第十章 公開処刑
画面の中で、刃先が未明の爪の根元から離れた。
助かったのではない。男が彼女の小指を金属板へ押しつけ直し、切る位置を確かめただけだった。後ろ手に縛られた未明が身を捩るたび、痛めた右手首まで一緒にねじれ、塞がれた口から低い声が漏れている。
映像の隅で、六分の表示が一秒ずつ欠けていった。
【切断まで 05:42】
「南へ行く」
律はスマートフォンを握ったまま、北口の前を塞ぐ人垣へ眼を向けた。
数分前まで遠巻きに撮っていた者たちが、今は互いの肩が触れるほど近づいている。二十代ほどの男が、スマートフォンを胸の前に構えたまま、律の進む方へ身体をずらした。
「おいお前、逃げんの?」
問いかける声に怒気はない。返事が動画へ入ることを期待している声だった。
「道を空けてください。この人、血圧が落ちています」
澪が律と男の間へ入り、濡れたスクラブの胸元から職員証を引き出した。男はそこへカメラを寄せ、文字を読もうとする。
「看護師も共犯って出てるぞ」
「だったら警察を呼んで。撮るより先に」
「もう来てるよ」
男が顎で示した先から、雨に濡れたサイレンの光が近づいていた。北へ向かう車列の隙間で赤色灯が明滅し、そのたび、券売機の前にいる者たちの顔が赤く染まる。
本物の駅員が改札の内側から声を上げた。
「その場を動かないでください!」
律の右膝が、遅れて震えはじめた。階段を往復した直後とは違い、今度は膝だけではなく、太腿の内側から力が抜けている。耳の奥に詰まった雨音が、人の声を遠ざけていた。
「歩ける?」
澪がたずねた。
「なんとか」
澪は答えを聞くと、律の左腕を自分の肩へ回した。濡れたスクラブ越しに伝わる体温へ身体が傾き、律は反射的に腕を戻そうとした。
「離さないで」
澪は前を見たまま言った。
「今度は、勝手に」
律の腕から力が抜けた。拒むための言葉を探しているあいだにも、画面の数字は減りつづけている。
「分かった」
澪は人垣の狭い隙間へ肩を入れた。律も歩幅を合わせ、線路沿いの道へ出る。男が伸ばした手が濡れたコートの背をつかみかけたが、澪が振り返りざまに払いのけた。
「患者に触らないで」
その一言にひるんだ隙に、二人は南へ進んだ。
背後から、十人ほどの足音がついてくる。誰かが「動いた」と叫び、別の誰かが配信へ現在地を読み上げていた。捕まえるためというより、映像の中心から置いていかれまいとする足音だった。
*
線路沿いの細い道は、雨を避ける場所がなかった。
律は澪の肩へ体重を預けすぎないよう、左脇腹を庇いながら歩いた。息を深く吸うと、殴られた箇所が内側から押し返してくる。浅くすれば酸素が足りず、深くすれば痛みで身体が硬くなる。呼吸のたびに、どちらの損失を取るかを選ばされていた。
腹部のポンプが低く唸る。投与量を増やしている音だった。
> 22:14 CORTISOL 6.6
> CARTRIDGE 32 MIN
【切断まで 03:51】
二十二時十一分に三十六分あった予測残量が、三分足らずで四分減っている。有効な薬が入っていても、負傷した身体を動かせば消費は実時間より速い。数値は〇・一落ち、視界の端にある暗い輪も狭まっていた。
「澪、先に行って」
「嫌」
「一人なら間に合う」
「あんたがここで倒れたら、私が戻る。それで余計に遅れる」
「未明の指が――」
「分かってる」
澪の声が鋭く切れた。
「分かってるから、一緒に行くの。歩幅、変えないで」
西武新宿駅前通りの信号が赤へ変わりかけていた。澪は走らず、律の身体を支えたまま横断歩道へ入る。濡れた車道でタクシーが長く警笛を鳴らし、二人のすぐ後ろを、スマートフォンを掲げた若者が駆け抜けた。
律の画面が震えた。
未明の映像が一度消え、文字だけの黒い画面へ切り替わる。
【広場の中央に、一本ご用意しました】
【ボタンが押されればケースは開きます】
【代価 三枝未明 右小指第一関節】
律の足が止まりかけた。
「どうしたの」
画面を見せると、澪の肩が強張った。それでも歩幅は乱さない。
「押さなければいい」
「誰が押しても同じです」
スマートフォンから蘭堂の声がした。
通話へ切り替わった表示はない。映像の中に、彼の声だけが重なっている。
『今夜、あなたは何度も、私が差し出した二択の外へ出ようとした。ですから今回は、選ぶ人間を増やしました』
「一般人を使うつもりですか」
『一般人、という括りは便利ですね。自分とは違う判断をする人間を、ひとまとめにできる』
「条件を変えた」
