第十二章 高すぎる
澪の掌が、律の肩から離れた。
腕時計には、直前の表示が残っている。
> 22:26 CORTISOL 7.2
> CARTRIDGE 74 MIN
> DOSE RISING
「いま、七・二です」
足元のスマートフォンへ向けた声に、先ほどまでの迷いはなかった。
「ここで外せば、また低値へ戻るかもしれない。先生、それでも外せって言ってるんですか」
『承知しています。しかし、七・〇を越えても投与制御が戻っていません。ポンプは不足が続いていると判断し、送り込む量を増やしつづけている』
電話のむこうで、紙か何かを乱暴に動かす音がした。月に一度の診察で聞いてきた、御厨の静かな手元からは想像しにくい音だった。
『前の一本で遅れていた分と、いまの一本から入った分が重なれば、外したあとも数値は上がります。そうなる前に止めてください』
「どこまで上がるんですか」
『分かりません』
澪の問いに、御厨は短く答えた。
分からない、と言いながら外せと命じている。だが、外さなければ安全だという根拠も、律にはなかった。
「待ってください」
背後の警察官が、足元のスマートフォンと律の腹部を交互に見た。
「その薬は、いま交換したばかりですよね。外したあと、また必要になったらどうするんですか」
「必要かどうかを決めるためにも、いったん投与を止めるんです」
澪が答えたが、その声からも、外せば安全だという確信は感じられなかった。警察官はなお何かを言いかけ、近づく救急車の赤色灯へ眼を向ける。
これまで御厨は、律が選べないときに答えを出してきた。朝の服薬量も、倒れる寸前に打つ薬も、腕時計のどの警告を信じるべきかも、二年間、一度として迷いを見せなかった。その御厨が、いまは分からないと言いながら、数分前とは反対の指示を出している。
胸の奥で抜けた一拍のあとを埋めるように、次の脈が胸骨の裏を強く蹴った。指先の感覚は戻らず、視界の縁に残る暗い輪も消えていない。それなのに、濡れたシャツの下では、心臓だけが身体より先に別の危険へ移ろうとしていた。
「救急隊です。道を空けてください!」
規制線の外から声が飛び、反射材のついた雨衣を着た三人が、ストレッチャーと黒い資器材バッグを押して入ってきた。先頭の隊員は警察官から短い説明を受けながら律の前へ膝をつき、濡れた顔へ小型のライトを向けた。
「久世さん。聞こえますか。生年月日を言えますか」
律は答えた。自分の声がわずかに遠く、口を動かしてから耳へ届くまでに間があった。
「腹部に薬剤ポンプがあります」澪が言った。「試験運用中の機器です。主治医と通話中。いま、装着している薬を外すよう指示されています」
「あなたはご家族ですか」
「看護師です。この人の病歴も、機器の扱いも知っています」
隊員は澪の濡れたスクラブと職員証を一度見てから、律の首へ指を当てた。もう一人が血圧計のカフを右腕へ巻き、雨を拭った胸元へ心電図の電極を貼っていく。
腕時計が震えた。
> 22:27 CORTISOL 7.7
> CARTRIDGE 70 MIN
> DOSE RISING
七・二から一分で〇・五上がり、残量は四分減っている。
「七・七」
律が告げると、澪は腕時計より先に隊員の手元を見た。
「脈は」
「速い。間隔も、少し乱れています」
隊員が答えた直後、心電図の小さな画面で、等間隔に並んでいた山が一つだけ早く立った。その次に来るはずの音が遅れ、律の胸の内側に一瞬、空洞ができた。
『久世さん。もう待てません』
御厨の声には、患者を安心させるための平静さが戻っていた。戻そうとしているだけなのかもしれなかった。
数値はまだ低い。だが、上昇速度と脈は、別の答えを出し始めている。
律は澪を見た。
「外して」
澪はうなずくより先に、濡れたコートの前を開いた。
「警察の方、撮ってください。二十二時二十七分。さっき交換した、封の切られていなかった方を外します」
警察官が端末を構え、救急隊員がポンプと律の顔を同時に見られる位置へ身体を移した。澪は蓋の留め具へ指をかけ、律の眼を確かめる。
「いくよ」
カートリッジが抜かれた。
