第二十三章 平静を捨てろ
「その表示は……いつから」
御厨の声に浮かんだ動揺は、演技には見えなかった。医師としての反射が、装った穏やかさより先に出た、という感じだった。
律は答えなかった。答える代わりに、蘭堂へ視線を送った。
雨脚が、また少し強くなっていた。三人の間に、誰も動かない数秒が流れる。広場の街灯だけが、律たちの影を、石畳の上に長く伸ばしていた。今夜、これだけの人数が、これだけ近い距離で向き合うのは、初めてのことだった。灰庭も、御厨も、律自身の身体も、もう隠しごとを続けられる余力がなかった。
「蘭堂さん。ケースを」
蘭堂は、動かなかった。
保冷ケースを抱えたまま、律と御厨を、交互に見ている。灰色のコートの下で、何かを計算し直しているのが、律にも分かった。雨が、コートの肩へ音もなく降り続けていた。
「蘭堂さん」
律は、もう一度言った。
「久世さん」
蘭堂の声が、初めて丁寧語のまま、明確な拒絶を含んだ。
「よく考えれば、これは私にとっても都合の悪い賭けです。御厨先生だけが焼け落ちるならいい。ですが、あなたが仕掛けているのは、その場にいる全員を巻き込む火です。私の名前も、灰庭の名前も、あの通信の中に残っている」
「気づくのが遅い」
律は言った。声を出すだけで、腹の底が軋んだ。
「あなたは、最初からその火の中にいた」
蘭堂の眼が、初めて険しくなった。これまでの、記録者としての静けさが、そこで初めて剥がれた。
「久世さんには、感謝しています。今夜、久世さんほど面白い観察対象には、久しく出会っていなかった」
蘭堂の声色は変わらないのに、言葉の選び方だけが、明らかに変わっていた。
「ですが、面白いことと、こちらの都合を害することは、別問題です」
その時、蘭堂のコートの内側から、黒い金属が抜き出された。ステンレス台の上にあった、あの拳銃だった。銃口は、律ではなく、澪へ向いていた。
「動かないでください」
蘭堂の声は、静かなままだった。だが、その静けさが、これまでのどの脅しよりも、律の背筋を凍らせた。
「久世さん。ケースはこちらで預かります。生体認証は、こちらの指示に従って提供していただく。御厨先生への処遇は、こちらで決めます」
澪が、動かなかった。銃口の前で、微動だにせず律を見ている。恐怖よりも、律を心配する色の方が、その眼には強く浮かんでいた。
「律」
澪が呼んだ。
「私のことは、いいから」
その一言が、律の中で何かを決壊させた。
いいわけがなかった。
二年前、律は澪を守るという名目で、自分の恐怖を隠した。今夜は、澪を巻き込まないという名目で、また同じことをしようとしていた。だが、目の前に銃口がある。守れる距離には、もういない。言葉で庇うことも、条件で丸め込むことも、もうできなかった。
「――嫌だ」
律の声が、喉の奥から、そのまま出た。自分でも、抑えるつもりがなかった。
「澪を、撃たせない」
声が、震えていた。抑えようとしても、抑えられなかった。四秒吸って六秒吐く、あの呼吸法のことなど、もう頭になかった。
「久世さん。落ち着いて」
蘭堂が言った。だが、律はもう、落ち着く気などなかった。
「落ち着けと言われて、落ち着いてきた結果が、これだ」
律は、叫んでいた。雨の中で、自分の声が、こんなに大きく出せることに、律自身が驚いていた。
「澪の前で倒れるのが怖くて、逃げた。感情を出せば死ぬと思って、ずっと自分を殺してきた。それで、何かが守れたか。優真くんは連れて行かれた。未明さんは血を流した。工藤さんは死んだ。澪は、いま銃を向けられてる。平静でいたって、誰も守れなかった」
左脇腹の痛みが、突き上げるように強くなった。それでも、律は続けた。止めれば、二度と出せない気がした。二年前と同じ後悔だけは、もう繰り返したくなかった。
「怖い。澪を失うのが、怖い。二年前も、いまも、ずっと怖かった」
言葉にした瞬間、心臓が跳ねた。CORTISOLの数値とは無関係の、身体そのものの反応だった。血が、末端まで一気に巡っていくのが分かる。震えていた手の先に、久しぶりに力が戻ってきた。指先が熱い。視界の狭窄が、わずかに緩んだ。
これは演技ではなかった。本当に、怖かった。本当に、澪を失いたくなかった。その事実だけが、いま律の身体を突き動かしていた。感情を殺すための呼吸ではなく、感情そのものが、律の血を巡らせていた。
蘭堂の意識が、律の変化へ一瞬だけ引かれた。
その隙を、未明が見逃さなかった。
「いまだ!」
未明が叫び、律の足元に置かれていた保冷ケースへ飛びついた。蘭堂が銃口を未明へ向け直そうとする。だが、澪が同時に動いた。銃を持つ蘭堂の腕へ、体当たりする。
銃声が、雨の広場に響いた。弾は、誰にも当たらず、石畳を跳ねて火花を散らした。
未明が、ケースの蓋を開け、証拠袋ごと律へ投げた。濡れた袋が、律の胸元へ音を立ててぶつかる。
