↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/24

第一章 正常値

「八・四」


男が言った。


久世 律(くぜ りつ)は反射的に左手首を隠した。腕時計はコートの袖に覆われ、画面も消えている。それにもかかわらず、男は律の動揺を確かめるように、もう一度その数字を口にした。


「八・四。実に君らしい数字だ」


午後八時十七分。大久保病院裏手の路地で、律は灰色のコートを着た見知らぬ男と向かい合っていた。


二人の間には、白衣姿の男が膝をついている。腹に細い刃物を半ばまで埋められ、両手をだらりと垂らしていた。白衣の裾から落ちた血が、アスファルトの窪みに沿って律の靴先へ近づいてくる。


「誰ですか」


律がたずねても、灰色の男は答えなかった。代わりに白衣の肩へ手を置き、親しい相手を労わるような手つきで背中を支えた。


「この人を知っているか」


「知りません」


「それはよかった。知人を見殺しにするより、他人を見殺しにするほうが簡単だ」


灰色の男は刃物をすぐには抜かなかった。白衣の肩を支えたまま、腹の中で刃先をわずかに捻る。白衣の男の喉から押し殺した呻きが漏れ、血を吸った布地が傷口へ貼りついた。


それから灰色の男が手首を引くと、刃は濡れた抵抗を残して腹から抜けた。傷口をふさいでいたものが失われ、白衣の布地を押し上げるように血があふれ出す。男の身体は腰から前へ折れ、開いた口から空気だけを吐きながら、革靴の踵で二度、路面を叩いた。


その音に重なるように、腕時計が袖の下で震えた。


律は白衣の男から目を離し、画面を確認した。


> 20:17 CORTISOL 8.3


視線を戻すと、灰色の男の口元に薄い笑みが浮かんでいた。


「今、人が刺された」


「……見れば分かります」


「なのに君は、被害者より先に自分の数字を見た」


男は白衣の裾をつまみ、刃についた血を二度拭った。一度では落ちなかった赤い筋を確かめてから、ようやく律へ目を戻した。


「責めているわけじゃない。私でも、たぶん同じことをする」


「何が目的ですか」


男はすぐに答えず、律の袖に隠れた時計へ視線を落とした。


「君が何をすれば、八・〇を割るのか知りたい」


息を吸った律の胸が、途中で止まった。そのわずかな乱れまで観察していたのか、男は血の消えきらない刃先を下げ、はじめて律の名を呼んだ。


「実験を始めよう、久世律」


自分の名を知られている。そう理解するより早く、律の右手は腹部のポンプを押さえていた。男はその手をしばらく眺め、実験記録へ印をつけるように一度だけうなずいた。


    *


十三分前――午後八時四分。


大久保病院の自動ドアを出た律は、左手首を持ち上げた。


> 20:04 CORTISOL 8.6


会計に予定より四分かかっていた。信号は自宅までに二つあり、青の時間はそれぞれ四十二秒と三十七秒。歩幅を三センチ広げれば、午後八時三十四分の帰宅には間に合う。


予定どおりに動けば、身体も予定どおりに動く。二年前に発作を起こしてから、律はその考えを一度も疑わずに暮らしてきた。


病院近くの薬局へ立ち寄ると、薬剤師が白い保冷ケースをカウンターに置いた。


「六本です。念のため、一緒に確認しますか」


「お願いします」


蓋を開けたケースには、透明なカートリッジが三本ずつ二列に収められていた。律は左端から順に、封の状態、ラベル、液体の濁りを確かめていく。


一本で九十分。六本あれば九時間。低すぎれば意識を失い、高すぎれば心臓が止まる薬を、市販品で代用することはできない。ケースに並んだ六本は、そのまま律に残された時間だった。


「型番が一本だけ違いますね」


右端のカートリッジを指すと、薬剤師は端末を引き寄せ、画面とラベルを見比べた。


「あ、本当だ。でもロットが違うだけで、中身は同じです」


「ポンプ側の認識に〇・二秒の差が出ます」


「〇・二秒、ですか」


「差があると分かっていれば、問題ありません」


薬剤師は返答に困ったような笑みを見せたが、律は笑い返さなかった。違いがあることよりも、その違いに気づかないままでいることのほうが不快だった。


ケースをリュックの内ポケットへ収め、二つのファスナーを閉じる。左右の金具が中央で触れ合っているのを指先で確かめてから、律は薬局を出た。


通りへ足を踏み出した直後、左肩に何かがぶつかった。白衣の上から黒いジャケットを羽織った、四十前後の男だった。消毒液に混じって、汗の酸っぱい匂いがした。


「すみません」


口では謝りながら、男は律を見ていなかった。しきりに背後を振り返り、誰かに追われているように呼吸を弾ませている。右手には、乾ききっていない血がついていた。


その手に気を取られたとき、男の左手がリュックの脇へ触れた。


「何をしたんです」


律が肩を引くと、男は一歩離れた。


「あなたのじゃない」


「何がですか」


「六本目」


それだけ言い残して、男は大久保病院の裏手へ通じる路地へ歩き去った。


律は追わなかった。リュックを開ければ、中身を調べるだけでも二分はかかる。肩が触れただけの相手を呼び止める理由も、血のついた手を見たというだけで警察へ連絡する理由も、その時点では見つけられなかった。