腹部の作動音が止まる。皮膚の下へ押し込まれていた圧迫感が消え、代わりに身体の中心から細い支柱を引き抜かれたような頼りなさがひろがった。
> 投与停止
> 交換してください
澪が外した一本を、警察官のひろげた新しい証拠袋へ落とした。袋の口が閉じられ、時刻と採取物を書き込むペン先が透明なフィルムの上で引っかかる。偽駅員から渡され、さきほど外した封の切られた一本とは、別の袋だった。
「これで新しい薬は入ってきません」
澪が御厨へ言った。
『はい。久世さんを動かさず、数値を見てください』
「下がったら?」
『その場合は――』
御厨の返答より先に、腕時計が震えた。
> 22:28 CORTISOL 8.2
治療域へ入った。
だが、誰も息をつかなかった。
八・〇は、今夜ずっと律が戻ろうとしてきた場所だった。六・一まで落ちたときには、その線を越えさえすれば、身体も判断も自分へ戻ってくると思っていた。いま腕時計に出ている八・二は、扉の開いた安全な部屋ではなく、停止階を通り過ぎた昇降機の表示に見えた。
「止まってない」
澪がつぶやいた。
投与は止まっている。それでも、皮下へ送り込まれ、まだ吸収の途中にある薬は、カートリッジと一緒に身体の外へ戻るわけではない。
指先は冷えたままなのに、首筋には熱が集まり始めていた。頬を伝っているものが雨なのか汗なのか分からない。律は右手を胸へ当てようとしたが、指がシャツへ触れた感覚を得られず、手の位置を眼で確かめなければならなかった。
「ストレッチャーへ移します。立たないでください」
隊員が律の脇と膝へ腕を入れた。持ち上げられた途端、左脇腹へ殴られたときの痛みが戻り、喉の奥へ鉄の味がせり上がる。声を漏らす代わりに息を止めたため、心電図の音が急に間隔を詰めた。
規制線のむこうでは、ボタンを押した若い男が右手を胸へ抱え、こちらを見ていた。その隣で警察官が二つの証拠袋を掲げ、別の警察官へ渡している。群衆は押し戻されてもなお端末を下ろさず、救急車へ運ばれる律の姿まで切らずに残そうとしていた。
「証拠はこちらで保管します。搬送先にも捜査員を向かわせます」
先頭の警察官が、ストレッチャーを押す隊員へ告げた。
律は返事をしなかった。未明と優真の名を伝えようとしたが、舌が口の中でわずかに遅れ、言葉になる前に救急車の白い扉が眼の前で開いた。
*
扉が閉じると、雨と群衆の声が一枚の金属板のむこうへ遠のいた。
白い照明に照らされた車内には、消毒剤と樹脂の匂いがこもり、律と澪の濡れた衣服だけが外の雨を持ち込んでいる。ストレッチャーの固定具が床のレールへ噛み合い、足元に座った隊員が血圧計のカフを締め直した。
澪は律の頭側へ腰を落とした。付き添いを認められたのは、病歴と機器を知っていると説明したためだった。元恋人だとは言わなかった。
濡れたスマートフォンはタオルの上へ置かれ、御厨との通話がスピーカーのまま続いている。
自分だけが警察と救急隊に囲まれて広場を出ようとしているあいだにも、未明と優真のいる場所では同じ夜が進んでいた。二人を残したまま運ばれることを、安全へ近づいているとは思えなかった。
『久世さん。聞こえますか』
「聞こえています」
『上昇は、すでに体内へ入った分です。新しい投与は止まっています。間もなく速度が落ちるはずです』
「間もなくって、何分ですか」
澪がたずねた。
『正確には答えられません』
「どこまで上がるかも?」
『はい』
答えは一貫していた。それなのに、律には先ほどより頼りなく聞こえた。御厨の声が変わったのではない。二年間、その声へ預けてきたものの重さが変わり始めていた。
腕時計が短く震える。
> 22:30 CORTISOL 9.6
投与を止めてから三分近く経っている。治療域の中央に近づいても、上昇速度はほとんど落ちていなかった。
胸元のモニターが規則的な電子音を鳴らしている。その音を頼りに律は脈を数えようとしたが、十を越える前に一つが早く入り、次の一拍が遅れた。腕時計が示す数字より、その空白の方がはっきりと恐ろしかった。
「澪」
「何」
「脈を見て」
澪の眼が、わずかに動いた。
いつもなら腕時計で済ませる質問だった。
