第三章 残り八十三分
右端の一本だけは、薬だけが入っているようには見えなかった。
透明な液体の中心に、髪の毛ほどの細い影が立っている。律がカートリッジを傾けると、液面は遅れて動いたが、その影は内部に固定されたまま角度を変えなかった。
「それ、ニセモン?」
女が律の手元をのぞき込んだ。
律はカートリッジをもう一度傾け、内部に残る細い影を見た。
「……分かりません」
「分かんない薬を腹に入れてんの?」
「これはまだ入れていません」
「そういう話じゃなくて」
女の声に重なるように、近づいてくる男の靴底が砂を踏んだ。公園の入口にはもう一人が残り、歩道へ寄せた黒いワゴン車では、開いた後部ドアの奥に人影が見える。
律は異常な一本をケースへ戻し、蓋を閉めた。
「走れますか」
「あんたよりは」
女はそう答えて一歩退いたが、律はケースを渡さなかった。左手首が震え、使用中のカートリッジが残り十七分になったことを知らせている。
「先に交換します」
「は?」
「このまま走れば、途中で動けなくなります」
「交換してる間に捕まんだろ」
律は近づいてくる男を見た。返答を考えていたのではなく、相手がここへ達するまでの時間を測っていた。
「走っても捕まります」
律は公園の奥にある公衆トイレへ目を向けた。出入口は一つだが、側面と背後を植え込みに囲まれ、外から手元を見られずに済む。交換に必要な時間は、何も起きなければ二十六秒だった。
男との距離は七メートルを切っていた。
「時間を稼いでください」
「なんで私がやんの」
「弟を取り戻したいなら、私を死なせないほうがいい」
女の目つきが変わった。律は構わず公衆トイレへ向かい、走らずに歩いた。男がそれを見て速度を上げると、女は足元の空き缶を蹴った。
缶は乾いた音を立てて男の前を横切り、ベンチの脚に当たった。座っていた若い男が立ち上がり、何すんだよ、と女へ声を荒らげた。
「そいつが蹴った」
女は追っ手を指した。
「人のせいにすんな、クソガキ」
若い男が女の腕をつかもうとし、連れの女性が止めに入った。三人が進路へ重なると、追っ手は邪魔だと言って若い男の顔を片手でつかみ、ベンチの背へ叩きつけた。
鼻の軟骨が潰れる湿った音がした。若い男は両手で顔を覆い、指の隙間から血を垂らして膝をついた。連れの女性が悲鳴を上げるなか、追っ手は振り返りもせず、その身体を跨いで進んできた。
律はその間にトイレの陰へ入った。
*
コートの前を開き、シャツをたくし上げると、臍の右下に固定された黒いポンプが現れた。律は側面のボタンを三秒押し、投与を停止させた。
> 投与停止
> 交換してください
作動音が消えた途端、身体を外側から支えていたものまで失われたような感覚がした。舌が急に乾き、カートリッジをつまむ指先から熱が引いていく。視界はまだ明瞭だったが、十八秒以内に新しい一本を認識させなければ警告音が鳴る。
ケースから正常に見える左端の一本を抜き、ポンプの蓋を開ける。使用中だったカートリッジを引き出すと、底にわずかな薬液が残っていた。
背後で、女の声がした。
「ねえ」
律は振り返らず、新しい一本を差し込んだ。
「見張っていてください」
「そうじゃなくて、出口にもいる」
女は一人で逃げようとしたらしい。乱れた息を整えながら、植え込みの隙間から公園の反対側を見ている。
「二人?」
「三人。向こうにもう一人いた」
律が蓋を閉めると、ポンプがカートリッジを読み取った。腹部へ最初の薬液が送り込まれ、鈍い圧迫感が皮膚の下へ広がっていく。
> CORTISOL 8.1
> CARTRIDGE 83 MIN
「入れたの?」
律はすぐには答えず、腹部に広がる圧迫感が消えるのを待った。腕時計の数値が八・一で止まったことを確かめ、ようやく息を吐いた。
「……入りました」
「じゃあ、もう平気なんだろ」
