第二十一章 六本目
誰も、動かなかった。青白い光と、蘭堂の背中と、律たちの息だけが、通路の静けさの中で睨み合っていた。
人影が、また一歩、踏み出した。
「久世さんには、まだ用があります」
声には、抑揚がなかった。青白い光の輪が、律の足元まで伸びてくる。
蘭堂が、退かなかった。灰色のコートの内側で、右手が保冷ケースの持ち手を強く握っているのが、律にも見えた。指の関節が、白くなっている。
「証拠袋の中身が、目的ですか」
蘭堂の声には、初めて、値踏みするような響きがあった。
「それだけなら、私が渡せば済む話です」
人影は、すぐには答えなかった。青白い光が、蘭堂の持つケースの輪郭を、ゆっくりとなぞる。値段を確かめるような沈黙だった。
「久世さん本人がいなければ、意味を持ちません」
人影が、ようやく答えた。
「あの中の一本には、記録済みの生体情報と一致しなければ開かない領域があります。久世さんの、指紋と静脈と――」
「やめてください」
律の声が、自分でも驚くほど大きく出た。
だが、止まらなかった。頭の奥で、霧の向こうにあった何かが、急速に像を結んでいく。あの夜、大久保病院裏の路地。刺された白衣の男が、律のケースへ何かを押し込みながら、掠れた声で言った言葉。
――六本目を、朝まで守れ。
あれは、カートリッジを守れという意味だけではなかった。律自身が、朝まで生きていろ、という意味だった。律の身体そのものが、鍵の一部だったからだ。
「あなたたちは、誰の指示で動いているんですか」
律は、掠れた声で続けた。
人影は、質問には答えなかった。かわりに、律の記憶の奥にある名前を、静かに差し出した。
「工藤という名前に、聞き覚えは」
律の中で、何かが崩れる音がした。
「――白衣の、男」
「治験の薬剤管理をしていました。横流しと改竄に気づいて、記録を持ち出そうとした。彼が最後に選んだのが、あなたのケースです」
律の脳裏に、あの夜の路地の光景が、断片のまま浮かんだ。白衣の裾。掠れた息。追手から逃げ切れないと悟った男の眼に、律のケースが映った瞬間があったはずだった。見ず知らずの通行人に、命がけの秘密を託す。工藤という男にとって、それは賭けというより、他に選びようのない最後の一手だったのかもしれない。
律は、七年前から自分の身体に埋め込まれてきた小さな認証装置のことを思い出した。ポンプの識別と連動する、指先の静脈パターン。日常の通院の中で、何度も読み取られてきたはずのデータだった。それを、工藤という名の男は、自分の意思とは関係のないところで、別の目的のために使っていた。
怒りより先に、奇妙な感覚が律を満たした。誰も知らないところで、自分の身体が、誰かの最後の賭けに使われていた。頼まれてもいない賭けに、律は一晩中、気づかないまま付き合わされていたことになる。
「なぜ、私を」
「久世さんの症状が、公になっていたからです。あなたのカートリッジを全部奪えば、あなたは死ぬ。警察も、病院も、灰庭のような組織でさえ、あなたの生命維持を無視して証拠物を扱うことはできない。工藤は、そこに懸けました」
人影の声は、変わらず平坦だった。同情も、称賛も含まれていない。ただ、事実を読み上げているだけだった。
蘭堂の眼が、保冷ケースへ向いた。律には、その表情の変化が見えた。これまで、蘭堂は「六本のカートリッジが揃わなければ意味を持たない」としか言わなかった。だがいま、揃える対象が単なる薬剤ではなく、律自身の身体だと知った瞬間、蘭堂の中で何かの値札が書き換わったのが分かった。
律は、蘭堂の持つ保冷ケースを見た。中に、あの警察の証拠袋がある。シネシティ広場で新しいケースが開いて以来、一度も封を切られていない、あの一本。誰も気づかないまま、ずっとそこにあった。灰庭も、蘭堂も、律自身でさえ、それがただの一本だと思っていた。
「久世さん。手を貸していただけますか。読み取りだけです。すぐに終わります」
人影が、紫外線灯の脇から、薄い認証端末を取り出した。
律の脚に、力は残っていなかった。だが、進むべきでないことだけは分かった。ここで指を差し出せば、工藤という男が命を賭けて隠したものが、そのまま相手の手に渡る。
「断る」
律は言った。
人影の動きが、初めて速くなった。
澪が、律の前へ完全に身体を入れた。蘭堂が、保冷ケースを抱えたまま後ずさる。三者の距離が、一気に詰まった。
「無理に採取する方法も、当方にはあります」
