第六章 嘘の映像
「おい。その子の顔、誰がやった」
最初に前へ出てきたのは、作業着の上に黒いダウンベストを着た若い男だった。
右手にスマートフォンを持ち、画面と律の顔を交互に見ている。助けに入るつもりなのか、動画の続きを撮りたいだけなのか、眼の動きからは判断できなかった。
「ちげえよ。こいつも殴られたんだ。私をやったのは赤い帽子の奴」
未明が答えた。
切れた下唇には他人の血まで混じり、右手首は赤紫色に腫れはじめている。その肩へ体重をあずけた律の姿を見れば、言葉どおりに受け取る人間の方が少ないはずだった。
「無理に言わされてない?」
二人組の女の片方が、未明を気遣うように声を落とした。
「だから、違うっつってんだろ」
「じゃあ、この動画は何なの」
女がこちらへ画面をむける。大久保病院裏の路地で、白衣の男から刃物を抜く律の姿が何度も再生されていた。右下に表示された数字は、すでに二千を超えている。画面を更新するたび数十ずつ増え、コメント欄には《大久保公園にいる》《黒いコート》《女を人質にしてる》という短い言葉が流れていた。
映像が投稿されてから、まだ二分も経っていない。
「合成されたものです」
律が言うと、作業着の男は鼻から短く息を漏らした。
「そんなの、みんな言うだろ」
「警察で映像を解析すれば分かります」
「だったら逃げんなよ」
「逃げていません」
口にした直後、それがひどく不利な言葉だったことに気づいた。血を流した少女に支えられ、路面へ片膝をついた男が何を言っても、群衆の眼には言い逃れとしてしか映らない。
律は未明の肩から腕を外し、自分で立とうとした。右脚へ力を入れると脇腹の奥で痛みがふくらみ、膝がまた折れかける。
作業着の男が律の胸元をつかんだ。
「警察来るまで、そこ座ってろ」
「離せよ」
未明が男の腕を左手で払った。
「お前も黙ってろ。右手、そいつにやられたんじゃねえのか」
「見てもねえのに、勝手なことぬかすな」
周囲から、そうだよ、警察待とうよ、と声が飛んだ。心配する調子のものもあれば、面白がっている声もある。誰ひとり近づこうとはしないのに、掲げられたスマートフォンだけが少しずつ二人との距離を縮めていた。
背後では東急歌舞伎町タワーの大型ビジョンが切り替わり、白い光が群衆の顔をいっせいに照らした。広場の端にいたイベントスタッフも騒ぎに気づき、無線機へ口を寄せながらこちらへむかっている。
「はい、大久保公園の南側です。歌舞伎町タワーの前。動画の男がいます」
少し離れた場所で、女が一一〇番へ住所を伝えていた。
歌舞伎町交番は、大久保病院と同じ街区にある。警察官が来るまで、数分もかからないだろう。
律は抵抗しなかった。
警察へ映像を渡し、白衣の男を刺したのは蘭堂だと説明する。身柄を拘束されても、体調を申告すれば病院へ運ばれる。特別なカートリッジの在庫がなくても、副腎クリーゼを防ぐための処置は受けられる。
少なくとも、自分ひとりなら助かる可能性は高い。
隣にいる未明が、一歩だけ後ろへ下がった。
「あんた、警察行くんだ」
問いかける声は、さきほどまでより小さかった。
「映像が偽物だと証明します。弟の動画も渡せば、誘拐として動いてもらえる」
「あの六秒で、どこの誰が動くんだよ」
「何もしないよりは――」
「じゃあ勝手にすれば」
未明は律の言葉を断ち切り、黒いスマートフォンをパーカのポケットへ入れた。
「私は行かない」
「なぜです」
「あんたに関係ない」
「その電話は証拠です」
「私には、優真につながるもんだ」
未明は群衆の隙間へ視線を走らせている。逃げ道を探しているのは明らかだった。警察へ行きたくない理由が窃盗の余罪なのか、それとも警察そのものを信用していないのか、律には分からない。
ただ、ひとりで走れば、腫れた右手首をもう一度つかまれる。蘭堂の人間が群衆に紛れていたとしても、今の未明には見分けられない。
ポケットの中で、黒いスマートフォンが鳴った。
