第四章 蘭堂
内側から伝わってきた振動は、律が蓋に触れたところで止まった。
未明が白いケースを抱えたまま、身体を引く。
「……なんか生き物でも入ってんの」
「そのような保管方法はされません」
「分かってるよ。気持ち悪いって言ってんの」
律は未明の腕からケースを受け取り、地面へ下ろした。蓋を開けると、五本のカートリッジが街灯の白い光を鈍く返した。一本はついさきほどポンプから抜いた使用済みのもので、残りの四本には透明な薬液が満たされている。
異常は見当たらない。
律は一本ずつ指で押さえながら、底部の緩衝材へ耳を近づけた。
「何してんだよ。早くしろって」
「静かに」
未明が何か言い返しかけ、そのとき、ケースの底でふたたび短い振動が起きた。
二本目と三本目のカートリッジが触れ合い、乾いた音を立てる。
律は五本を順番どおりに取り出し、路面へ直接触れないよう蓋の内側に並べた。それから指を緩衝材の端へ差し込み、ゆっくりと持ち上げた。
底に、黒い板状の機械が貼りつけられていた。
厚さは数ミリほどで、名刺よりもひと回り小さい。メーカー名も型番もなく、中央で赤い光が点滅している。
「発信機?」
未明がしゃがみ込み、黒い板へ手を伸ばした。
「貸せ。踏み潰す」
「待ってください」
「これで居場所バレてんだろ。待ってる場合かよ」
「壊せば、相手との連絡手段も失います」
「だから何」
「弟の居場所を聞けなくなる」
未明の指が、黒い板に触れる寸前で止まった。
赤い光が三度点滅した。
『久世さん』
薄い機械のどこかから、男の声が流れた。音量は大きくない。それでも、室外機の熱風がこもる細い路地では、一語ずつが耳の奥へ滑り込んでくるようにはっきり聞こえた。
『まずは、新しい一本が正常に作動して何よりです』
律は反射的に左手首を押さえた。
大久保病院裏の路地で、白衣の男を刺した男だった。
『八・四。先ほどより、いくらか落ち着かれたようですね』
袖の下に隠れた腕時計は、たしかに八・四を示している。律は画面を消し、黒い板の点滅を見つめた。
「ポンプから情報を抜いているんですか」
『質問は、こちらでお会いしてからにしましょう。路地を出て、右へ。七十メートルほど先に月極駐車場があります』
「行く必要はありません」
『そうですか』
男はあっさり答えた。
黒い板から雑音が聞こえ、つづいて、誰かの浅い呼吸が流れた。息を吸うたび鼻の奥で音が鳴り、ときおり喉をつまらせたような嗚咽が混じっている。
『姉ちゃん……』
少年の声だった。
未明が黒い板をひったくった。
「優真? おい、優真! 聞こえてんのか!」
返事はなかった。
「弟に何した。てめえ、答えろ!」
『まだ何も』
男の声が静かに返ってくる。
『九十秒以内に来ていただければ、ですが』
「ふざけんな。弟を出せ。今すぐ――」
『残り八十二秒です』
通話が切れた。
赤い光だけが、一定の間隔で点滅している。
未明は黒い板を握りしめたまま立ち上がった。唇がかすかに震えていたが、何か言われるより先に顔を背け、路地の出口へ走り出す。
「待ってください」
「待てるわけねえだろ!」
律はカートリッジをケースへ戻し、緩衝材を載せた。黒い板を所定の場所へ戻す余裕はない。片手でそれを持ち、もう片方でケースを抱えて未明を追った。
走り出した途端、腹部のポンプが低く唸った。
*
月極駐車場には、黒いワゴン車が一台だけ停まっていた。
両側を古い雑居ビルに挟まれ、通りから奥まった敷地に街灯はない。濡れたように黒いアスファルトへ、隣のビルの非常灯が緑色の光を落としている。
灰色のコートを着た男は、ワゴン車の後部ドアにもたれていた。
白衣の男を刺してから二十分も経っていないはずだった。それなのに、服装にも髪にも乱れはなく、右手にも血は残っていない。ただ革靴の爪先にだけ、拭いきれなかった黒い染みがこびりついている。
その隣には、身長が百九十センチ近くありそうな大柄な男が立っていた。短く刈り込んだ髪に、首の太さと変わらないほど張った顎。黒いブルゾンの前を開け、両手を身体の脇へ垂らしている。
未明が立ち止まった。
「弟は」
灰色の男は返事をせず、律の手にあるケースを見た。
「見事でしたよ」
「何がですか」
「五本を彼女に持たせ、ご自分は型番の違う一本を持つ。追う人間を二手に分けるには、悪くない嘘でした」
律はコートの内ポケットへ意識を向けた。異常なカートリッジは、布地一枚を隔てて胸の下にある。
「見ていたんですか」
「見てはいません。報告を聞いただけです。ですが、あなたが何を考えたかは、おおよそ分かります」
