第十三章 地下の爆音
通知の三行目を読んだとき、胸の中で鳴っていた電子音が一つ増えた。
【御厨史郎 CORTISOL 6.8】
【久世律 CORTISOL 12.3】
【どちらかは、嘘です】
心電図の音と腕時計の警告が重なり、どちらが先に鳴ったのか分からない。走り出した救急車の天井灯が小刻みに揺れ、タオルの上のスマートフォンから、御厨の声だけが変わらない高さでつづいていた。
『久世さん。通知には触れないでください。送り主が、あなたの装置へ干渉している可能性があります』
もっともな指示だった。
その指示を出している人間の数字も、いまは疑わなければならない。
「御厨先生」
律は胸を内側から押されるような息苦しさを、短く吐く息で逃がした。
「六・八は、何時何分に測定された数値ですか」
『いま表示されている値です』
「最終受信時刻ではありません。測定時刻を聞いています」
電話のむこうで、何かを打つ音がした。診察室で御厨がキーボードを使うときより速く、爪の先で机を叩いているような音だった。
『二十二時三十四分です』
「私の腕時計は、二十二時二十五分に六・八でした。先生、その数字は本当に、いまの私を見ているんですか」
澪が律の首筋へ指を戻した。速い脈を追いながら、足元の隊員へ眼を向ける。隊員は心電図の小さな画面を見たまま、すぐには口を開かなかった。
「また抜けた」澪が言った。
「こちらでも確認しています。薬は車内にないんですね」
隊員の問いに、澪がうなずく。
「ない。二本とも警察が持ってる。戻せって言われても、いまは戻せない」
『後方の警察車両を止めて、いま外した一本を受け取ってください』
「走行中です。中身を確認できない物を、この場で戻すこともしません」
隊員の声は強くなかったが、御厨が言葉を重ねる隙を与えなかった。血圧計のカフが律の右腕を締め上げ、感覚の鈍い指先が白くなる。
腕時計が震えた。
22:35 CORTISOL 12.6
首筋から背中へ流れる汗は温かい。それなのに、右手の先だけが他人の指のように冷えていた。低値と高値の症状が身体の中で境を失い、どちらか一方を選べという通知の方が、律の状態より単純だった。
「御厨先生。画面を見せてください」
『病院で確認します。いまは――』
「画面の全体と、端末の時刻を一緒に映してください」
御厨は答えなかった。
救急車が大きく左へ傾き、棚の金具が鳴った。胸の奥で早い一拍が入り、そのあとにできた空白へ、律の呼吸だけが取り残される。澪の指が首へ深く沈み、隊員が酸素マスクを手に取った。
『久世さん。私は、あなたを死なせないために言っています』
「……分かっています。だから、画面を見せてください」
嘘だとは言えなかった。
真実だとも、もう言えなかった。
後部扉の小窓へ白い壁が迫り、車体が急減速した。スマートフォンの画面が一度暗くなり、御厨の名の下へ《通話終了》が表示される。誰の指も触れていなかった。
22:37 CORTISOL 12.8
扉が開いた。
大久保病院の救急入口から流れ込んだ白い光が、律の腕時計と、澪の濡れた顔を同時に照らした。
*
胸へ貼られた電極を貼り直され、濡れたシャツを切り開かれたあとも、律の右手には冷たさが残った。
救急処置室では、機械の音がそれぞれ別の速さで鳴っている。心電図、血圧計、点滴の滴下を知らせる小さな警告。広場と救急車では一つに聞こえていた異常が、白いカーテンの内側で別々の情報へ戻されていった。
採られた血液は三本の容器へ分けられた。一般的な検査は先に出ても、急性遊離コルチゾール不耐症に必要な測定はすぐには判定できない、と当直医は告げた。
「腕時計の値が正しいかは、この場では保証できません。ただし、いま起きている不整脈と血圧変動は表示ではない。身体で起きています」
律はうなずいた。
数値を疑うことと、症状まで疑うことは同じではなかった。
カーテンの外で、澪が御厨の所在をたずねている。乾いた予備のスクラブへ着替えても、髪の先はまだ濡れていた。
「御厨先生から受け入れの連絡はありました。ただ、ご本人が院内にいるかは確認できていません」
看護師の返答に、澪は声を低めた。
「本人からの電話ですか」
「電子連絡です。折り返していますが、つながらなくて」
病院にいると言った御厨が、救急外来にはいない。
それだけで、嘘だとは決められない。院内の別棟にいるかもしれず、回線を切った理由も、律を守るための機密手順だと説明できる。御厨なら、いくつもの正しい理由を穏やかな声で並べられるはずだった。