未明が取り出すより先に、律は彼女の左手から端末を抜き取った。画面には番号ではなく、灰色の円だけが表示されている。
「蘭堂さん」
『警察をお待ちですか』
周囲の騒音を拾っているはずなのに、蘭堂の声は妙に近く聞こえた。
「この映像を公開したのは、あなたですか」
『正確には、公開させた、ですね。私はこういう流行りものに疎いものですから、若い方へお願いしました』
「元の映像も残っているはずです」
『もちろん。解析すれば、あなたが刃物を持っていなかったことはいずれ証明されるでしょう』
蘭堂はそこで言葉を切った。通話のむこうで、グラスをテーブルへ置くような硬い音がした。
『ただし、真実というのは遅い。嘘は走りますが、真実は書類をそろえ、順番を待ち、責任者の判をもらってからでなければ歩き出せない』
「何が言いたいんです」
『助かりたいなら、警察官に保護してもらうのが最善だと申し上げています。大久保病院もすぐそばです。あなたは薬を失わずに済む』
律は答えなかった。
蘭堂が、自分にとって都合のいい選択をわざわざ勧めるはずがない。
『ただ、三枝さんは逃げるでしょう。弟さんへつながる電話を持って、右手もろくに使えないまま。あなたが事情を説明している間に、尾関か、ほかの誰かが彼女を見つけるかもしれません』
「てめえ、優真に何かしたら――」
未明が端末へ顔を寄せる。
『今夜は傷つけないと約束しました。あなたについては、何も約束していません』
作業着の男が、律の手にあるスマートフォンへ腕を伸ばした。
「電話も証拠だろ。切るなよ」
律が身を引くと、胸元をつかんでいた指に力がこもる。コートの襟が喉へ食い込み、息が止まった。
『久世さん』
蘭堂が、言い聞かせるように声を落とした。
『今回は、どなたを置いていかれますか』
律は通話を切った。
腕時計を見る。
> 20:54 CORTISOL 7.7
> CARTRIDGE 49 MIN
警察を待てば、自分は助かる。
未明は、置いていかれる。
「これ、持ってて」
未明が律の手から黒いスマートフォンを取り、作業着の男へ押しつけた。
「は?」
「証拠なんだろ。落とすなよ」
男が反射的に端末を受け取った瞬間、未明はその手首をつかみ、律の襟元から引き剥がした。痛めた右手を庇ったせいで動きは鈍かったが、男の意識は電話へむいている。
「走れ!」
未明は端末を奪い返し、律の腕を引いた。
二人が動いたことで、囲んでいた人間が一斉に声を上げた。待て、逃げたぞ、という怒号に混じり、面白がるような歓声まで聞こえる。だが、自分の身体で進路をふさぐ者は少なかった。誰もが片手にスマートフォンを持ち、画面から二人を外さないことを優先している。
シネシティ広場を横切り、東急歌舞伎町タワーの屋外ステージ前へ出る。終了間際のフードイベントから帰る客と、映画館やライブ会場へむかう人波がぶつかり、石畳の上には列を失った人間があふれていた。
未明は空いた隙間を選ばず、子供を連れた家族や旅行鞄を引く観光客の間へ入り込んだ。追ってくる人間が身体をぶつけるのをためらう場所を選んでいる。
律もつづいたが、三十メートルも進まないうちに呼吸が浅くなった。殴られた脇腹だけでなく、腹部の皮膚まで熱を持ち、ポンプが作動するたび接続部へ針を差し直されるような痛みが走る。
「遅い!」
未明が振り返った。
「追いつけません」
「見りゃ分かる。上、脱げ」
「何を――」
「そのコート。動画と同じだろ」
律は走りながら前を開き、右腕を袖から抜いた。左腕まで外したところで、内ポケットにあるカートリッジの重みを思い出す。
「薬が入っています」
「先に出せよ、バカ!」
未明がコートをひったくり、内ポケットから一本を抜いた。透明な筒を律のシャツの胸ポケットへ押し込み、コートは背負っていたリュックへ無理やり詰める。ファスナーは半分も閉まらなかったが、遠目には動画の男と同じ服装には見えなくなった。