『いいえ。久世さんが押せば、薬が手に入り、三枝さんの指が減る。あなたが押さなければ、誰かが押すかもしれない。それだけです』
律は、背後からついてくる足音を聞いた。
『止めてください。あなたにできるなら』
シネシティ広場の光が、雨のむこうに見えてきた。
*
広場の中央には、最初からイベントでも予定されていたように、腰の高さほどの透明なケースが置かれていた。
白い緩衝材の上に、カートリッジが一本。その手前に、掌ほどの緑色のボタンがある。雨を弾く透明な蓋には鍵穴がなく、底部から伸びた黒いコードが、敷石の継ぎ目を這っていた。
広場に面した大型ビジョンでは、未明の姿が映し出されている。
白いワンボックス車内ではなかった。暗い床へ据えつけた椅子に縛られ、右腕だけを前へ引き出されている。腫れた手首は革の帯で固定され、その先の小指が、浅い金属皿の上へ載せられていた。
黒い手袋をはめた男が、両手で大型のケーブルカッターを持っている。半月状の刃は、未明の爪に近い関節を上下から挟んでいた。
視聴者数は、一万八千を越えていた。
【切断まで 01:38】
「押すな!」
律が叫ぶと、広場にいた数十人の顔がいっせいにこちらへ向いた。
自分の声が、どれほど大きかったのか分からない。空気を一度に吐き出したせいで左脇腹が痙攣し、喉の奥に鉄の味がひろがった。
大型ビジョンの下に、律の知らない文章が表示されていた。
【少女を救うには、中央の救助ボタンを押してください】
【犯人はボタンを妨害しています】
「助けるボタンだろ!」
黒いレインジャケットを着た若い男が、スマートフォンをジンバルへ載せたままケースへ近づいた。画面には《現場着いた》《女の子まだ生きてる》という文字が流れている。
律は男の前へ出た。
「押せば指が切られる」
「嘘つけ。画面に救助って出てんじゃん」
「私の端末には、切断の代価だと表示されている」
「見せろよ」
律がスマートフォンを向けるより早く、別の男がその手首をつかんだ。
「時間稼ぎだろ。女の子、痛がってんじゃねえか」
握られた感触はなかった。腕を引かれ、肩の位置がずれたことで、つかまれたのだと分かった。
澪がケースと若い男の間へ入る。
「画面が二種類あるの。押さないで」
「あんたも仲間だろ」
「違う。私は看護師。あの刃で切ったら、止血しない限り――」
「じゃあ早く助けろよ!」
誰かが澪の腕を引いた。紺のスクラブの襟がずれ、肩から下げていたトートバッグが敷石へ落ちる。消毒綿の袋と包帯が雨の中へ散った。
それを見ても、手を離す者はいなかった。
画面の未明が顔を上げた。
広場の景色は見えていないはずだった。それでも、律を見つけたように、まっすぐカメラへ眼を向けている。
【切断まで 00:43】
「澪」
律は手首をつかむ男の指を、感覚のない左手で一本ずつ外そうとした。
「ボタンを押した人の画面を撮って」
「止めるのが先」
「両方、必要だ」
澪は一瞬だけ律の顔を見たが、何も言わず、雨の中へ落ちた自分のスマートフォンを拾った。
若い男がケースへ手を伸ばす。
律は男との間へ肩を差し込み、その身体を押し返した。左脇腹に熱いものが走り、右膝が落ちる。二人分の体重を受けたまま、濡れた敷石へ片手をついた。
周囲から腕が伸びた。
「邪魔すんな!」
「女の子を殺す気かよ!」
背後から両肩を押さえられ、コートの襟が喉へ食い込む。身体を起こそうとしても、脚が命令を受けつけない。腹部のポンプが警告するように、短い作動音を繰り返した。
> 22:18 CORTISOL 6.4
> CARTRIDGE 26 MIN
【切断まで 00:10】
画面の中で、男がケーブルカッターの柄を開いた。
未明は首を振った。手を引こうとして革帯が腫れた手首へ食い込み、椅子の脚が床を擦る。
「未明!」
律の声に、彼女の眼が見開かれた。
緑のボタンへ、若い男の掌が重なる。
「押すな!」
男は、押した。
ボタンが沈む音は、拍子抜けするほど小さかった。
透明ケースの底で電子音が鳴る。白い緩衝材の周囲に青い光が灯り、蓋の留め金が外れた。
同じ光が、画面の中にも点いた。
黒い手袋の男が、ケーブルカッターの柄を閉じた。
刃は切るより先に、未明の小指を平たく潰した。爪から色が消え、乳白色に濁った中央へ細い亀裂が走る。未明の身体が椅子ごと跳ねた次の瞬間、湿った木の枝を折るような音が、画面から一拍遅れて広場へ響いた。
爪のついた小さな先端が、金属皿へ落ちた。