人影の声が、初めて低くなった。紫外線灯を握る手が、認証端末を、まるで注射器のように持ち替える。
澪が、律を庇う位置から一歩も動かなかった。蘭堂もまた、退かない。三人が壁を作るようにして、律を人影の視線から隠していた。誰も口を利かない数秒が流れた。雨の匂いも、地上の音も、ここまでは届かない。あるのは、四人分の呼吸と、迫ってくる足音の予感だけだった。
人影が、動いた。
澪の肩を掴もうとした手を、澪が咄嗟に払いのける。だが、その隙に、もう片方の手が律の腕へ伸びてきた。指先が、律のシャツの袖に触れる。
澪が、その手首へ体当たりするように割り込んだ。二人の身体がもつれ、人影の足がわずかによろめく。
その時、通路の奥、闇の濃い方から、何かが走ってくる足音がした。
「離せッ」
聞き覚えのある声だった。
未明が、暗がりから飛び出してきた。右手のガーゼは半分ほど剥がれ、左肩から血が滲んでいる。髪が乱れ、頬に擦り傷があった。だが、脚は自分の意思で動いていた。背後から、二人分の足音が追ってくる。白衣を着た人影がもう二人、未明を追って闇の中から現れる。
「未明さん!」
律が呼んだ。
未明は、律たちの方向へ一直線に走ってきた。その勢いのまま、人影の脇をすり抜けながら、持っていた何かを人影の顔へ投げつけた。丸めた布――優真の毛布の切れ端だった。
人影の紫外線灯の光が、一瞬泳いだ。
「いまだ、走れ!」
未明が叫んだ。
蘭堂が、迷わず動いた。保冷ケースを抱え直し、律と澪の背を押す。
「右です。都庁の方へ」
律は、澪と未明に両側から支えられながら、光の分かれ道を右へ走った。「東京都庁」と示す古い案内板が、視界の端を過ぎていく。足元の段差に、未明の靴が一度引っかかったが、体勢を崩さずに走り続けた。
「優真は」
律は、走りながら訊いた。訊かずにはいられなかった。
未明の顔が、一瞬だけ歪んだ。
「連れてかれた。あたしが眼を離した隙に……」
声が、そこで途切れた。責めているのは、律にでも、蘭堂にでもなく、自分自身に対してだと分かった。未明は、それ以上を言わず、ただ前だけを見て走った。走ることでしか、いまの自分を保てないようだった。
律は、それ以上を訊けなかった。優真がどこにいるのか、生きているのか、いまの律には確かめる術がなかった。ただ、未明の横顔が、答えの代わりだった。
背後で、人影の声が追ってきた。感情のない声のまま、初めて苛立ちの色を帯びていた。
「戻ってきてもらう必要があります。久世さんには」
足音が、追ってくる。急いでいないはずの、あの一定のリズムが、今度は明らかに速度を上げていた。
通路の先に、ガラス張りの連絡通路が見えた。天井が高くなり、雨に濡れた地上の明かりが、遠くに滲んでいる。都庁第二本庁舎の、無機質な壁面のシルエットが、雨雲を背負って浮かび上がっていた。あそこまで辿り着けば、何かが変わるかもしれない。根拠のない予感だけが、律の脚を前へ運んでいた。
律は、その声を振り切るように、足を前へ出し続けた。腕時計は、まだ壊れたままだった。数字はなくても、身体の重さだけで、限界が近いことが分かった。
自分の身体が、証拠であり、鍵であり、賭けの対象だった。工藤という名前も知らなかった男の最後の願いを、律は自分の意思とは関係なく背負わされていた。
それでも、律は思った。渡さない、と決めたのは、いまこの瞬間の、自分自身の意思だった。
背後の足音が、ふいに止まった。
律は、走りながら振り返った。人影の姿は、もうそこになかった。諦めたのではない。律には、そう思えなかった。追うのをやめたのではなく、追う必要がなくなった、という止まり方だった。
その意味を考える余裕は、律には残っていなかった。ただ、悪い予感だけが、雨に濡れた夜の底で、静かに広がっていった。
ガラス張りの連絡通路を抜けると、視界が一気に開けた。雨は、まだ止んでいない。無数の窓の明かりは、ほとんどが消えている。それでも数えるほどの階に、まだ光が灯っていた。こんな時間に、誰かが働いている。
律たちの足音が、ガラスと石張りの床に反響する。追ってくる足音は、もう聞こえなかった。それでも誰も速度を緩めなかった。振り返って確かめる余裕は、誰にもなかった。
律は、その光を見上げながら、荒い息を整えようとした。だが、頭の片隅では、別の考えが渦を巻いていた。工藤が命を懸けて託した鍵は、いま自分の指先ひとつで、開いてしまう。渡すか、渡さないか。その選択を下せるのは、もう自分しかいなかった。




