第二章 盗人
> 20:20 CORTISOL 8.0
久世律は、人を見殺しにして走っていた。
黒いパーカを着た人物は、十四メートルほど先にいる。右手には白い保冷ケースが提げられ、走るたびに膝の脇で揺れていた。一本九十分の薬が六本。律に残された九時間が、見知らぬ人間の手の中で遠ざかっていく。
職安通りへ出る手前で、フードの人物が肩越しに振り返った。
まだ若い女だった。目が合ったのは一秒にも満たず、驚いた様子も見せないまま、金曜夜の人波へ身体を滑り込ませた。
歩道には酔客が横一列に広がり、飲食店の看板を持った客引きが、車道との境までせり出している。女は人と人の隙間を縫うように走ったが、律には同じことができなかった。行く手をふさいだ男の肩へぶつかると、「痛っ……おいこら!!」と背後から怒鳴られたが足を止める余裕はない。
そのとき、腹部のポンプが低い作動音を立てた。皮膚の内側を細い針で押し広げられるような感覚につづいて、腕時計が二度震える。
> 投与量上昇
運動による負荷を補うため、ポンプが薬を送り込む速度を上げていた。女との距離を縮めるほど、いま使用しているカートリッジは早く空になる。かといって速度を落とせば、残り六本を持った女が人混みに消える。
律は女の黒い背中を見失わない程度に速度を抑え、ぶつかりそうになる人間の肩だけを避けて走った。
女が大久保公園の角を曲がった。数秒遅れて同じ角へ入ったときには、白いケースも黒いパーカも、律の視界から消えていた。
*
公園の入口で立ち止まった律は、背筋を伸ばしたまま四秒かけて息を吸い、六秒かけて吐いた。二年前に救急搬送されてから、一度も変えていない呼吸法だった。
三度目の呼吸を終える前に、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。音はビルの間で反響し、近づいているのか、離れているのかも判然としない。
律はコートのポケットに手を入れ、スマートフォンを握った。画面は暗いままだった。一一九へつながる直前で通話を閉じたのは、ほかの誰でもない。
路面を擦っていた白衣の男の踵が、耳の奥でまた鳴ったような気がした。律は奥歯を噛みしめ、腕時計を確認した。
> 20:22 CORTISOL 8.7
> CARTRIDGE 18 MIN
八・〇から持ち直したのは、身体が平静を取り戻したからではない。走行負荷を検知したポンプが、投与速度を引き上げた結果だった。
病院を出たとき、使用中のカートリッジには四十一分の予測残量があった。腕時計に表示される残り時間は、現在の速度で投与が続いた場合の数値である。呼吸と心拍が戻れば延びる可能性はあるが、すでに体内へ送り込まれた薬が戻るわけではない。
二分ほど走っただけで、予測上の猶予は二十三分も縮んでいた。このままの投与が続けば、午後八時四十分には空になる。予備を取り戻せなければ、そのあと数値がどの速度で落ち、いつ意識を失うかまでは計算できなかった。
律は表示を消し、公園の中へ目を向けた。
入口脇では二人の男が煙草を吸い、ベンチには若い男女が座っている。フェンス際で段ボールを束ねている老人のほかに、動いている人間はいなかった。
黒いパーカの女が律より速いとは思えない。ケースを右手に持ったまま、公園を横切って別の通りへ抜けたなら、入口から一瞬でも姿が見えたはずだった。
律は走らず、公園の外周に沿って左へ曲がった。
*
女は北側にある自動販売機の陰へ身を寄せ、律に背を向けていた。白いケースを足元に置き、スマートフォンを耳へ押し当てている。
「ちゃんと取った。だから――」
女の声が止まった。電話の相手が何を言っているのか、律の位置からは聞き取れない。うつむいた女の肩が、時間をかけて沈んでいった。
「約束が違う」
返事を待つ間、女の右足が何度も地面を擦った。
「弟に指一本でも触ってみろ。マジで殺すから」
女は声を押し殺して言い、相手の返事を待たずに通話を切った。
律は自動販売機の陰から姿を見せた。
「そのケースを返してください」
女が跳ねるように振り向き、足元のケースを胸へ抱えた。フードの奥に見えた顔は若く、左の眉から額にかけて治りかけの傷が伸びている。
「来んな」
「それがなければ、私は死にます」
「知らねえよ、そんなの」
