第十一章 医者の声
外せば、投与が止まる。
「理由を教えてください、御厨先生」
律はスマートフォンを耳へ押しつけたまま、腹部のポンプへ伸びかけた右手を止めた。
広場の北側から入ってきた警察官は六人に増えている。先頭の男が拡声器を下ろし、律と澪へ両手を見せるよう命じた。その後ろでは二人が透明ケースを囲み、残る者が群衆を押し戻していたが、濡れた腕の隙間から突き出されたスマートフォンは、一本も二本もこちらを向いたままだった。
『説明している時間が惜しいんです。いまの一本を外して、投与を止めてください』
いつもの声だった。
治験を始めて間もない頃、腕時計が正常値を示しているのに、律が胸の異変を訴えたことがあった。装置の誤差だと片づける医師もいる中で、御厨だけは検査を止めた。
「装置は患者を診るためにあります。患者が、装置に合わせる必要はありません」
その言葉を、律は二年間、一度も疑ったことがなかった。
月に一度、診察室で検査結果を告げるときと同じ、患者を不安にさせる角だけを削った低い声。その声に従って二年間生き延びてきた律の指が、考えるより先にポンプの蓋を探った。
「触らないで!」
警察官の声が飛んだ。
律の肩が止まり、指先だけが濡れたコートの内側へ残った。触れているはずのポンプの硬さも、冷たさも分からない。
「この人の医療機器です」
澪が律の前へ半歩出た。紺のスクラブは雨を吸って黒ずみ、頬へ貼りついた髪の先から顎へ雫が落ちている。片手を警察官へ見せながら、もう片方で乾いた包帯の袋を腹へ押しつけていた。
「電話は主治医。薬を外せと言われてます。でも、この人はいま六・三です。止めたら意識を失うかもしれない」
「二人とも、手を見えるところへ。電話を切って、端末を地面に置いてください」
先頭の警察官は律の顔と腹部を見比べた。視線がポンプで止まる。機械に似せた爆発物を疑っているのか、ただ見慣れないだけなのかは判別できなかった。
律は腕時計へ眼を落とした。
22:19 CORTISOL 6.3
CARTRIDGE 23 MIN
DOSE RISING
DOSE RISINGは回復を意味しない。下がる数値へ追いつこうとして、ポンプが投与量を引き上げているだけだった。腹の奥では薬が送り込まれている。それでも指先から腕にかけての感覚は戻らず、視界の縁にできた暗い輪も、雨に滲む広場の光を少しずつ食っている。
「切れません」
律は警察官へ言った。
「電話の相手に、投与を止める理由を確認します。通話はスピーカーにします」
「ゆっくり置いてください。ほかの物には触らないで」
しゃがもうとした途端、右膝から力が抜けた。濡れた敷石が胸元まで迫り、澪の腕が脇へ入る。殴られた左脇腹を内側から掴まれたような痛みが走り、喉の奥へ鉄の味がひろがった。
「私が置く」
澪が端末を受け取り、画面を上にして二人の足元へ置いた。御厨の名前の上で雨粒が弾け、スピーカーから聞こえる呼吸へ雨音が混じる。
『警察の方、御厨史郎と申します。久世さんの治験を担当している医師です。腹部に装着しているのは薬剤投与用のポンプです』
「救急隊を向かわせています。到着まで触らせない方がいいですか」
『到着を待てません』
返答には迷いがなかった。
『二十二時七分に装着されたカートリッジは、ポンプの指示に対して薬液の送り出しが遅れています。装置は不足を補おうとして投与量を増やしている。遅れていた分が一度に体内へ回れば、今度は高値側へ振り切れる危険があります』
「いまは低値です」澪が言った。「移動、負傷、痛み、恐怖。需要が供給を上回ってるだけかもしれない」
『その可能性もあります。ただ、封を切られた一本を、正常品として使いつづける理由にはなりません』
律は端末を見下ろした。
ポンプが御厨へ送れるのは、数値、投与状態、装着されたカートリッジの識別情報。それだけなら、まだ説明がつく。
「封が切られていたことも、ポンプから分かるんですか」
御厨の呼吸が、一度だけ途切れた。
『……映像で確認しました。病院のスタッフから、広場の配信が送られてきています』
「封の切れ目は、針の先ほどです。映像には映していません」
雨が敷石を叩く音だけが、短い沈黙を埋めた。
『久世さん。疑うのは当然です』
御厨の声は乱れなかった。
『ですが、いま疑うべきなのは私ではなく、そのカートリッジを渡した人間です。あなたの身体は、すでに答えを出し始めている』
腹部のポンプが低く唸った。さきほどより作動時間が長い。律の中へ入る量は増えているのに、両脚は濡れた服の重みさえ支えられなくなっていた。
群衆の奥で、未明の悲鳴が上がった。