男は律の左手首へ目を向けることなく言った。
「八・三。残り七十五分。走るたび、ずいぶん贅沢に薬をお使いになる」
律は袖の下で腕時計が震えるのを感じたが、確認しなかった。見なくても、数字が合っていることは分かっていた。
「その機械だけでは、私の数値までは分からないはずです」
「ええ。それは単なる発信機です」
「では、どこから」
「質問は、順番にしましょう」
灰色の男が右手を差し出した。
「まず、ケースをこちらへ」
未明が律の前へ出た。
「その前に弟を出せ」
「弟さんは、ここにはいません」
「だったら連れてこい。じゃなきゃ何も渡さねえ」
「三枝さん。あなたに交渉をする権利はありません」
自分の名を呼ばれ、未明の顔から一瞬だけ血の気が引いた。
次の瞬間、彼女はパーカのポケットへ手を入れ、黄色い柄の小型カッターを抜いた。刃を押し出す音がして、銀色の先端が非常灯を反射する。
「弟を出せ」
声はさきほどより低かった。
「今すぐ出さねえと、こいつの喉かっ切る」
未明は灰色の男へ刃を向けたつもりだった。しかし一歩踏み込むより早く、大柄な男が動いた。
未明の手首を外側からつかみ、そのまま親指を前腕へ押しつけるように折り曲げる。骨の擦れる鈍い音がし、未明の指からカッターが落ちた。
「っ、あ――」
声が出る前に、大柄な男は彼女の後頭部へ手を添え、ワゴン車の側面へ顔を叩きつけた。
金属板が腹の底まで響く音を立てた。未明の額が跳ね返り、前歯で切れた下唇から血があふれた。顎を伝った赤い筋が一滴、アスファルトへ落ちる。
律はケースを抱いたまま一歩踏み出した。
大柄な男が、未明の手首をさらに捻る。肩の関節が限界まで引かれ、彼女の膝が路面についた。
「……放してください」
律が声を出すと同時に、腹部のポンプが作動した。薬液が皮膚の下へ押し込まれ、熱をもった圧迫感が脇腹へ広がっていく。
灰色の男の視線が、律の腹へ落ちた。
「助けたい。しかし、ご自分の数字も上げたくない。忙しいですね、あなたは」
「彼女から手を離してください」
「尾関」
名前を呼ばれた大柄な男は、未明の頬を車体へ押しつけたまま、手首にかけていた力だけをわずかに緩めた。
灰色の男はコートからスマートフォンを取り出し、画面を律へ向けた。
暗い室内で、少年が椅子に座らされていた。顔は伏せており、両手は背中へ回されている。映像が荒く、怪我の有無までは分からない。画面の端から手が伸び、少年の左手をカメラの前へ持ち上げた。
細い五本の指が、怯えたように縮こまっている。
「ケースと六本目を渡していただければ、今夜はこの指を一本も減らさないと約束します」
未明が顔だけを動かし、血のついた唇を開いた。
「信用……できるわけ、ねえだろ」
「信用は必要ありません」
男はスマートフォンを持ったまま、律を見た。
「必要なのは選択です」
映像の中で、少年の小指だけが別の手につかまれた。画面の外から、金属同士が擦れる音がする。
「渡せば、弟さんには今夜いっぱい危害を加えない。渡さなければ、薬は守れる。その代わり、小さなものをひとつ失う。簡単でしょう」
「弟を解放するとは言っていません」
律が指摘すると、男は口元をほころばせた。
「ええ。今夜、傷つけないと申し上げただけです」
「それでは取引にならない」
「これは取引ではありません」
男は少年の指から目を離し、穏やかな声でつづけた。
「あなたが何を選ぶか、見せていただいているだけです」
尾関に押さえつけられた未明が、血の混じった唾を路面へ吐いた。
「渡すな」
律は未明を見た。
「あんた、それ渡したら死ぬんだろ。だったら渡すな。こいつら、どうせ約束なんか――」
語尾が震えていた。
弟を守るためではなく、律を気遣っているように聞こえないよう、必死に声を荒らげている。そのことに未明自身が気づいているのかは分からなかった。
律は駐車場の入口を見た。通りまでは二十メートルもない。声を上げれば届く可能性はある。しかし尾関は未明の腕を折るのに一秒とかからず、灰色の男のコートには、白衣の男を刺した刃物が入っている。
現在のカートリッジは残り七十五分。手元の五本を守れたとしても、この場から逃げられる確率は低い。
「……渡します」
未明が顔を上げた。
「は?」
「拒否しても奪われます。そうなれば、薬を失うだけでなく、あなたの弟が傷つく」
「だからって――」
「損失が増えるだけです」
言い終えたとき、自分の命まで損失という数字の中に入れてしまったことに気づいた。
灰色の男が小さく息を漏らした。笑ったようにも、感心したようにも聞こえた。