「八十三分だけです」
女は律の腕時計へ顔を寄せた。
「新品なのに?」
「一本で通常は九十分です。いまは身体の負荷が高いため、八十三分と予測されています」
「それがゼロになったら死ぬ?」
律は抜いたカートリッジを、空いた場所へ戻しながら答えた。
「すぐに死ぬわけではありません。薬の供給が止まり、数値が下がる。八・〇を割ると、目眩や震えが始まります」
「いま八・一じゃん」
女が驚いて律の顔を見た。
「走った分だけ下がりました。五・〇を割れば意識を失います」
「だったら、多めにぶち込めばいいじゃん」
「十二・〇を超えた状態が続けば、不整脈を起こします」
「少なくても死ぬし、ぶち込みすぎても死ぬってこと?」
「そうです」
「面倒くさ」
女は吐き捨てるように言ったあと、律の腹部に目を落とした。ポンプから伸びる細い管が皮膚の下へ入っているのを見て、唇の端をかすかに歪める。
「それ、痛くないの」
シャツを下ろしかけた律の手が止まった。
「……慣れました」
「痛くないとは言わないんだ」
律はシャツでポンプを隠した。
「質問に答えている時間はありません」
「自分は私の弟のこと、勝手に嗅ぎ回ったくせに」
律はコートのボタンを一つだけ留めた。女の言うとおりだったが、謝る必要性より先に、三人の位置を確かめた。
入口にいた男は変わらず退路をふさいでいる。空き缶で足止めされた男は、トイレまで十メートルほどの場所にいた。反対側の出口から入ってきた三人目は、白いスニーカーを履き、スマートフォンを耳に当てている。
三人は互いに声をかけない。それでも、律と女を囲む間隔はほぼ等しかった。
「あの一本を渡せばいい」
女がケースを指した。
「変なのが入ってたやつ。あいつら、それが欲しいんでしょ」
「断定できません」
「ほかの五本と違うんだから、それに決まってる」
律は反論する前に、ケースの右端を見た。
「違うからこそ、薬として残す必要があります」
「偽物かもしれないのに?」
「薬かもしれません」
律は右端の一本を取り出し、街灯の光へ透かした。内部の細い影が何なのかは分からない。だが薬液らしきものは入っており、封も破られていなかった。
「これも、私の八十三分かもしれない」
女は何か言いかけたが、追っ手の姿を見て口を閉じた。空き缶を避けた男が、コートのポケットから黒い折り畳み式の警棒を出していた。
「二十秒後に、ケースを持って右へ走ってください」
律は異常な一本をコートの内ポケットへ入れた。
「なんでまた私が持つんだよ」
「ケースには五本あります。正確には、薬が四本と、使い終えた一本です」
「そっちは?」
「型番の違う一本を、見えるように持って左へ行きます」
女は律の意図を考え、三人の男を順に見た。
「どっちが当たりか、あいつらに選ばせるの?」
律は男たちの間隔をもう一度確かめた。一人でも動かなければ、計画は成立しない。
「選んでいる間だけ、人数が割れます」
「私を追ったのが二人だったら?」
律は女を見た。答えるまでの一瞬に、彼女の眉間の皺が深くなった。
「……その可能性が高いです」
「ふざけんな」
「あなたのほうが速い」
「そういう問題じゃねえだろ」
「十秒です」
律はケースを女の胸へ押しつけた。受け取らなければ地面へ落ちるため、女は両腕で抱えざるを得なかった。
「西側の出口を出た先に、黄色い看板の焼肉店があります。裏の路地で待ってください」
「行かなかったら?」
「私が先に死ぬだけです」
「弟のことは」
「分からなくなる」
それが女に対して最も有効な答えだった。
律は内ポケットから異常なカートリッジを抜き、男たちにも見える高さで握った。透明な筒が街灯を反射すると、警棒を持った男の目がその手へ向いた。
「行って」
女がケースを抱え、右へ走り出した。
律は左へ向かった。
三人の足が一瞬止まった。