何より、取り戻したばかりの四分を、根拠のない違和感に費やしたくなかった。


律は閉じたファスナーを服の上から押さえ、予定していた道へ足を向けた。


    *


午後八時十七分。


先ほどの白衣の男が、律の足元で血を流していた。


「実験を始めよう、久世律」


灰色の男の声を聞きながら、律は四秒かけて息を吸い、六秒かけて吐いた。二年前の発作以来、身体に異変を感じるたび繰り返してきた呼吸法だった。


路地の出口は近く、大声を出せば表通りを歩く誰かに届く。灰色の男が刃物を持っているのは右手で、白衣の男もまだ息をしていた。状況だけを見れば、逃げながら助けを呼ぶ以外に選択肢はない。


しかし、声を張り、全力で走れば、呼吸も心拍も上がる。身体が要求する量に応じてポンプの投与量が増えれば、手元の薬はそれだけ早く尽きる。灰色の男は、律が逃げないのではなく、逃げられないことまで知っているらしかった。


「私を殺すつもりなら、実験にはなりません」


律がそう言うまでには、ひと呼吸分の時間がかかった。男は刃先を下げたまま、続きを促すように眉を動かした。


「あなたは私の病歴と数値を知っている。殺すだけなら、薬を奪えば済む。この人も、刃物も必要ない」


「それで?」


「私に何かを選ばせたい」


灰色の男は律の顔を見たまま数秒黙り、やがて歯を見せて笑った。


「いい。話が早い人間は好きだ」


左手首が再び震えた。


> 20:18 CORTISOL 8.2


「八・二」


男は、律が袖をめくるより先に言った。


背中を伝った汗が、シャツと肌の間をゆっくり落ちていく。時計の表示を見られているのではない。体内の状態を測るポンプそのものから、数値を抜き取られている。


自分の腹に埋め込まれた機械へ、見知らぬ男の手が触れている。その感覚を意識した途端、律の呼吸がまた浅くなった。


「七・九で指が震える。七・五で言葉が崩れる。五・〇で意識を失う。では――」


男は白衣の背中へ靴底を当て、体重をかけた。白衣の男の喉から空気の潰れるような音がして、腹の裂け目に黄色い脂肪の粒がのぞいた。押し出された血が腹を伝い、路面へ落ちて粘りのある糸を引いた。


「他人が死ぬのを黙って見ていたら、君はいくつになる?」


律はスマートフォンを取り出し、一一九を押した。


「救急車を呼びます」


「どうぞ」


予想に反して、男は止めようとしなかった。通話ボタンへ触れかけた律の親指が、その場で止まった。


「止めないんですか」


「電話した瞬間に、君の薬を持った子が走る」


路地の奥で靴底が鳴った。


律が目を向けると、黒いパーカのフードをかぶった小柄な人物が立っていた。胸元には、薬局で受け取ったものと同じ白い保冷ケースが抱えられている。


リュックを引き寄せると、内ポケットのファスナーが左右に開いていた。薬局を出る前に金具が触れ合っていることまで確かめたはずだった。


「いつ……」


「君は人が刺されると、被害者ではなく時計を見る」


灰色の男は白衣から片足を退け、刃物をコートの内側へしまった。


「一秒あれば十分だ」


フードの人物が身を翻し、路地の奥へ駆け出した。


反対側では、白衣の男が仰向けになろうとして果たせず、革靴の踵だけを路面に擦りつけていた。股のあたりから濃い染みが広がり、血の匂いに尿の刺激臭が混じった。


キュ、キュ、と湿った音がつづいた。


「選びなさい」


灰色の男の声には、白衣の男を刺したときと同じ落ち着きがあった。


「そこで一一九を押せば、この人には助かる可能性が残る。その代わり、君の九時間は人混みに消える」


律の親指は、通話ボタンの上に置かれたままだった。


「薬を追えば?」


「この人は死ぬ」


「殺したのは、あなたです」


「だが、助けないと決めるのは君だ」


白衣の男の踵が、また一度鳴った。


腕時計に目を落とすと、表示は八・〇まで下がっていた。ここを割れば、最初に指先の感覚が消え、次に言葉が出なくなる。その先に起きることも、律は二年前の発作で知っていた。


「残り二秒」


灰色の男が告げた。


「一」


律は通話画面を閉じ、白いケースを持った影を追って走り出した。


背後から、あの湿った音がもう一度だけ聞こえた。


それきり、白衣の男の踵は鳴らなかった。


律は振り返らずに走った。路地を抜ける寸前、灰色の男の声が背中へ届いた。


「八・〇」


声には、隠しようのない愉悦がにじんでいた。


「君の正常値は、そこなんだな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。