新しい切断ではない。誰かが保存した映像を再生していた。布の奥で潰れた声につづき、湿った枝を折る音が、雨と警察無線の隙間からもう一度ひびいた。
金属皿へ、爪のついた先端が落ちる。
律の呼吸が止まった。
「再生をやめて! 端末を下ろしてください!」
警察官が群衆へ駆けていく。だが音が消えるより早く、別の端末が数秒遅れの同じ場面を流した。画面を見ていない律の瞼の裏で、未明の小指が二度落ちた。
腕時計が震える。
22:20 CORTISOL 6.2
CARTRIDGE 22 MIN
DOSE RISING
「六・二」
澪が息を押し殺した。
『交換用の一本を持っていますね』
御厨が言った。
『篠宮さんが包帯の袋へ入れた、封の切られていない方です』
澪の眼が、ゆっくり端末へ落ちた。袋を持つ手に力が入り、薄いビニールの内側で円筒の形が浮かぶ。
「先生。どうして袋まで知ってるんですか」
『ですから、配信を見ています』
「あのとき、カメラは律の方を向いてた」
『別の角度もあります。篠宮さん、言い争っている時間はありません』
今度は声の角が、ほんの少しだけ残った。
律はその変化を知っていた。検査値が悪いのに、律が理由をつけて通院日を延ばそうとしたとき、御厨は同じ低さのまま語尾だけを硬くした。命を守るために譲らない医師の声だった。
だからこそ、疑念は消えなかった。
「その新しい一本も、犯人側が用意したものです」
『承知しています』
「安全だという根拠は」
『ラベルを読んでください。照合します』
澪が袋からカートリッジを出そうとすると、警察官が一歩踏み込んだ。
「待ってください。それは、さっきのケースに入っていた物ですか」
「そうです。薬でもあり、あの子の指と交換された証拠でもあります」
「こちらで預かります」
「これしか次の薬がない」
「中身が薬だと確認できていないんでしょう」
「確認できるまで待ったら、この人が死ぬ」
二人の声が重なり、周囲のスマートフォンがいっせいに近づいた。誰かが、警察が証拠を隠す、と配信へ向かって叫び、別の声が、看護師が薬をすり替える、と応じる。
「俺が押しました」
掠れた声が、人垣の端から聞こえた。
黒いレインジャケットの若い男だった。警察官に止められても、胸の前に掲げた右手を下ろさない。緑色のボタンを押した掌を、他人の身体の一部でも見るような眼で見つめている。
「俺の画面には、助けるって出た。押したら、あの子の指が……」
男はスマートフォンを差し出した。濡れた画面には、まだ《少女を救助しました》という緑色の文字が残っている。
「この人の端末には、別の指示が残ってます」澪が言った。「二台を並べた写真もある。時刻はどちらも二十二時十八分」
先頭の警察官は若い男の端末へ直接触れず、自分の携帯端末で表示を撮影した。澪の写真と律の画面も確認し、そばの警察官へ、ケースとボタンを規制するよう命じる。
律たちへ向ける眼から疑いは消えていなかった。ただ、二人を止めるだけだった身体が、初めて考えるために静止した。
「交換するなら、こちらで一部始終を撮影します。外した物は渡してください」
「分かりました」
澪が答えた。
「まだ交換しない」律は言った。
澪が振り向く。
「古い方を外してから新しい方を調べる時間はない。先にラベルと封を撮る。御厨先生にも識別番号を照合してもらう。外すのは、そのあとだ」
『久世さん、すぐに外すよう言ったはずです』
「先生の指示には従います。ただし、順番はこちらで決めます」
声から感情を抜いたつもりだった。それでも最後の言葉は、雨音に負けない硬さをもっていた。
御厨は返事をしなかった。
澪が膝をつき、警察官のカメラへ新しいカートリッジを向ける。ラベル、底面、透明な薬液、切られていない封。その順に見せ、印字された識別番号を読み上げた。
『登録上は、久世さん用の正規品です』
「なぜ蘭堂さんが持ってるんですか」
『それは、私にも分かりません』
御厨の答えは早かった。
早すぎる、と律は思った。
だが追及する前に、右膝がふたたび落ちた。澪の肩へしがみつこうとした手は空を掻き、警察官に上腕をつかまれて、ようやく敷石へ倒れずに済む。
腕時計の表示が、雨の中で滲んだ。
22:21 CORTISOL 6.1
CARTRIDGE 20 MIN
DOSE RISING
「やるよ」
澪が言った。
「律、もう選べない」
新しい一本へ眼を向けると、乳白色に濁った未明の爪が重なった。その封を切れば、金属皿の上で止まった交換が、自分の腹の中まで完成する。
使わなくても、未明の指は戻らない。
透明ケースを前に澪が言った言葉は正しかった。正しいからこそ、逃げる場所がなかった。
