↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/24

第十章 公開処刑

画面の中で、刃先が未明の爪の根元から離れた。


助かったのではない。男が彼女の小指を金属板へ押しつけ直し、切る位置を確かめただけだった。後ろ手に縛られた未明が身を捩るたび、痛めた右手首まで一緒にねじれ、塞がれた口から低い声が漏れている。


映像の隅で、六分の表示が一秒ずつ欠けていった。


【切断まで 05:42】


「南へ行く」


律はスマートフォンを握ったまま、北口の前を塞ぐ人垣へ眼を向けた。


数分前まで遠巻きに撮っていた者たちが、今は互いの肩が触れるほど近づいている。二十代ほどの男が、スマートフォンを胸の前に構えたまま、律の進む方へ身体をずらした。


「おいお前、逃げんの?」


問いかける声に怒気はない。返事が動画へ入ることを期待している声だった。


「道を空けてください。この人、血圧が落ちています」


澪が律と男の間へ入り、濡れたスクラブの胸元から職員証を引き出した。男はそこへカメラを寄せ、文字を読もうとする。


「看護師も共犯って出てるぞ」


「だったら警察を呼んで。撮るより先に」


「もう来てるよ」


男が顎で示した先から、雨に濡れたサイレンの光が近づいていた。北へ向かう車列の隙間で赤色灯が明滅し、そのたび、券売機の前にいる者たちの顔が赤く染まる。


本物の駅員が改札の内側から声を上げた。


「その場を動かないでください!」


律の右膝が、遅れて震えはじめた。階段を往復した直後とは違い、今度は膝だけではなく、太腿の内側から力が抜けている。耳の奥に詰まった雨音が、人の声を遠ざけていた。


「歩ける?」


澪がたずねた。


「なんとか」


澪は答えを聞くと、律の左腕を自分の肩へ回した。濡れたスクラブ越しに伝わる体温へ身体が傾き、律は反射的に腕を戻そうとした。


「離さないで」


澪は前を見たまま言った。


「今度は、勝手に」


律の腕から力が抜けた。拒むための言葉を探しているあいだにも、画面の数字は減りつづけている。


「分かった」


澪は人垣の狭い隙間へ肩を入れた。律も歩幅を合わせ、線路沿いの道へ出る。男が伸ばした手が濡れたコートの背をつかみかけたが、澪が振り返りざまに払いのけた。


「患者に触らないで」


その一言にひるんだ隙に、二人は南へ進んだ。


背後から、十人ほどの足音がついてくる。誰かが「動いた」と叫び、別の誰かが配信へ現在地を読み上げていた。捕まえるためというより、映像の中心から置いていかれまいとする足音だった。



線路沿いの細い道は、雨を避ける場所がなかった。


律は澪の肩へ体重を預けすぎないよう、左脇腹を庇いながら歩いた。息を深く吸うと、殴られた箇所が内側から押し返してくる。浅くすれば酸素が足りず、深くすれば痛みで身体が硬くなる。呼吸のたびに、どちらの損失を取るかを選ばされていた。


腹部のポンプが低く唸る。投与量を増やしている音だった。


> 22:14 CORTISOL 6.6

> CARTRIDGE 32 MIN

【切断まで 03:51】


二十二時十一分に三十六分あった予測残量が、三分足らずで四分減っている。有効な薬が入っていても、負傷した身体を動かせば消費は実時間より速い。数値は〇・一落ち、視界の端にある暗い輪も狭まっていた。


「澪、先に行って」


「嫌」


「一人なら間に合う」


「あんたがここで倒れたら、私が戻る。それで余計に遅れる」


「未明の指が――」


「分かってる」


澪の声が鋭く切れた。


「分かってるから、一緒に行くの。歩幅、変えないで」


西武新宿駅前通りの信号が赤へ変わりかけていた。澪は走らず、律の身体を支えたまま横断歩道へ入る。濡れた車道でタクシーが長く警笛を鳴らし、二人のすぐ後ろを、スマートフォンを掲げた若者が駆け抜けた。


律の画面が震えた。


未明の映像が一度消え、文字だけの黒い画面へ切り替わる。


【広場の中央に、一本ご用意しました】

【ボタンが押されればケースは開きます】

【代価 三枝未明 右小指第一関節】


律の足が止まりかけた。


「どうしたの」


画面を見せると、澪の肩が強張った。それでも歩幅は乱さない。


「押さなければいい」


「誰が押しても同じです」


スマートフォンから蘭堂の声がした。


通話へ切り替わった表示はない。映像の中に、彼の声だけが重なっている。


『今夜、あなたは何度も、私が差し出した二択の外へ出ようとした。ですから今回は、選ぶ人間を増やしました』


「一般人を使うつもりですか」


『一般人、という括りは便利ですね。自分とは違う判断をする人間を、ひとまとめにできる』


「条件を変えた」


『いいえ。久世さんが押せば、薬が手に入り、三枝さんの指が減る。あなたが押さなければ、誰かが押すかもしれない。それだけです』


律は、背後からついてくる足音を聞いた。


『止めてください。あなたにできるなら』


シネシティ広場の光が、雨のむこうに見えてきた。



広場の中央には、最初からイベントでも予定されていたように、腰の高さほどの透明なケースが置かれていた。


白い緩衝材の上に、カートリッジが一本。その手前に、掌ほどの緑色のボタンがある。雨を弾く透明な蓋には鍵穴がなく、底部から伸びた黒いコードが、敷石の継ぎ目を這っていた。