律は、震える手で袋を破り、カートリッジを掴み出した。ラベルも、封も、もう確かめる余裕はなかった。工藤が命を懸けたものが、いま自分の手の中にある。指先の感覚は戻りきっていなかったが、七年間繰り返してきた動作は、身体が覚えていた。
律は、それをポンプへ押し込んだ。
蓋の閉まる音がした。
いつもと同じ、機械的な作動音。だが、その直後、腕時計の壊れていた画面に、見たことのない文字列が一瞬だけ流れた。
《AUTH OK》
《TRANSMIT》
律には、その意味の全てが分かったわけではなかった。ただ、工藤の賭けが、いま動き出したことだけは分かった。どこか遠くの、律の知らないサーバーへ、知らない誰かの受信箱へ、いま何かが送られている。
同時に、皮下へ鈍い圧迫感が広がった。本物の感触だった。七年間、数えきれないほど繰り返してきた、あの薬が入る瞬間の感覚。ようやく、身体の内側から、正直な安堵が届いた。
律の視界の端で、御厨が後ずさっていた。手にした端末を、必死に操作している。
「止めろ、止めるんだ」
その声は、もう診察室の穏やかさを失っていた。指が震え、画面を何度も打ち間違えている。御厨が、律の方へ一歩踏み出しかけた。ポンプを引き抜こうとでもするように、手を伸ばす。
だが、その手は届かなかった。未明が、御厨の前に立ちはだかっていた。
「触んな」
未明の声には、これ以上ないほどの憎しみが滲んでいた。右手のガーゼが、包帯の下でまた赤く染まっているのが、律にも見えた。それでも、未明は退かなかった。
御厨は、未明の眼を見て、何かを諦めたように、手を下ろした。
蘭堂は、澪ともつれ合ったまま、体勢を崩していた。広場の縁、地下駐車場へ続くスロープの手すりへ、二人の身体が同時にぶつかる。
「澪!」
律は、動けない脚で、それでも前へ出ようとした。膝が崩れ、石畳へ手をつく。
蘭堂の手が、とっさに澪の腕を掴んだ。落ちかけたのは、澪ではなく、蘭堂自身だった。均衡を失った身体が、手すりの外側へ半分傾いている。雨に濡れた金属の手すりを、蘭堂の指先が滑っていく。
澪は、その手を振り払わなかった。
「引き上げて」
澪が叫んだ。律にでも、未明にでもなく、自分自身への命令のように。
澪が、蘭堂の腕を強く引いた。歯を食いしばり、全身の重みをかける。蘭堂の身体が、スロープの内側へ、ぎりぎりのところで戻った。
蘭堂は、しばらく動かなかった。濡れた石畳に膝をつき、荒い息を吐いている。
「――なぜ」
蘭堂が、掠れた声で訊いた。
「私を、助ける理由がない」
「理由なんて、考えてる暇はなかった」
澪は、それだけ言うと、律の方へ走ってきた。
「それに、あなたを死なせたら、優真くんの居場所を訊く相手が、いなくなる」
澪は振り返らずに、それだけ付け加えた。情けでも、赦しでもない。ただの、生存者としての計算だった。
未明が、濡れた石畳の上で、蘭堂を睨みつけていた。手を貸そうとはしなかったが、蘭堂が完全に落ちていく方を選ばなかったことに対して、何も言わなかった。それが、未明にできる精一杯の中立だった。
律の視界が、また狭まり始めていた。今度は低値のせいではない。使い果たした身体が、限界を超えた反動を、いま一気に払わせようとしていた。
遠くで、複数のサイレンが重なって聞こえた。近づいてくる。今度こそ、届く距離だった。
御厨が、逃げようと踵を返した。だが、その足は、広場の出口で止まった。数台のパトカーが、すでに都庁通りを塞いでいた。赤と青の光が、雨に濡れた御厨の顔を、交互に染めていく。
制服の警察官が、傘も差さずに駆けてくる。御厨は、両手を挙げることも、逃げることもせず、ただその場に立ち尽くしていた。診察室での穏やかな表情は、もうどこにもなかった。
別の警察官が、蘭堂の両腕を背に回し、手錠をかける。蘭堂は抵抗しなかった。濡れた石畳に膝をついたまま、律の方を一度だけ見た。その眼に浮かんでいたのは、恨みでも、諦めでもなく、これから先の展開を、すでに計算し始めている眼だった。この男は、きっとまだ終わっていない。律には、そう思えた。
律は、崩れ落ちる身体を、澪の腕の中へ預けた。
「律、聞こえてる? 律っ」
澪の声が、遠くから、それでもはっきりと届いた。澪の指が、すぐに律の首筋へ当てられる。脈を数える、いつもの手つきだった。
「大丈夫、脈はある。すぐに救急車が来る」
律は、何かを答えようとした。だが、声にならなかった。
視界の端に、雨に濡れた都庁の壁が見えた。てっぺんまでは見えない。それでも、その光景を、律は綺麗だと思った。
今夜の始まりに見た、腕時計の数字を思い出した。あの時は、8.4という数字だけが、律のすべてだった。数字さえ守れば、誰も傷つけずに済むと思っていた。
いまは、その数字がどこにあるのかさえ、分からない。それでも、怖かった。それでも、澪の腕の中にいる。
それだけで、充分だった。
律の意識は、そこで途切れた。