律は一度だけ眼を閉じた。
「交換して」
*
警察官の一人が透明な証拠袋をひろげ、別の一人が携帯端末のカメラをポンプへ向けた。群衆は規制線の外へ押し戻されている。それでも雨に濡れた黒いレンズが、その上から何台も律の腹部を狙っていた。
澪は濡れたコートの前を開き、ポンプの表示と接続部を確かめた。
「現在使用中。残量二十分。受け取った時点で封が切られていました」
警察官のカメラへ切れ目を示し、蓋の留め具へ指をかける。
「外すよ」
律はうなずいた。
カートリッジが抜かれた。
作動音が途絶え、腹部の奥に残っていた圧迫感が消える。たった一瞬の停止なのに、身体を外側から支えていたものまで取り払われたように、視界が薄く傾いた。
投与停止
交換してください
澪が外した一本を証拠袋へ落とす。警察官が口を閉じるのを待たず、新しい一本の封へ爪をかけた。
細い帯が裂けた。
乾いた小さな音だった。
律の耳には、ケーブルカッターが未明の骨を潰した音と同じに聞こえた。眼の前にない金属皿で、爪のついた先端がまた跳ねる。
「律、こっち見て」
澪の声へ焦点を戻したとき、新しいカートリッジはポンプへ半分まで入っていた。
背後で群衆が動く。警察官の怒声、靴底が敷石を滑る音、誰かが落としたスマートフォンの硬い衝撃音が重なった。澪の肩へ人の腕が触れ、カートリッジがわずかに傾く。
「押すな! いま止まってる!」
澪が怒鳴った。
先頭の警察官が二人の背後へ身体を入れ、近づいた者を押し返す。ポンプの警告音が鳴り始めた。
澪はカートリッジを引き抜かなかった。角度だけを戻し、まっすぐ奥まで差し込む。蓋を閉め、留め具を押した。
読み取りを示す点滅が始まる。
一秒。
二秒。
警告音だけがつづいている。
「認識しろ」
澪が、機械へ言った。
四秒目に、ポンプが低く鳴った。
22:22 CORTISOL 6.1
CARTRIDGE 89 MIN
DOSE RISING
投与が再開した。
周囲から漏れた息が、雨の中で一つになった。警察官は密封した古いカートリッジを持ち上げ、別の者へ手渡す。若い男は規制線のむこうで右手を胸へ抱えたまま、律の腹部を見つめていた。
『よくできました。あとは動かず、薬が回るのを待ってください』
御厨の声だけが、最初から何も起きていなかったように平らだった。
「先生」
『はい』
「いま、どこにいますか」
質問をした途端、電話のむこうで誰かの声がした。
ひどく遠く、スピーカーを通したように歪んでいる。
――下がってください。
『病院です。久世さん、いまはご自分の数値だけを見てください』
その二拍あと、律の背後にいた警察官が規制線の外へ向かって同じ言葉を叫んだ。
「下がってください! 撮影している人も、全員!」
律は足元の端末へ眼を落とした。
御厨は、病院で配信を見ていると言った。配信には遅れがある。それなのに、電話のむこうの声は、広場の声より先に届いた。
見間違いならぬ、聞き間違いかもしれない。低値による知覚の遅れか、開いたスピーカーが生んだ反響か、それとも別の警察官の声が偶然重なっただけなのか。
選択肢を並べても、一つに絞れなかった。
澪が律の肩へ掌を置く。雨で冷えた手の重さだけは分かった。
「聞こえた?」
律は答えなかった。
救急隊の赤色灯が、群衆のむこうで近づいている。透明ケースの周囲には規制線が張られ、緑色のボタンへ番号札が置かれた。警察官は若い男を保護し、別の者が澪の写真を記録している。
警察も、群衆も、録画をつづける端末もその場に残っていた。
そして誰も、律を信じきってはいない。
腕時計が短く震えた。
22:24 CORTISOL 6.4
CARTRIDGE 82 MIN
DOSE RISING
『反応が出ましたね』
御厨が言った。
「投与量は、まだ上がっています」
『数値が追いつけば下がります。七・〇へ届く前には制御が戻るはずです』
律は息を吐き、次の表示を待った。
指先の感覚は戻らない。視界の暗い輪も消えていない。それなのに胸の奥では、さきほどまで弱かった脈が、身体を内側から揺らすほど強く打ち始めていた。
ポンプが、また長く唸った。
腕時計が震える。
22:26 CORTISOL 7.2
CARTRIDGE 74 MIN
DOSE RISING
七・〇を越えても、投与量は下がらなかった。
「御厨先生。止まっていません」
返事がない。
電話のむこうで、御厨が短く息を吸った。二年間聞いてきたその声から、患者を安心させるための平静さが初めて消えていた。
『久世さん』
胸の奥で、一拍が抜けた。
『いま入れた一本も、すぐに外してください』




