第五章 大久保公園
「あと、何分で死ぬの」
黒いワゴン車のテールランプが通りのむこうへ消えてから、未明がたずねた。
切れた下唇を舌で舐めているため、声がわずかに濁っている。尾関に捻られた右手は胸元へ引き寄せたままで、指先を動かすたび、眉間に細い皺が寄った。
「七十一分では死にません」
律は蘭堂から返されたカートリッジを、コートの内ポケットへ収めた。型番と封を確かめる余裕はなかったが、少なくとも、異常な一本とは外見が違っている。
「いま使っている薬が切れてから数値が下がり、五・〇を割れば意識を失います。予備も正常に使えれば、合計で最長百六十一分です」
「二時間半ちょいじゃん」
「最長です。走れば短くなる」
「じゃ、やっぱ今日死ぬかもしれないんだ」
未明は口元の血を手の甲で拭い、暗くなった赤い筋をパーカの裾になすりつけた。自分から聞いたくせに、律の返事が気に入らなかったらしい。
「薬、渡す必要なかっただろ」
「拒否しても奪われました」
「そういう計算の話してんじゃねえよ」
「では、何の話ですか」
未明は律をにらんだまま何か言いかけたが、結局、顔を背けた。離れた通りから客引きの調子のいい声が聞こえ、空車のタクシーが駐車場の入口を白く照らして通り過ぎる。ワゴン車のいた場所には、タイヤの跡も血痕も残っていなかった。
「……灰庭危機管理って、何」
「企業の不祥事や事故が起きた際、被害者との交渉や報道対応を請け負う会社です。少なくとも、表向きは」
「会社のツラしたヤクザってこと?」
「否定できません」
医療機器メーカーに勤めていた頃、律は灰庭危機管理が入った案件を一度だけ見たことがある。人工呼吸器の誤作動を訴えていた患者家族が、契約から一週間も経たずに主張を取り下げ、製品の回収を求める署名からも名前を消した。会社側は円満な和解が成立したと説明していたが、家族へいくら支払われ、誰が何を話したのか、事故調査部門にいた律にも知らされなかった。
「蘭堂が会社の代表だということは知っていました。ただ、顔までは――」
言葉の途中で、胸のあたりが震えた。
律は反射的に腹を押さえたが、ポンプではない。駐車場へ来る途中、コートの外ポケットへ押し込んだ黒い発信機が振動している。
取り出すと、中央の赤い光が点滅した。
『三枝さん』
蘭堂の声だった。
未明が律の手から発信機を奪おうとしたが、痛めた右手を伸ばしたせいで顔をしかめた。
『大久保公園の喫煙所に、赤い帽子をかぶった男性がいます。彼は、あなたへ電話をかけていた人物です』
「弟をさらった奴?」
『少なくとも、居場所は知っています。所持している電話を手に入れれば、弟さんがどこにいるのか分かるかもしれません』
「かもしれないって何だよ。知ってんのか、知らねえのか、どっちだ」
『お急ぎになったほうがいい。彼は二十時四十五分に公園を出ます』
「待て。優真と話させろ」
『先ほど約束したのは、傷つけないことだけです』
赤い光が消えた。
未明はひと呼吸だけ立ち尽くし、すぐに駐車場の外へむかった。
「罠です」
背中に声をかけると、未明は歩調を緩めず、血のついた顔だけをこちらへむけた。
「罠じゃないと思ってるように見えんの?」
「行けば、蘭堂の思いどおりになります」
「ここで突っ立ってても弟は帰ってこねえだろ。あんたは来なくていい。薬抱えて病院にでも逃げろ」
未明はそう言って、職安通りへ出た。
律はその場に残り、左手首を見た。
> 20:38 CORTISOL 8.1
> CARTRIDGE 69 MIN
大久保病院へ戻れば、予備薬を処方してもらえる可能性はある。しかし蘭堂は、律が薬局でケースを受け取る時刻も、ポンプから送られる数値も知っていた。病院の内部に協力者がいるなら、戻るという選択が安全だとは限らない。