女は右足を引き、逃げる方向を探すように律の左右へ目を走らせた。
「ケースを渡すよう命じた相手は、弟を返すと言いましたか」
「あんたには関係ない。失せろ」
律が一歩近づくと、女はケースを右手に持ち替えた。左腕だけを身体の前に残したのを見て、律は足を止めた。
「いくらで頼まれたんです」
「来んなって言ってんだろ」
「金ではないなら、弟を取り戻すためですか」
女の左手が動いた。避ける間もなく拳が頬骨へめり込み、中指にはめられた太い銀の指輪が、頬の肉を内側から犬歯へ押しつけた。ぶつり、と粘膜が裂ける感触があり、視界の中央が白く弾ける。
律が舌を動かすと、切れた頬の内側へ触れた。ぬるい血が唾液に混じり、歯茎を伝って喉へ流れ落ちた。
腹部でポンプが作動した。
「それ以上来んな」
殴った左手を背中へ隠しながら、女はもう一度言った。声は強かったが、剥き出しになった手首が細かく震えている。
律は距離を保ち、口の中にたまった血を飲み込んだ。
「電話の相手は、弟を返すとは言わなかったんですね」
「黙れ。勝手に分かったような口きくな」
「代わりに、次の指示を出した」
「黙れって言ってんだろ!」
女の声が公園に響き、入口で煙草を吸っていた二人の男が、ほとんど同時に顔を上げた。
律は二人の服装を見た。片方は薄手のコートを着込み、もう片方はパーカのポケットへ両手を入れている。煙草を持つ手は違っていたが、視線はどちらも白いケースへ向けられていた。
「ケースを渡しても、弟は戻りません」
声を落として伝えると、女は下唇を噛んだ。
「あんたに何が分かんだよ」
「私の前にも、同じ男に使われた人がいました」
女の視線が、律の顔からコートの裾へ移った。路地でついた血が、黒ずんだ染みになっている。
「死んだの」
律は答えなかった。
女は染みを見つめたまま、もう一度たずねた。
「助けなかったの?」
腕時計が震えたが、律は袖をめくらなかった。
「ケースを返してください」
女の顔から怯えが薄れ、代わりに嫌悪が浮かんだ。
「弟を助けなきゃなんないの」
「そのケースでは助けられません」
「あんたは自分が助かりたいだけでしょ」
「そうです」
即答されるとは思っていなかったのか、女が口を閉ざした。その間にも、入口の男たちは煙草を足元へ落とし、一人が火を踏み消してから公園へ入ってきた。もう一人は入口に残り、二人の逃げ道をふさいでいる。
「電話の相手から、ここで待つように言われましたか」
女は答えず、近づいてくる男を見た。
男は女と目が合うと、口元だけで笑って右手をコートのポケットへ入れた。
「ガキ、面倒かけんな。ケース置いて、こっち来い」
女の喉が小さく動いた。返事の代わりに、ケースを抱く腕へ力を込める。
女は白いケースを律へ投げつけた。
胸に当たったケースを、律は両腕で受け止めた。女はその横をすり抜け、反対側の出口へ走ったが、近づいていた男は追おうとせず、ケースを抱えた律へ身体の向きを変えた。
女の足が三歩目で止まった。
ケースを手放しても男の視線が自分から外れないと気づいたのか、女は律と男を見比べた。公園の外では黒いワゴン車が歩道へ寄り、音もなく後部ドアを開けている。
律はケースの留め具へ指をかけた。
「何してんの」
女が戻ってきた。
「薬を一本だけ抜きます。残りは渡す」
「渡したら、弟は――」
「あの男たちが見ているのは、あなたでも私でもありません」
律が留め具を外すと、近づいていた男の歩調が速まった。
ケースの中には、透明なカートリッジが三本ずつ二列に並んでいる。封はすべて閉じられ、ラベルも薬局で確認したときのままだった。
律は左端の一本を取ろうとして、右端に目を止めた。
型番が一本だけ違う。
ロットの違いで中身は同じだと、薬剤師は説明していた。しかし、その一本だけ、ケースを投げつけられたときにも液体の揺れる音がしなかった。
律はケースを傾けた。
五本のカートリッジでは透明な薬液が斜めに動き、すぐに元の位置へ戻った。右端の一本も遅れて傾いたが、液体の中心に残った細い影だけは動かなかった。
「どうしたの」
女がたずねた。
律は右端のカートリッジを抜き、指先で重さを確かめた。ほかの五本より、わずかに重い。
カートリッジの中には、細い影が一本、まっすぐ残っていた。