広場に面した大型ビジョンでは、未明の姿が映し出されている。


白いワンボックス車内ではなかった。暗い床へ据えつけた椅子に縛られ、右腕だけを前へ引き出されている。腫れた手首は革の帯で固定され、その先の小指が、浅い金属皿の上へ載せられていた。


黒い手袋をはめた男が、両手で大型のケーブルカッターを持っている。半月状の刃は、未明の爪に近い関節を上下から挟んでいた。


視聴者数は、一万八千を越えていた。


【切断まで 01:38】


「押すな!」


律が叫ぶと、広場にいた数十人の顔がいっせいにこちらへ向いた。


自分の声が、どれほど大きかったのか分からない。空気を一度に吐き出したせいで左脇腹が痙攣し、喉の奥に鉄の味がひろがった。


大型ビジョンの下に、律の知らない文章が表示されていた。


【少女を救うには、中央の救助ボタンを押してください】

【犯人はボタンを妨害しています】


「助けるボタンだろ!」


黒いレインジャケットを着た若い男が、スマートフォンをジンバルへ載せたままケースへ近づいた。画面には《現場着いた》《女の子まだ生きてる》という文字が流れている。


律は男の前へ出た。


「押せば指が切られる」


「嘘つけ。画面に救助って出てんじゃん」


「私の端末には、切断の代価だと表示されている」


「見せろよ」


律がスマートフォンを向けるより早く、別の男がその手首をつかんだ。


「時間稼ぎだろ。女の子、痛がってんじゃねえか」


握られた感触はなかった。腕を引かれ、肩の位置がずれたことで、つかまれたのだと分かった。


澪がケースと若い男の間へ入る。


「画面が二種類あるの。押さないで」


「あんたも仲間だろ」


「違う。私は看護師。あの刃で切ったら、止血しない限り――」


「じゃあ早く助けろよ!」


誰かが澪の腕を引いた。紺のスクラブの襟がずれ、肩から下げていたトートバッグが敷石へ落ちる。消毒綿の袋と包帯が雨の中へ散った。


それを見ても、手を離す者はいなかった。


画面の未明が顔を上げた。


広場の景色は見えていないはずだった。それでも、律を見つけたように、まっすぐカメラへ眼を向けている。


【切断まで 00:43】


「澪」


律は手首をつかむ男の指を、感覚のない左手で一本ずつ外そうとした。


「ボタンを押した人の画面を撮って」


「止めるのが先」


「両方、必要だ」


澪は一瞬だけ律の顔を見たが、何も言わず、雨の中へ落ちた自分のスマートフォンを拾った。


若い男がケースへ手を伸ばす。


律は男との間へ肩を差し込み、その身体を押し返した。左脇腹に熱いものが走り、右膝が落ちる。二人分の体重を受けたまま、濡れた敷石へ片手をついた。


周囲から腕が伸びた。


「邪魔すんな!」


「女の子を殺す気かよ!」


背後から両肩を押さえられ、コートの襟が喉へ食い込む。身体を起こそうとしても、脚が命令を受けつけない。腹部のポンプが警告するように、短い作動音を繰り返した。


> 22:18 CORTISOL 6.4

> CARTRIDGE 26 MIN

【切断まで 00:10】


画面の中で、男がケーブルカッターの柄を開いた。


未明は首を振った。手を引こうとして革帯が腫れた手首へ食い込み、椅子の脚が床を擦る。


「未明!」


律の声に、彼女の眼が見開かれた。


緑のボタンへ、若い男の掌が重なる。


「押すな!」


男は、押した。


ボタンが沈む音は、拍子抜けするほど小さかった。


透明ケースの底で電子音が鳴る。白い緩衝材の周囲に青い光が灯り、蓋の留め金が外れた。


同じ光が、画面の中にも点いた。


黒い手袋の男が、ケーブルカッターの柄を閉じた。


刃は切るより先に、未明の小指を平たく潰した。爪から色が消え、乳白色に濁った中央へ細い亀裂が走る。未明の身体が椅子ごと跳ねた次の瞬間、湿った木の枝を折るような音が、画面から一拍遅れて広場へ響いた。