背後から、配信者らしい男の声が近づいてきた。
「犯人、西武新宿駅の方へ逃げてます! 女も共犯です!」
自撮り棒の先に載せたスマートフォンを二人へむけ、通行人を押しのけながら追ってくる。未明は足を止め、近くを歩いていた三人組の女性を指した。
「ねえ、そいつ、あんたらのスカートん中撮ってる!」
配信者が眼を見開いた。
「は? 撮ってねえよ!」
「カメラ下むけてんじゃん。キモ」
未明が自撮り棒の先を左手で叩くと、レンズが女性たちの脚へむいた。三人のうちの一人が短い悲鳴を上げ、連れの男が配信者の肩をつかんだ。
「お前、何撮ってんだよ」
「違うって。あいつらが人殺しで――」
「スマホ見せろ」
言い争う声が人波の中へ沈む前に、未明は律の背中を押した。
「ほら、行け」
二人は東急歌舞伎町タワーの西側へまわり、西武新宿駅前通りへ出た。空車のタクシーが連なり、駅から吐き出された客が職安通りと靖国通りの両方へ分かれていく。広場の光から外れると、律たちへ眼をむける人間は急に減った。
それでも未明は速度を落とさず、駅前通りに面した雑居ビルと立体駐車場の間へ入った。コンクリートの壁に挟まれた細い通路には、飲食店の空き瓶を積んだ箱と、油で黒ずんだポリバケツが置かれている。表通りのネオンは届かず、換気口から吐き出される生温い風だけが、腐った果物と生ごみの臭いを動かしていた。
律は壁へ手をついた。
「もう、走れません」
未明が通路の入口を確かめ、黒いスマートフォンの電源を切った。画面が暗くなるまで長押しし、さらに自分のパーカで包んでから、律の顔を見る。
「警察、行けばよかったじゃん」
「そうですね」
「だったら、なんで来たんだよ」
律は答えようとしたが、息を吸った途端、脇腹の痛みが胸までせり上がった。喉の奥で空気が擦れ、咳が二度つづく。二度目には胃液の酸っぱい味が舌の付け根へ上がってきた。
未明は返事を急かさなかった。
右手首を左手で包み、顔を背けたまま、律の呼吸が戻るのを待っている。
「あなたを置いていけば、蘭堂の質問に答えたことになる」
「何それ」
「私にも、分かりません」
律が言うと、未明は眉間へ皺を寄せたあと、鼻から息を漏らした。
「ほんと、クソ面倒くせえ病人」
罵る声には、さきほどまでの棘がなかった。
左手首が震えた。
律はいつものように画面を確かめようとし、腹部を伝う冷たい感触に気づいた。
シャツの裾をめくる。ポンプを固定している透明な被膜の内側に、血の混じった液体がたまっていた。殴られたときに接続部がずれ、カテーテルが皮膚から半分抜けている。作動音が鳴るたび、透明な薬液が体内ではなく、臍の横へ一滴ずつ漏れ出していた。
腕時計の残量は、三十八分を示している。
ただし、それはカートリッジの中に残っている薬の量から算出された予測にすぎない。接続部が外れた今、三十八分という表示は、律が生きられる時間を意味していなかった。ポンプが作動するたび、残量だけが減り、必要な薬は臍の横へ流れ出していく。
「直せないの」
未明がたずねた。
「カートリッジは交換できます。カテーテルは、予備がありません」
「病院戻るしかねえじゃん」
律は濡れた被膜の上から接続部を押さえ、スマートフォンを取り出した。救急へ電話をかければ、警察にも居場所が伝わる。蘭堂の人間が病院の内部にいる可能性も消えていない。
それでも、薬を身体へ入れられなければ、予備の一本を持っている意味はなかった。
> 21:01 CORTISOL 7.5
> FLOW ERROR
七分前より、〇・二下がっている。低下はまだ急激ではないが、投与が止まった状態では、いくら呼吸を整えても上向くことはない。
画面の連絡先から、二年間、一度も押していない名前を選んだ。
呼び出し音が一度鳴る。
二度目の途中で、相手が出た。
『……律?』
篠宮澪の声だった。
律は腹部から漏れる薬液を指で押さえた。
「澪。カテーテルが抜けた」