それに、蘭堂が欲しがった六本目について知っているのは、未明と、これから彼女が追う男だけだった。
律は未明の背中を追った。
*
職安通りには、金曜夜の車列がつづいていた。
空車表示を灯したタクシーの間を、宅配用の大きなバッグを背負ったバイクがすり抜け、歩道では韓国料理店から流れ出した脂と唐辛子の匂いに、香水や煙草の煙が混じっている。頭上を覆う看板には、女の顔、男の顔、読めないほど崩した店名が何層にも重なり、そのけばけばしい光の下を、旅行鞄を引く外国人の家族と、黒いスーツを着た若い男たちが同じ方向へ歩いていた。
未明は信号を待たず、車列の切れ目へ身体を滑り込ませた。
律もつづこうとしたが、横から来たタクシーのヘッドライトが眼に入り、足が止まった。クラクションを浴びながら反対側へ渡ったときには、未明は大久保公園の角まで進んでいる。
西武新宿駅の線路沿いにある公園は、高い金網で囲まれていた。多目的広場では全国の肉料理を集めた期間限定のフードイベントが開かれており、二十一時の終了を前に、紙皿を手にした会社員や観光客が幾何学模様のアートコートに沿って列をつくっている。テントから立ちのぼる湯気と肉を焼く煙に、西武線の車輪がレールを擦る音が重なり、フェンス沿いの喫煙所には、会場からあふれた客が金属製の灰皿を囲んでいた。
煙草の煙は、隣接する大久保病院の白い明かりへ薄く流れている。
ほんの数分前まで、律はあの病院から薬を受け取って帰宅するだけのはずだった。
公園の南には、東急歌舞伎町タワーが夜空を切り取るようにそびえている。壁面の大型ビジョンが青から赤へ切り替わるたび、シネシティ広場へむかう人波の顔も同じ色に染まり、広告の音楽が、路上で客を呼ぶ声や酒に浮かれた笑声を押し潰していた。
「赤い帽子」
未明が、切れた唇をあまり動かさずに言った。
喫煙所の周辺には、該当する男が三人いた。
一人は、赤い野球帽を後ろ前にかぶり、仲間と缶酎ハイをまわし飲みしている若者。もう一人は、観光客らしい中年男で、帽子と同じ色の小さなリュックを背負っている。残る一人はフェンスへ背をあずけ、黒いジャケットのポケットに片手を入れたまま煙草を吸っていた。
「どれだよ」
「まだ分かりません」
「時間ねえんだけど」
未明が踏み出そうとし、律は彼女の左腕をつかんだ。
「触んな」
振りほどこうとした動きで右手首に痛みが走ったらしく、未明の呼吸が一瞬止まる。
「帽子だけで決めれば、無関係の人間に逃げられます」
「じゃ、全員から盗ればいい」
「あなたは右手を傷めている」
「左でやる」
律は三人の手元を見た。
缶酎ハイを持つ若者は、仲間の話に笑いながら何度も帽子の庇を直している。中年男はスマートフォンの地図と周囲の建物を見比べ、首を左右へ動かしていた。
フェンス際の男だけが、誰の顔も見ていない。
煙草を口へ運んではいるが、灰は二センチ近く残ったままで、フィルターにも唇をつけていなかった。公園の出入口を直接見れば相手と眼が合うため、東急歌舞伎町タワーの壁面ビジョンが映り込んだ、駐車中の車の窓を眺めている。
「フェンスの男です」
「なんで」
「煙草を吸っていない」
未明は律の説明を待たなかった。
喫煙所へ近づく途中で一度だけ進路を変え、観光客の中年男を間に挟みながらフェンス際へまわり込む。その動きを、赤い帽子の男は車の窓に映る像で見ていた。
男が煙草を落とした。
「あいつだ!」
未明が声を上げるより早く、男は公園の奥へ走り出した。
*
赤い帽子が、人の頭と頭の間を縫うように遠ざかっていく。
未明は痛めた右腕を腹へ押しつけ、左腕だけを振って追っていた。男はアートコートのフェンスに沿って進み、イベントスタッフが引いていた灰色のごみ箱へ肩をぶつけた。
蓋が外れ、食べ残しの串や油に濡れた紙皿が通路へ散らばる。追いつきかけた未明は脂のついた紙皿を踏み、右足を大きく滑らせた。
