第二十二章 8.0以下
連絡通路を抜けた先に、広い屋外の空間が広がっていた。都民広場だと、頭上の案内板が告げている。雨に濡れた石畳が、街灯の光を鈍く弾いていた。この時間、傘を差す通行人の姿もない。
律は、澪と未明に支えられたまま、その場に立ち尽くした。走ることも、隠れることも、もう求められていない。ただ立っているだけの数秒が、今夜はじめて律に許された静けさだった。その静けさが、かえって不気味だった。嵐の目の中にいるだけだと、身体のどこかが警告していた。
見上げると、第二本庁舎の壁面が、雨雲の低い空へまっすぐ突き刺さっている。三十四階建て、高さ約百六十三メートル。丹下健三の設計だと、律はどこかで読んだ記憶があった。いまその記憶が、何の役にも立たないことだけは分かった。無数の窓のほとんどは暗く、上層の数室にだけ、当直の明かりが灯っている。
建物の北側、駐車場の脇に、小さな明かりが灯る出入り口があった。夜間通用口、と札が下がっている。警備員がひとり、ガラスの向こうで身じろぎもせずに座っていた。あそこへ駆け込めば、何かが変わるだろうか。律は一瞬考え、すぐに打ち消した。駆け込んだところで、説明できることなど何もない。血まみれの一行を見て、警備員が最初にすることは、通報でしかない。それでは工藤の賭けが、ただの事件として処理されて終わる。
律たちは、その明かりから距離を取って、広場の隅、街路樹の陰に身を寄せた。雨は、まだ止まない。
「久世さん。ここまで来て、何をするおつもりですか」
蘭堂が、初めて律に問いを譲った。これまでの、答えを迫る側ではなく、答えを待つ側に回った声だった。
律は、澪に支えられながら、保冷ケースへ眼をやった。
「工藤さんは、証拠を警察や検察へ渡そうとしたわけじゃない。それなら、もっと簡単な方法があった。彼は、あなたと御厨先生の両方を、同じ時刻に、同じ場所へ集めようとしていた」
「なぜです」
「二人の言葉を、同時に記録するためです。片方だけの証言なら、握り潰せる。でも、加害者同士が、互いを庇いながら喋った内容を、時限式で外部へ送信できるなら――それは、もう分けられない」
蘭堂の眉が、わずかに動いた。灰庭の恐ろしさを、律自身の言葉で言い当てられたことに対する反応だった。
「送信の仕組みは、把握しているんですか」
「いいえ」
律は、正直に答えた。
「工藤さんがどこに何を仕込んだのか、私は知りません。分かるのは、六本目のチップと、私の生体認証が揃った時に、何かが動き出すということだけです」
蘭堂は、しばらく黙っていた。賭けの分の悪さを、頭の中で計算しているようだった。
「久世さんは、私にもその役を割り振るおつもりですか」
「あなたは、御厨先生の言葉さえ引き出してくれればいい。あとの部分は、もう用意されているはずです」
「もし、何も起こらなかったら」
「その時は、私が生体認証を渡さなければいいだけです」
律は、そこだけは譲らない声で言った。蘭堂は、それ以上を追及しなかった。
蘭堂は、保冷ケースを膝の上へ置き直した。指先で、蓋の縁を静かになぞる。
「久世さんは、私も御厨先生も、どちらも道連れにするおつもりですね」
「あなたが、自分は違うと言うなら、いまここで背を向ければいい」
律は、蘭堂の眼を見た。
「あなたは、そうしない。灰庭が今夜のことで潰れるなら、御厨先生を道連れにした方が、あなたにとっても都合がいいはずだ。依頼人を売って、自分だけ生き残る。あなたなら、その計算をしないはずがない」
蘭堂は、しばらく何も言わなかった。灰色のコートの下で、微かに笑ったような気配があった。
「手厳しいですね」
それだけを言って、蘭堂はケースを抱え直した。肯定も否定もしない沈黙が、律にとっては、いちばん確かな答えだった。
未明が、包帯の巻き直された右手を庇いながら、律の傍らへ座り込んだ。左肩の傷に、澪が手早く応急の布を当てている。
「優真は」
未明が、誰にともなく呟いた。答えられる者は、その場に誰もいなかった。尾関のことも、律の頭の片隅をよぎった。あの地下室から、どうなったのかさえ、誰も知らない。今夜出会った人間のうち、何人が朝を迎えられるのか、律には見当もつかなかった。
澪が、未明の傷口に当てた布の上から、そっと手を重ねた。言葉ではなく、その重さで、何かを伝えようとしているようだった。未明は、振り払わなかった。
律の腕時計が、久しぶりに短く震えた。
《CORTISOL 5.8》
治療域からは、まだ遠い。だが、身体はどうにか自分の意思で動いていた。数字よりも、いま自分が何をすべきかという実感の方が、律を支えていた。
広場の反対側、都庁通りの方角から、エンジン音が近づいてきた。全員が身を硬くする。だが、通り過ぎたのは、深夜の巡回パトカーだった。速度を落とすことなく、そのまま角を曲がって消えていく。
誰も、息を吐く余裕はなかった。あの巡回が二度目に来た時、まだここにいられるとは限らない。
蘭堂が、コートの内側から端末を取り出した。
「御厨先生を呼びます。ただし、久世さんの計画通りに動くとは限りません」
「構いません」