その声がないことだけが、白い処置室へ残った。
腕時計の表示は、十二・八を頂点に下がり始めた。
22:46 CORTISOL 12.4
心電図で早く立つ山も、さきほどより間隔が空いている。澪はモニターを見てから、律の橈骨動脈へ指を当てた。
「時計の方が……近かった」
「近かっただけだ」
「それでも、御厨先生の六・八じゃない」
律は返事をしなかった。
処置室の入口で、私服の捜査員が警察手帳を見せた。広場にいた制服警察官からの引き継ぎを読み上げ、二本のカートリッジは封を開けず、それぞれ別の証拠袋で保管していると説明した。
「広場の映像は複数確保しています。三枝未明さん、三枝優真さんについても捜索を始めています。あなたの端末は預かりたいのですが、相手から連絡が来る可能性があるので、こちらで画面と通信を記録しながら残します」
律はスマートフォンへ眼を向けた。透明な台へ固定され、画面の上から警察のカメラが向けられている。
「通知が来たら、必ず私に見せてください。未明さんの声や身体なら、私にも分かることがあります」
「内容によります」
「私にしか分からないものを映すはずです」
捜査員はすぐには承諾せず、当直医と律の意識状態を確認した。警察官が考えている時間にも、窓のない処置室の外では、未明と優真の時間が減っている。
スマートフォンが震えた。
灰色の丸いアイコンだった。
*
映像の最初に見えたのは、未明の右手だった。
白いガーゼが小指の先を厚く包み、手首から肘までが黒い板へ固定されている。血は新しく溢れていなかったが、布の中央に沈んだ赤黒い染みは、広場の映像が作り物ではなかったことをもう一度律へ見せた。
未明は低い椅子に座らされ、口を塞がれていない。顔色は悪く、濡れた前髪が頬へ貼りついている。カメラを睨んだ眼だけが生きていた。
「未明さん」
呼びかけても、こちらの声は届かない。
彼女の背後にある金網のむこうで、優真が身体を起こした。頬に痣はあったが、自分の脚で立ち、未明へ何かを叫んでいる。音は床を揺らす低音に潰され、唇の動きしか見えなかった。
最後に姿を見た二十二時七分から、一時間以上が経っている。
生きていた。
安堵のあとから、間に合わなかった未明の指が追いついてくる。胸の奥で一拍が早く入り、澪の指が律の手首へ触れた。
「律、こっち。画面じゃなくて私を見て。息、吐いて」
律は息を吐いた。
映像の中では、低い天井から赤い光が三度走り、四度目だけ青へ変わった。壁のむこうで鳴っている音楽は旋律を失い、巨大な心臓だけが床下で打っているようだった。
金属扉が一瞬ひらく。
爆音がさらに膨らみ、銀色の上着を着た女が廊下を横切った。女は人質に眼も向けず、光るプラスチックのカップを掲げ、誰かと笑っている。扉が閉じる直前、壁へ投げられた白い文字が半分だけ映った。
《NU――》
蘭堂の声が、音の隙間へ入った。
『久世さん。二つの数字から一つを選ぶことも、二本の薬から一つを選ぶことも、本質は同じです』
姿は映らない。
『警察がお持ちの二本から、あなたが正しいと信じる方を一本だけ選んでください。午前零時三十分までに、久世さんと篠宮さんのお二人で』
優真が金網を両手でつかんだ。未明は首を振り、固定されていない左手で、来るな、とカメラへ示そうとした。黒い服の男がその腕をつかみ、膝の上へ戻す。
『時間を過ぎれば、お二人のうち一人を別の場所へ移します。次の居場所は、お知らせしません』
低音が一度途切れた。
静けさの中で、未明の声だけが届いた。
「来んな!」
映像が切れた。
処置室に残ったのは、心電図の規則的な音だった。
捜査員が録画を巻き戻し、扉が開いた箇所で止めた。別の警察官は端末を耳へ近づけ、低音の特徴を確認している。
「《NULL》かもしれません」
若い警察官が、もう一台の端末を持って入ってきた。
「百人町一丁目の地下イベントスペースで、今夜だけ《NULL》という催しが開かれています。一般客の公開配信がいくつかあります」
画面には、赤い光が三度、青い光が一度、低い天井を走る映像が流れていた。人が密集するフロアの中央を、銀色の上着の女が横切っていく。
捜査員が二つの映像を並べ、時刻を戻した。
人質映像の扉がひらく。
一般客の配信で、銀色の女が右手のカップを持ち上げる。
両方の低音が、同じ一拍だけ欠けた。
録画を重ねた電子音が、完全に一つになった。
「同じ場所です」律は言った。
「少なくとも同じ音を、同じ時刻に拾っています」