「そうやってあなたは、見捨てることを計算へ置き換えるんですね」
律は答えず、白いケースを差し出した。
男は片手で受け取り、蓋を開けた。五本を順に確かめ、使用済みの一本を見つけると、律の顔を見た。
「空になったものまで、律儀に元の場所へ戻す」
「廃棄容器が必要です」
「あなたらしい」
男がふたたび右手を差し出した。
「六本目を」
律は動かなかった。
尾関が未明の肩を引き上げる。唇から垂れた血が糸を引き、パーカの胸元へ落ちた。
「久世さん」
男の声に苛立ちはない。
「同じ選択を、二度させないでください」
律は内ポケットから型番の違うカートリッジを取り出した。
透明な薬液の中心で、細い影がまっすぐ立っている。男はそれを受け取ると、街灯の乏しい駐車場で光へ透かすこともせず、白いケースの空いた場所へ収めた。
やはり、中身を知っている。
蓋を閉じる直前、男の手が止まった。
正常な未使用のカートリッジを一本抜き、律へ差し出す。
「これは、お返しします」
律はすぐには受け取らなかった。
「なぜです」
「すぐに死なれては、つまらないでしょう」
「弟は」
未明が声を絞り出した。
男はスマートフォンの画面を伏せ、コートへ戻した。
「約束どおり、今夜は傷つけません」
「返せって言ってんだよ!」
未明が身をよじった。尾関が腕を捻り上げると、彼女の喉から潰れた悲鳴が漏れた。
「私の薬をどうするつもりですか」
「残りは、少しずつお返しします。私の質問に正直に答える。指定した場所へ行く。そこで選ぶ。そのたびに一本ずつ」
「拒否した場合は」
「あなたの時間が尽きるだけです」
男はカートリッジを持った手を、わずかに前へ出した。
律は受け取った。
手の中にあるのは九十分ではない。走れば短くなり、怪我をすればさらに減る。蘭堂の機嫌ひとつで価値を変える、不確かな猶予だった。
「尾関。もう結構です」
未明の手首が放された。
支えを失った身体が前へ倒れ、両手をつく。未明は痛めた右手をすぐに胸元へ引き寄せ、左手の甲で口元の血を拭った。
尾関は彼女を見下ろしたが、表情を変えなかった。
灰色の男が白いケースを尾関へ渡し、ワゴン車の後部ドアへ手をかけた。
「待ってください」
律が呼び止めると、男は半身だけ振り返った。
「名前を聞いていません」
「名前が必要ですか」
「誰に薬を奪われたのか分からないままでは、対処できません」
男は少し考える素振りを見せた。
「蘭堂仁です」
その名に聞き覚えはなかった。だが、つづけて男が口にした会社名は、律も知っていた。
「灰庭危機管理の代表をしています」
「……灰庭危機管理」
その名には聞き覚えがあった。医療機器メーカーにいた頃、重大事故を起こした関連会社が、被害者対応のために一度だけ契約した危機管理会社だった。表向きは企業不祥事の収拾や交渉を請け負っていたが、その過程で何をしているのか、社内でも詳しく知る者はいなかった。
蘭堂は、律が知っていたことを喜ぶでもなく、ただ一度うなずいた。
「では、久世さん。最初の質問です」
尾関が後部ドアを開く。暗い車内に、白いケースが置かれた。
「先ほど、路地で見捨てた男性の顔を覚えていますか」
律は答えようとして、言葉を失った。
思い出せるのは、刃物が腹の中で捻られる音と、傷口に浮いた黄色い脂肪の粒、血と尿の混じった臭気、それに革靴の踵が路面を擦る湿った音だった。
男の顔だけが、どこにもない。
「……覚えていません」
「素晴らしい。正直な答えです」
蘭堂の口元に、あの薄い笑みが浮かんだ。
「では、次の質問です」
律は手の中のカートリッジを握った。未明が血のついた顔を上げ、蘭堂をにらんでいる。
「あなたは、誰を見捨てれば平静でいられる?」
律は手の中の一本を見た。
ケースに入っていたのは、今夜を生き延びるための時間だった。その大半を、顔も知らない少年の指一本と引き換えに差し出した。
今回、見捨てたのは他人ではない。
数時間後の自分だった。
腹部ではポンプが断続的に作動している。それでも、走りつづけ、尾関の暴力を前に張りつめた身体が要求する量に、投与が追いついていなかった。
左手首が震えた。
> 20:36 CORTISOL 8.0
> CARTRIDGE 71 MIN
八・〇は平静の証明ではない。身体が危険域の縁まで削られた数字だった。
蘭堂は時計を見ていない。それでも、律の答えを聞いたように薄く微笑んだ。
「なるほど。今回は、ご自分ですか」
後部ドアが閉まり、黒いワゴン車は駐車場を出ていった。
律の手には、一本の薬だけが残されていた。




