
澪の手が震えていた。
「……律。あんた、何に私を巻き込んだの」
律は画面から目を離せなかった。
見知らぬ女性の顔よりも先に、パイプ椅子の脚の角度、後ろ手に回された腕の縛られ方、背景に映り込んだ配管の位置を数えている自分に気づく。恐怖でも、罪悪感でもない。損失を測る癖が、感情より先に動いていた。
いつからだ、と律は思う。人が傷つく場面を前にして、最初に浮かぶのが痛みではなく計算になったのは。
腕時計の数値は、七・九のまま動いていない。危険域の縁を越えたまま、指先の冷えも、細かな震えも消えてはいなかった。それなのに、喉の奥には数値とは別の渇きが広がっていた。
「巻き込んだのは、私だ」
律はようやくそれだけを言った。声は平静を保っていたが、澪の手にあるスマートフォンを見つめたまま、視線を外せずにいた。
画面が、もう一度だけ短く震えた。
追伸のように、一行だけ新しい文章が続いていた。
> 【もうひとつ。今、あなたの隣にいる三枝未明さんも、無関係ではいられません】
未明が、その一文を読んだ。
律は、彼女の顔から表情が抜け落ちていくのを見た。
選ぶべきものが、また一つ増えていた。