「邪魔くせえ!」
倒れかけたスタッフの腕を左手で押し返して立て直したが、その間に男との距離はひろがった。
律は二人から遅れ、公園の外周を走っていた。腹部でポンプが作動するたび、カテーテルの入った皮膚が内側から引かれ、臍の横へ熱がたまっていく。速度を落とすべきだと分かっていても、赤い帽子を見失えば、未明まで人混みに消える。
男が、スマートフォンを耳へ当てた。
通話するように口を動かしながら、前を歩いていた白いパーカの女とすれ違う。肩が触れ合ったのは一瞬だった。
男はそのまま走りつづけている。
白いパーカの女も、振り返らない。
ただ、それまで身体の脇で揺れていた左腕だけが動かなくなり、袖の内側へ何かを抱え込むように肘が曲がっていた。
「未明!」
呼びかけても、未明は赤い帽子を追っている。
「左です。白いパーカ!」
未明が走りながら顔をむけた。
「帽子の男から、電話を受け取った」
「見たの?」
「腕が止まった」
「間違ってたら殺す」
そう吐き捨てた次の瞬間には、未明は赤い帽子を捨て、白いパーカの女へ進路を変えていた。
女は背後の足音に気づくと、肩越しに未明を見た。驚いたように眼を見開いたあと、左袖から黒いスマートフォンを取り出して走り出す。
律の推測は当たっていた。
女は公園の南側から、東急歌舞伎町タワーへむかう人波に入った。二十時を過ぎたシネシティ広場には、写真を撮る観光客、開演を待つ若者、路上ライブを囲む人間が幾重にも重なり、白いパーカはその中へ溶けかけている。
未明は追いながら、律へ左手を上げた。二本の指を立てたあと、左右へ分ける。
律は意図を理解し、公園の外周に沿って歩道側へまわった。未明が背後から追えば、女は人の少ない外側へ逃げる。そこに律が立てば、挟める。
走る必要はなかった。
女は予想どおり、観光客の集団を避けて進路を右へ変えた。律の姿を見つけると足を止め、すぐに引き返そうとしたが、背後から未明が追いついてくる。
「それ、渡せ」
未明が息を弾ませながら手を出した。
「知らない。頼まれただけ」
白いパーカの女は二十代前半に見えた。濃いアイラインの目をせわしなく動かし、スマートフォンを両手で抱えている。右手には量販店の紙袋を提げ、爪には小さな宝石を模した飾りがいくつも貼られていた。
「五千円で、これ持って公園を一周しろって言われただけだから」
「誰に」
「知らない男。もう返すから、マジで。関係ないし」
女がスマートフォンを未明へ差し出した。
素直すぎる。
律がそう思ったとき、未明の背後から赤い帽子の男が現れた。
「受け取るな!」
律の声と、男の手が伸びるのはほとんど同時だった。
赤い帽子の男は未明の痛めた右手首をつかみ、親指を腫れはじめた関節へ食い込ませた。未明の口から短い悲鳴が漏れ、差し出されていたスマートフォンが路面へ落ちる。
男がそれを拾おうと腰を落とした。
未明はつかまれた腕を引かなかった。逆に男の手を自分の口元へ引き寄せ、親指と人差し指の間へ噛みついた。
歯が皮膚を破り、男の手の甲で血管がふくらんだ。なおも顎へ力を込めると、肉の裂ける感触が歯列を伝い、傷口からあふれた血が未明の唇に残っていた自分の血と混じった。
「離せ、このクソガキ!」
男が未明の側頭部を殴る。
一発目で彼女の歯が肉から外れ、引き裂かれた皮膚が三角形にめくれた。男は血の噴く手を押さえながら、もう片方の拳を振り上げる。
律は男と未明の間へ入った。
拳が左の脇腹へめり込み、肋骨の下にある臓器が一度に押し上げられた。肺から息が抜け、視界の縁が暗くなる。身体を折った拍子に、腹部のポンプがベルトへ挟まれ、カテーテルの接続部に鋭い痛みが走った。
路面へ膝をついた律の耳元で、警告音が鳴る。
男が律のコートの襟をつかんだ。
「てめえ、病人のくせにしゃしゃって――」
「刃物!」
未明が叫んだ。