白いスニーカーの男は女を追い、入口にいた男も同じ方向へ動いた。警棒を持った男だけが律へ進路を変えた。
ケースと一本。
五本と、型番の違う一本。
男たちは、どちらも捨てられなかった。
*
律は公園北側の細い通路へ入り、カートリッジを握ったまま速度を上げた。
腕時計に投与量上昇の表示が出たが、確認しなかった。背後から一定の間隔で足音が追ってくる。相手は全力ではない。律が長く走れないことを知り、疲れるのを待っている。
前方のフェンス沿いに、清掃用の金属製物置があった。律はその手前で足を緩め、カートリッジを右手から左手へ移した。
追っ手が距離を詰めてくる。
律は物置の角を曲がり、男の視界から消えた瞬間、カートリッジをコートの内側へ戻した。代わりにポケットからスマートフォンを出し、透明なケースだけを外して左手に握る。
男が角を曲がった。
律は空の透明ケースをフェンス越しに投げた。街灯の光を受けたそれは、回転しながら隣接する駐車場へ落ちた。
男の視線が、宙を飛ぶ透明な物体を追った。
その間に、律は物置と植え込みの隙間へ身体を滑り込ませた。肩が枝へ擦れ、枯れ葉が鳴ったが、男はフェンスへ駆け寄っている。
律は息を止めた。
駐車場のアスファルトに落ちていたのは、ひびの入ったスマートフォンケースだった。
男がそれに気づき、「クソが」と声を荒らげて振り返ったときには、律は植え込みの裏側から歩道へ出ていた。
*
黄色い看板の焼肉店裏には、ビールケースと蓋の割れたポリバケツが積まれていた。室外機の熱風に焼肉の脂の匂いが混じり、狭い路地へこもっている。
女の姿はなかった。
律は壁へ背をつけ、呼吸を整えながら時計を確認した。
> 20:27 CORTISOL 8.4
> CARTRIDGE 81 MIN
交換してから四分も経っていない。予測残量は二分減っただけだが、律にはその数字が、実際より速く失われているように見えた。
女が戻らなければ、薬は手元に一本しか残らない。それも、正常に投与できる保証のない一本だった。
自分でケースを渡した。彼女が逃げる可能性も分かったうえで選んだことだった。
路地の入口で足音がした。
律は異常なカートリッジを握り、壁から背を離した。
現れたのは女だった。黒いパーカの脇を泥で汚し、息を切らせながら、白いケースを抱えている。
「二人とも、まだ公園のほう探してる」
女はケースを渡さず、律から二歩離れた場所に立った。
「来ないと思っていました」
「私だって、戻りたくて戻ったんじゃない」
「では、なぜ」
女はすぐに答えず、来た道を振り返った。
「……あんたが捕まったら困るから」
「なぜ困るんです」
「弟を連れてる奴まで、追えなくなる」
女は呼吸を整え、ケースを抱え直した。
「勘違いすんな。返すとも言ってないから」
律は女の腕の中にあるケースを見た。奪い返そうとすれば、また殴られる可能性がある。だが、追っ手が近くにいる状況で争うほうが不利益だった。
「名前は」
「は?」
「呼び方がないと、不便です」
女は口を開きかけてやめた。路地の入口を確かめ、律が答えを待っていることに苛立ったように舌打ちした。
「未明。三枝未明」
「久世律です」
「知ってる。灰色の男が呼んでた」
律は未明の顔を見た。彼女は路地にいた灰色の男の姿を見ていた。それでも、あの男の名前までは知らないらしい。
「あんた、本当に八十三分しかないの?」
未明がたずねた。
律は腕時計へ目を落とした。
> CARTRIDGE 80 MIN
「いま、八十分になりました」
交換を終えてから、すでに三分が失われていた。
そのとき、未明の腕の中で、白いケースが一度だけ震えた。
二人とも動きを止めた。
「……いまの、何」
未明がケースを見下ろした。
律は答えず、蓋に手を伸ばした。
内側から、もう一度、短い振動が伝わってきた。