最初は黒い粒にしか見えなかった血が、切断面からふくらみ、二度、脈に合わせて皿の縁を叩いた。男は用意していた白いガーゼを傷口へ押し当てる。白布の中央が赤く染まる速さだけが、映像が本物であることを証明していた。
未明の悲鳴は、口を塞ぐ布の中で潰れた。声にならない息が喉を擦り、見開かれた眼から涙と汗が同時に落ちる。痛みに逃げ場を失った両脚が何度も床を蹴り、金属の椅子が甲高い音を立てつづけた。
広場のどこかで上がりかけた歓声が、途中で消えた。
それでも、スマートフォンを下ろさない者がいた。
律のすぐ横にある画面では、いま起きた切断が数秒遅れで自動再生されていた。小さな指が、もう一度、金属皿へ落ちた。
ボタンを押した若い男は、自分の掌と大型ビジョンを交互に見た。
「……違う」
唇だけが動き、声にならなかった。
「助けるって、書いてあった」
透明ケースの蓋が、ゆっくりと持ち上がった。
中にあるカートリッジは、雨にも血にも濡れず、白い緩衝材の上で冷たい光を返していた。
大型ビジョンに文字が重なる。
《EXCHANGE COMPLETE》
『交換は成立しました』
蘭堂の声だった。
「成立していない」
律は人に押さえられたまま、画面を見上げた。
「私は押していません」
『ですが、止められなかった』
蘭堂の声音には、満足も興奮もなかった。書類の不備を指摘するように穏やかだった。
『公開された選択に、署名はいりません。薬はあなたのものです』
澪が、ケースの中へ手を伸ばした。
「取るな」
律が言うと、彼女の手が止まった。
「それは、未明の――」
「ここに置いて、あんたが死んでも、あの子の指は戻らない」
澪はカートリッジの封を目で確かめ、濡れていない包帯の袋へ入れた。
「薬として使えるかは、まだ分からない。証拠として持つ」
言い切ると、ボタンを押した若い男の前へ膝をついた。
「その画面、消さないで。見せて」
男は抵抗しなかった。差し出された端末には、まだ《少女を救助しました》という緑色の文字が表示されている。
澪はそれを、律の端末に残る《代価 三枝未明 右小指第一関節》の表示と並べ、写真を撮った。二台の画面に出ている時刻は、どちらも二十二時十八分だった。
律の肩を押さえていた手が、一つずつ離れていく。
誰かが「警察に見せろ」と言った。別の女は震える声で通報先へ、女の子の指がいま切られた、と説明している。なおも律へカメラを向ける者もいたが、先ほどまでのように全員が同じ距離では近づいてこなかった。
群衆の視線が割れていた。
律は右膝へ手を置き、時間をかけて立ち上がった。視界の縁にある暗い輪は、さきほどより内側へ狭まっている。吐く息を整えようとしても、画面の金属皿が瞼の裏に残り、呼吸のたびに小さな指が落ちた。
撮影している者たちへ顔を向ける。
「撮っているなら、ここからも切らずに残してください」
声を張る力はなかった。それでも広場が静まっていたため、言葉は近くの端末へ届いた。
「今、指を切られた女性は三枝未明。十九歳です。弟の三枝優真も拘束されています。二人を連れ去った指示者は、灰庭危機管理代表、蘭堂仁」
大型ビジョンの未明が動いた。
ガーゼを当てられた右手を男につかまれたまま、顔だけをカメラへ上げる。涙で濡れた眼に、さきほどまでとは違う力が戻っていた。
「中央のボタンを押した端末には、救助と表示されました。私の端末には、彼女の指を切ると表示された。両方の画面が残っています」
ビジョンが暗転した。
未明の姿も、金属皿も、一瞬で消えた。代わりに無音の広告が始まり、明るく笑う男女が、雨の広場を見下ろしている。
けれど、律へ向けられたスマートフォンは録画をつづけていた。
ポケットの中で、別の着信音が鳴った。
蘭堂の灰色のアイコンではない。
画面には、二年間、月に一度は見てきた名前が表示されていた。
御厨史郎。
同時に、広場の北側から警察官が入ってくる。制服の肩越しに赤色灯が重なり、拡声器を持った男が、全員その場から動かないようにと告げた。
澪が律のそばへ戻った。
「出て」
「なぜ今、御厨先生が」
「分からない。だから出るの」
律は通話を受けた。
「久世です」
『久世さん。御厨です。聞こえますか』
いつもと同じ、患者を安心させるために角を削った声だった。
律は腕時計へ眼を落とした。
> 22:19 CORTISOL 6.3
> CARTRIDGE 23 MIN
> DOSE RISING
『いま使っているカートリッジを、すぐに外してください』