「こいつ、刃物持ってる! 誰か撮って!」
男の動きが止まった。
周囲では、すでに何人もの人間がスマートフォンをむけていた。路上ライブを撮っていた者までカメラの向きを変え、白い光が男の赤い帽子と、血に濡れた右手を照らしている。
「ふざけんな。俺は――」
「おい、お前。いま女殴ったよな」
見ていた若い男が声を上げると、別の場所から、警察呼べよ、という声が飛んだ。
赤い帽子の男は律の襟から手を離し、周囲を見回した。未明の血が口元についているせいで、いくら言い訳をしても、彼のほうが襲われたようには見えない。
「クソが」
男は帽子を脱ぎ捨て、シネシティ広場とは反対側の人波へ走り去った。
白いパーカの女も、いつの間にか姿を消している。
未明は追わなかった。路面に落ちた黒いスマートフォンを左手で拾い、画面が割れていないことを確かめてから、うずくまった律を見た。
「立てんの」
律は答えようとしたが、息を吸うと左脇腹に鈍痛がひろがり、声にならなかった。
「……死ぬ?」
未明の声から、さきほどまでの荒さが消えた。
律は答えず、腹部のポンプへ手を当てた。作動はつづいている。それでも息を吸うたび、殴られた脇腹の奥で鈍い痛みがふくらみ、肺へ入ってくる空気が少しずつ減っていた。
未明は舌打ちをし、律の左腕を自分の肩へまわした。右手が使えないため支え方は不安定で、立ち上がる途中、二人とも金網へ身体をぶつけた。
「重い。自分でも歩けよ」
律は痺れた右脚を前へ出したが、靴底がアスファルトを擦っただけで、未明の肩へさらに体重がかかった。
「……力、入ってねえじゃん」
未明の声にいつもの荒さが戻り、律はかえって呼吸を整えることができた。四秒かけて吸い、六秒かけて吐く。二度目は脇腹の痛みで途中から浅くなったが、視界を覆っていた暗い縁は少しずつ薄れていく。
腕時計を確認した。
> 20:51 CORTISOL 7.8
> CARTRIDGE 52 MIN
十三分で、予測残量が十七分減っている。八・〇を割った影響で、右手の指先が冷え、未明の肩へ置いた腕にも細かな震えが出ていた。
「電話、見せてください」
「休んでからにしろよ」
「弟の居場所が入っているかもしれません」
未明は何も言わず、黒いスマートフォンを律へ渡した。
画面にロックはかかっていなかった。
動画が一件だけ保存されている。再生すると、暗い部屋で椅子に縛られた優真が映った。少年はうつむいたまま動かず、背後の壁にも窓にも、場所を特定できるものはない。映像は六秒で途切れ、その直後、別の画面へ自動的に切り替わった。
縦長の動画投稿だった。
大久保病院裏の路地で、白衣の男が倒れている。そのそばに立っていたのは律だった。
映像の中の律は、右手に細い刃物を持っている。
「……何、これ」
未明が画面へ顔を寄せた。
律は刃物など持っていなかった。撮影された角度も、灰色のコートを着た蘭堂が立っていた位置とほぼ同じだった。それでも映像は不自然なほど滑らかで、律が白衣の男から刃を抜き、その身体を見下ろしているようにしか見えない。
投稿には、短い文章が添えられていた。
> 【拡散希望】歌舞伎町で男性を刺した犯人です。現在も逃走中。
再生回数が、画面を見ている間にも増えていく。
「この人じゃない?」
すぐ近くから、若い女の声がした。
律が顔を上げると、二人組の女がこちらを見ていた。片方の手にあるスマートフォンには、同じ動画が停止した状態で映っている。
「服も同じだよ」
もう一人が声を低めた。
その声を聞いた周囲の人間が、律のコートと、画面の中の男を見比べる。血のついた未明に腕をまわし、身体を震わせている今の姿は、逃走中の人間に見えてもおかしくなかった。
誰かが、人殺し、と口にした。
公園にいた人間が、ひとりずつ、律へスマートフォンをむけはじめた。