律は、短く答えた。
呼び出し音が、雨音に混じって鳴った。数回の後、応答があった。あの、聞き慣れた穏やかな声が、スピーカーから漏れる。
「蘭堂さん。指定ロットの状況は」
「久世さんが、直接お話ししたいそうです」
一瞬の沈黙があった。律には、その沈黙の重さが分かった。御厨は、律がまだ生きて動いていることに、驚きを隠せずにいる。
「……律くん」
名を呼ぶ声は、診察室で聞いたものと、何も変わらなかった。その変わらなさが、律の胸を逆に締め付けた。
「声を聞けて、嬉しいよ。数値の方は、大丈夫かい」
案じる響きに、嘘は感じられなかった。それが、いちばん腹立たしかった。
「御厨先生。六本目は、私が持っています」
律は、感情を込めずに言った。感情を見せれば、相手に読まれる。
「読み取りには、私の同意が要る。渡す条件は、先生がここへ来ることです」
「どこに」
「都庁第二本庁舎前」
通話の向こうで、微かに息を呑む気配があった。
「――君は、何をするつもりだい」
「終わらせるだけです」
律は、それ以上を語らなかった。語れば、工藤の仕掛けの正体を、御厨に悟らせてしまう。
「工藤くんのことを、言っているのかな」
御厨の声は、変わらず穏やかだった。だが、その名を自分から出したことに、律は違和感を覚えた。相手は、こちらがどこまで知っているかを、静かに測っている。
「彼の名前を、先生の口から聞くとは思いませんでした」
「私の部下だったからね。優秀だったよ。真面目すぎるくらいに」
律は、その言い方に、かすかな痛みが混じっていることに気づいた。憎しみでも、蔑みでもない。かつて評価していた人間を、自分の手で追い詰めたことへの、屈折した痛みだった。
「三枝優真くんが、そちらの関係者に連れて行かれました。無事なんですか」
律は、未明の視線を感じながら、続けて訊いた。声が震えないよう、腹に力を入れる。
「……それは、私の管轄ではないよ」
御厨の声に、初めてわずかな淀みが混じった。知らないのではなく、知っていて言わない声だった。
「先生」
律は、もう一度呼んだ。今度は、感情を隠さなかった。
「無事なんですか」
「行けば分かる」
御厨は、質問を正面から受け止めなかった。代わりに、静かに続けた。
「すぐに、そちらへ向かう。律くん、ひとつだけ言わせてほしい。私は、君を実験台にしたことは一度もない。君の身体を守るためだけに、できることをしてきたつもりだ」
「その結果が、これですか」
律の声が、初めて尖った。
「あなたが数値を作り変えたせいで、私は自分の身体すら信じられなくなった。それが、守るということですか」
通話の向こうで、御厨は何も言わなかった。ただ、雨音だけが、しばらく続いた。
「――すぐ行く」
それだけを言って、通話が切れた。
蘭堂が、端末をしまいながら、律を見た。
「来るでしょう。あの人は、久世さんを、道具としてではなく、患者として扱い続けてきた。その執着は、本物です」
その言葉が、慰めなのか、警告なのか、律には判別できなかった。
澪が、応急処置を終えた未明の肩へ、上着をかけた。
「これで少しは持つ。でも、病院はまだ遠い」
未明は、礼を言わなかった。ただ、律の方を見て、低く言った。
「いま、はぐらかされたな。あんたも、気づいただろ」
「気づいた」
律は頷いた。御厨は、優真の安否を知っている。知っていて、答えなかった。それだけで、状況は少しも良くなっていないと分かった。
広場の隅、街路樹の陰から、車のヘッドライトが近づいてくるのが見えた。一台だけだった。速度を落とし、駐車場の方角ではなく、広場の正面へ向けて、まっすぐに停まる。
律の心臓が、CORTISOLの数値とは関係のないところで、速く打ち始めた。
運転席から降りてきたのは、若い運転手らしき男だった。後部座席のドアを、恭しく開ける。
降りてきた人影は、白髪の混じった、穏やかな顔立ちの初老の男だった。傘も差さず、雨の中に立ち、こちらを見つめている。仕立ての良いコートが、瞬く間に雨で色を変えていくのも構わない様子だった。
律は、その顔を、初めて生で見た。電話越しの声だけで知っていた人物が、いま、雨に濡れながら、目の前に立っていた。診察室の白い光の下でしか見たことのない顔が、こんな場所に立っていることが、律には現実感を伴わなかった。
「律くん」
御厨が、静かに歩み寄ってきた。
「久しぶりだね。元気そうで、何よりだ」
その声には、皮肉も、動揺も、感じられなかった。ただ、本当に律の身を案じているような、穏やかな響きがあった。
律は、その穏やかさこそが、いちばん恐ろしいと思った。人を裏切り、人を殺させ、人の身体を作り変えてきた男が、いまだにこんな顔で、こんな声で、律の前に立てることが、恐ろしかった。
御厨の視線が、律の腕にある腕時計へ、ゆっくりと落ちた。壊れたままの表示を見て、微かに眉をひそめる。
「その表示は……いつから」
その一言には、これまでのどの言葉よりも、隠しきれない動揺があった。
律は、答えなかった。答える代わりに、保冷ケースへ手を伸ばした。
これから始まるのは、薬の受け渡しではなかった。