澪は何も言わず、律の首筋へ人差し指と中指を当てた。雨で冷えていた手は、車内へ入ってもまだ冷たい。それでも、その指が触れている場所だけは分かった。
「速い。ときどき抜ける」
「数値と合ってる?」
「合ってるかじゃない。いま、あんたの脈がそうなってる」
澪は指を離さずに答えた。
腕時計は異常を数字へ変える。御厨は、その数字へ意味を与える。律は二年間、その二つのあいだに自分の身体を置いてきた。いま首へ触れている澪の指だけが、表示を通さずに律の中で起きていることを数えていた。
車体の外でサイレンが一度鳴り、運転席との仕切りのむこうから、受け入れ先を照会する無線が聞こえた。救急隊員が律の氏名と病名を伝え、試験運用中の薬剤ポンプであることを付け加えると、通話中の御厨が声を上げた。
『大久保病院へ搬送してください。治験記録と対応設備があります。私から救急外来へ連絡します』
「先生は、本当に大久保病院にいるんですか」
澪の指が律の首筋から離れた。
『先ほど、お答えしました』
「答えたことと、そこにいることは同じじゃない」
御厨はすぐには返さなかった。
沈黙を埋めるように血圧計が空気を抜き、律の腕から圧迫が消える。隊員は表示された値を見て表情を変え、もう一度測り直すためカフの位置を直した。
「血圧も揺れています。搬送先を急ぎます」
車内の空気が細く張りつめた。
無線が応答し、大久保病院の受け入れが決まった。後部扉の小窓で赤色灯が揺れ、車体が低く沈んで動き出す。規制線のむこうに並んでいた端末の白い光が遠ざかり、その後ろから警察車両の回転灯がついてきた。
律は御厨の居場所を問い重ねなかった。代わりに、自分の腕時計へ眼を落とす。
> 22:32 CORTISOL 11.4
首筋に集まっていた熱が、胸から背中へひろがっていた。濡れたシャツが肌へ貼りついているのに、その下では温かい汗が流れている。指先の冷えと感覚低下は残ったまま、手の甲だけが細かく震え、息を吸うたび胸の中央へ硬いものが押し込まれた。
「御厨先生」
『はい』
「先生の画面には、いま、いくつと出ていますか」
電話のむこうで、御厨が息を止めた。
長い沈黙ではなかった。だが、律には御厨が数値を読み上げる前に、何かを選んだように思えた。
『六・八です』
六・八。
それは数分前、広場で腕時計に出ていた数字だった。御厨の画面が遅れているのか、腕時計だけが誤った未来へ進んでいるのか、律には確かめる方法がない。
澪が腕時計を見た。
『こちらでは六・八。カートリッジを外してから、低下へ転じています』
「違う」
澪の声が低くなる。
『篠宮さん。腕時計側の検出異常が考えられます。末梢の循環が不安定な状態では、表示が実際の値から外れることがある』
「こっちは心電図も乱れてる」
『低値でも起こり得ます。このまま投与を止めれば、久世さんは再び意識を失う。いま外した一本を戻してください』
足元の隊員が顔を上げた。
「さっき警察へ渡した物ですか」
『そうです。すぐに』
「戻さない」
澪が言った。
『篠宮さん、これは治験責任医師としての指示です』
「律の脈を触ってない人の指示には従えない」
二人の声を聞きながら、律は自分の胸へ眼を落とした。
腕時計が正しければ、薬を戻した分だけ死へ近づく。御厨の画面が正しければ、何も入れないまま低値へ落ちていく。どちらを選んでも、間違いだったと分かる頃には、自分で選び直せる状態ではないかもしれない。
モニターの音が一つ早く鳴った。
次の一拍が来ない。
胸の中に空いた時間へ、汗だけが流れ込む。
遅れて強い脈が戻った瞬間、腕時計と心電図が同時に警告音を発した。
> 22:34 CORTISOL 12.3
治療域の上限を越えた。今度は、上がり方だけではない。数値そのものが高すぎた。
「十二・三」
澪が息をのみ、隊員がモニターへ手を伸ばした。
『違います。久世さん、聞いてください。こちらは六・八です。すぐに薬を戻して――』
御厨の声を遮るように、タオルの上のスマートフォンが震えた。
通話画面の上へ、灰色の丸いアイコンが浮かんでいる。
律は動かない指で通知へ触れた。
【御厨史郎 CORTISOL 6.8】
【久世律 CORTISOL 12.3】
【どちらかは、嘘です】