捜査員は断定を一段だけ弱めたまま、部下へ会場の出入口と建物図面を確認するよう命じた。配信を止めさせず、一般客の映像も保存するよう付け加える。
群衆のスマートフォンを、蘭堂は律を追う眼に変えた。
今度は、その眼が未明たちの居場所を指していた。
*
23:10 CORTISOL 11.2
胸を押す硬さは薄れ、心電図の乱れも減っていた。右手の感覚はまだ鈍く、立ち上がろうとすると左脇腹が呼吸を止めたが、意識は明瞭だった。
当直医は、午前零時を過ぎるまで監視を続けると言った。採血した数値が戻っても、それは採血時点の身体を遅れて示すだけで、現在値と同じではない。いま安定して見えることも、外へ出てよい理由にはならない。
「警察が行きます」
私服の捜査員は、二本の証拠袋を撮影した画像だけを律へ見せた。
「あなたはここにいてください。人質がいる可能性が高い以上、一般客を退避させる手順も必要です」
「私が行かなければ、二人はまた消されます」
「相手の言葉を信用するんですか」
「信用していません。ただ、蘭堂さんが私の選択を見るためなら、未明さんの指まで切れる人間だということは知っています」
捜査員の眼が細くなった。
「だからこそ、あなたを行かせられない」
「代わりの人間では、あの人は選択を終わらせない」
話しながら、律は二本の画像を見比べた。封の切られていた一本と、未明の指と引き換えにケースから得た、受け取った時点では封の切られていなかった一本。どちらも体内へ入れ、どちらも御厨の指示で外した。安全な一本は、もう存在しないのかもしれない。
「持っていくのは、こちらです」
律は後者を示した。
「本物だという根拠があるんですか」
「ありません」
「なら、どうしてこちらを」
「蘭堂さんが、私に選ばせたいのはこちらだからです。未明さんの指で手に入れた一本を、私が捨てられるか見たい」
薬を選ぶのではない。
敵が見ようとしている自分を選ぶ。
捜査員は返事をせず、処置室の外へ出た。上司との通話、会場周辺へ向かう班、建物の管理者、消防設備の確認。複数の声がカーテン越しに行き交った。
澪はベッド脇の丸椅子へ腰を下ろし、律の手首から指を離さなかった。
「私も行く」
「駄目だ。澪は残って」
「あっちが二人で来いって言ってるからじゃない。救急車で、あんたは私に『脈を見て』って言ったよね。向こうで時計がまた嘘をついたら、誰があんたを止めるの」
「危険すぎる」
「知ってるよ。未明の指を見たあとで、私だけ安全な場所に残れって?」
声を荒らげずに言い切り、澪は律の眼を見た。
「でも条件がある。時計と私の判断が違ったら、今度は私に従う。歩けないと判断したら、その場で終わり。それから――今度こそ、勝手に私の手を振りほどかないで」
二年前なら、それを身体の主導権を奪われることだと思っただろう。
いまは違った。
「来てほしい」
澪の指が、律の手首で一度止まった。
「……そういうの、二年前に言って」
澪は律から眼を逸らし、脈を探る自分の指へ眼を落とした。責める声ではなかった。その方が、律には痛かった。
「分かった。行く」
それだけ答えて、脈を数え直した。
警察との協議で認められたのは、一般客がいる地下二階のフロアまでだった。人質の姿を確認できなければ三分で退き、従業員用の扉から先へは進まない。律と澪の直後には私服の捜査員が付き、建物の出入口は別班が押さえる。
当直医は、それでも処置室を出ることへ同意しなかった。
23:37 CORTISOL 9.8
心電図は落ち着いていたが、採血結果はまだ戻らず、投与を止めた身体がこの先どこまで下がるかも分からない。律は危険の説明を受け、異常時にはその場で作戦を中止して再搬送されることを了承したうえで、自分の意思でベッドを降りた。
*
百人町一丁目の路地は、雨に濡れた看板の色を、黒い路面へ細長く映していた。
零時十八分。律は警察の捜査車両の後部座席で、腹部の空になったポンプを服の上から押さえている。病院で借りた乾いたシャツの上には、警察が用意した黒い上着を着ていた。左脇腹を締めつけないよう前を開けても、車体が曲がるたび、殴られた箇所が遅れて疼いた。
澪は隣に座り、予備の医療資器材が入った小さなバッグを膝へ載せている。耳には警察から渡された通信機。前後の車両には捜査員が分乗し、会場の正面、搬入口、非常階段へそれぞれ人員が配置されていた。
証拠袋は律の手元にはない。封を切られていなかった一本を、担当の捜査員が車外まで管理し、指定された場所でのみ渡す。袋の開封も、薬としての使用も認められていない。
安全だと判断されたわけではなかった。