爪のついた小さな先端が、金属皿へ落ちた。


最初は黒い粒にしか見えなかった血が、切断面からふくらみ、二度、脈に合わせて皿の縁を叩いた。男は用意していた白いガーゼを傷口へ押し当てる。白布の中央が赤く染まる速さだけが、映像が本物であることを証明していた。


未明の悲鳴は、口を塞ぐ布の中で潰れた。声にならない息が喉を擦り、見開かれた眼から涙と汗が同時に落ちる。痛みに逃げ場を失った両脚が何度も床を蹴り、金属の椅子が甲高い音を立てつづけた。


広場のどこかで上がりかけた歓声が、途中で消えた。


それでも、スマートフォンを下ろさない者がいた。


律のすぐ横にある画面では、いま起きた切断が数秒遅れで自動再生されていた。小さな指が、もう一度、金属皿へ落ちた。


ボタンを押した若い男は、自分の掌と大型ビジョンを交互に見た。


「……違う」


唇だけが動き、声にならなかった。


「助けるって、書いてあった」


透明ケースの蓋が、ゆっくりと持ち上がった。


中にあるカートリッジは、雨にも血にも濡れず、白い緩衝材の上で冷たい光を返していた。


大型ビジョンに文字が重なる。


《EXCHANGE COMPLETE》


『交換は成立しました』


蘭堂の声だった。


「成立していない」


律は人に押さえられたまま、画面を見上げた。


「私は押していません」


『ですが、止められなかった』


蘭堂の声音には、満足も興奮もなかった。書類の不備を指摘するように穏やかだった。


『公開された選択に、署名はいりません。薬はあなたのものです』


澪が、ケースの中へ手を伸ばした。


「取るな」


律が言うと、彼女の手が止まった。


「それは、未明の――」


「ここに置いて、あんたが死んでも、あの子の指は戻らない」


澪はカートリッジの封を目で確かめ、濡れていない包帯の袋へ入れた。


「薬として使えるかは、まだ分からない。証拠として持つ」


言い切ると、ボタンを押した若い男の前へ膝をついた。


「その画面、消さないで。見せて」


男は抵抗しなかった。差し出された端末には、まだ《少女を救助しました》という緑色の文字が表示されている。


澪はそれを、律の端末に残る《代価 三枝未明 右小指第一関節》の表示と並べ、写真を撮った。二台の画面に出ている時刻は、どちらも二十二時十八分だった。


律の肩を押さえていた手が、一つずつ離れていく。


誰かが「警察に見せろ」と言った。別の女は震える声で通報先へ、女の子の指がいま切られた、と説明している。なおも律へカメラを向ける者もいたが、先ほどまでのように全員が同じ距離では近づいてこなかった。


群衆の視線が割れていた。


律は右膝へ手を置き、時間をかけて立ち上がった。視界の縁にある暗い輪は、さきほどより内側へ狭まっている。吐く息を整えようとしても、画面の金属皿が瞼の裏に残り、呼吸のたびに小さな指が落ちた。


撮影している者たちへ顔を向ける。


「撮っているなら、ここからも切らずに残してください」


声を張る力はなかった。それでも広場が静まっていたため、言葉は近くの端末へ届いた。


「今、指を切られた女性は三枝未明。十九歳です。弟の三枝優真も拘束されています。二人を連れ去った指示者は、灰庭危機管理代表、蘭堂仁」


大型ビジョンの未明が動いた。


ガーゼを当てられた右手を男につかまれたまま、顔だけをカメラへ上げる。涙で濡れた眼に、さきほどまでとは違う力が戻っていた。


「中央のボタンを押した端末には、救助と表示されました。私の端末には、彼女の指を切ると表示された。両方の画面が残っています」


ビジョンが暗転した。


未明の姿も、金属皿も、一瞬で消えた。代わりに無音の広告が始まり、明るく笑う男女が、雨の広場を見下ろしている。


けれど、律へ向けられたスマートフォンは録画をつづけていた。


ポケットの中で、別の着信音が鳴った。


蘭堂の灰色のアイコンではない。


画面には、二年間、月に一度は見てきた名前が表示されていた。


御厨史郎。


同時に、広場の北側から警察官が入ってくる。制服の肩越しに赤色灯が重なり、拡声器を持った男が、全員その場から動かないようにと告げた。


澪が律のそばへ戻った。


「出て」


「なぜ今、御厨先生が」


「分からない。だから出るの」


律は通話を受けた。


「久世です」


『久世さん。御厨です。聞こえますか』


いつもと同じ、患者を安心させるために角を削った声だった。


律は腕時計へ眼を落とした。


> 22:19 CORTISOL 6.3

> CARTRIDGE 23 MIN

> DOSE RISING


『いま使っているカートリッジを、すぐに外してください』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。