病院に残るより、警察の眼が届く入口で相手の反応を見る方が、人質の移動を防げる可能性がある。それだけだった。
00:18 CORTISOL 8.9
余分に入った薬が抜け、数値は治療域の下側へ近づいている。胸の熱は消えたが、今度は濡れてもいない指先に冷えが戻っていた。
「脈は」
律がたずねる前に、澪が首へ指を当てた。
「速いけど、抜けてない。歩幅は私に合わせて」
車が止まった。
雑居ビルの入口には店名がなく、地下へ下りる階段の壁へ《NULL》とだけ投影されていた。傘を畳んだ若者が列を作り、身体検査を受けるたび、地面の下から突き上げる低音に合わせて肩を揺らしている。
入口の庇の下で、担当の捜査員が証拠袋の番号と封を撮影し、律へ手渡した。シネシティ広場の透明ケースから得た一本が袋の中にあり、開封検知用の細いタグと発信器が外側へ固定されている。律は袋を薄い胸元のポーチへ入れ、ファスナーを閉じた。
警察が一般客を退避させていないのは、会場内の人質を確認できていないためだった。表立って動けば、蘭堂が未明と優真を別の場所へ移す可能性がある。私服の捜査員が客に混じり、律たちの六歩後ろについた。
スマートフォンに新しい画像が届いた。
入場用の二次元コード。その下に、短い一文がある。
【お二人だけで、地下二階へ】
澪が画面を見た。
「警察がいるの、最初から分かってる。これ、罠だよ」
「分かってる。それでも、ここで戻れば未明さんが消える」
階段を一段下りるたび、音が大きくなった。
受付でコードを読み取られる。係員は律の顔も、腹部のポンプも見ず、黒いスタンプを二人の手の甲へ押した。扉が開いた途端、低音が空気ではなく固い板になって胸へぶつかった。
天井は低く、赤い光が三度走り、四度目に青へ変わる。映像と同じだった。
数百人の身体が、汗と酒と香水の匂いを混ぜながら揺れている。誰もが隣の者へ触れ、誰も互いの顔を見ていない。律は澪の肩へ腕を回さなかった。代わりに、彼女の手首をつかみ、離れないための力だけを残した。
腕時計が震える。
00:26 CORTISOL 8.7
表示が消えた直後、もう一度震えた。
CORTISOL 10.9
四秒で二・二上がった。
薬は入っていない。身体を動かし、爆音の中へ入ったことで本当に需要と反応が変わったのか、汗でセンサーがずれたのか、遠隔から何かを重ねられたのか、律には判別できない。
「澪」
「分かってる。時計は消して。こっち見て」
澪は人の流れから律を庇い、首筋へ指を当てた。音が大きすぎて、声は耳ではなく唇の形でしか拾えない。
「速い。でも抜けてない。まだ歩ける。私から離れないで」
律は腕時計の表示を消した。
スマートフォンの矢印が、フロア奥の黒い扉を示している。扉の前にはスタッフも警備員もおらず、壁と同じ色の取っ手だけが見えた。
『そこで停止してください』
耳の通信機から、捜査員の声がした。
『扉の先は図面上、倉庫です。こちらが先に確認します』
律は止まった。
灰色のアイコンから文字が届く。
【止まれば、移します】
黒い扉が、内側からわずかにひらいた。
その瞬間、フロアの照明がすべて落ちた。
爆音だけが残った。
悲鳴と歓声が同時に上がり、人の塊が出口へ押し寄せる。律は澪の手首をつかんだまま身体を引いたが、左脇腹へ誰かの肘が入り、息が喉で潰れた。
「律!」
暗闇から伸びた太い腕が、澪の首元を抱えた。
尾関だった。
もう片方の手に握られた拳銃が、澪の脇腹へ押し当てられている。六歩後ろにいた捜査員が人波を割って近づいたが、引き金と澪の身体が重なり、銃を向けられない。
「下がれ」
尾関の声は、低音より小さかった。
律と澪が黒い扉の内側へ押し込まれた直後、厚い防火シャッターが落ちた。捜査員の叫びが金属板へ遮られ、通信機には激しい雑音だけが残る。
狭い通路の先で、貨物用の昇降機が口を開けていた。
尾関は澪から銃を離さず、二人を箱の中へ入れた。扉が閉まり、足元が沈む。頭上では、何百人分もの足音と低音が、厚い天井を一緒に踏みつけている。
腕時計が震えた。
00:30 CORTISOL --.-
数字が消えた。
昇降機の照明の下で、尾関の顔から血の気が失われていることに、律は初めて気づいた。拳銃を握る右腕は動いていたが、左手は脇腹へ押し当てられ、黒い服の裾から床へ血が落ちている。
扉が開く。
尾関は一歩出たところで膝をつき、それでも銃口だけは澪から外さなかった。
「治せ」
敵の血が、乾いたばかりの澪のスクラブを濡らした。




