第二十章 ワンデーストリート
闇の中で、雨音だけが遠く響いていた。地上の音が、階段の吹き抜けを伝って降りてくる。
誰も、動かなかった。蘭堂の手が、律の腕を掴んだままだった。息を殺す時間が、数秒か、数十秒か、律には測りようがなかった。時計はまだ壊れたままだった。
闇の中で、何かが擦れる音がした。布か、あるいは髪か。遠くではない。すぐそこだった。
澪の指が、律の腕を強く握った。誰も声を出さなかった。出せば、その音の主に、正確な位置を教えることになる。
非常灯が、遅れて灯った。橙色の弱い光が、通路の輪郭だけを浮かび上がらせる。
床に広がっていたのは、血だった。乾ききっていない、赤黒い染み。その脇に、白いガーゼの切れ端が一枚、濡れて張りついている。律には見覚えがあった。未明の右手を包んでいた、あの厚い包帯の一部だった。
人の姿は、どこにもなかった。
「未明さん」
律の声が、通路の奥へ吸い込まれて消えた。返事はない。
澪が、その染みへしゃがみ込んだ。指先で縁に触れ、粘度を確かめる。
「新しい。数分も経ってない」
黒服が、懐中電灯で床を照らした。争った跡が、点々と奥へ続いている。だが、争い方が奇妙だった。銃創も、殴打の跡もない。かわりに、小さな注射針の蓋が一つ、光の中に転がっていた。K-TRANSの、あの抑揚のない搬送担当とは、明らかに違うやり口だった。
律は、その蓋を見つめた。滅菌包装の切り口が、鋏ではなく専用の器具で開けられている。街のけんかや強盗の道具ではない。医療的な手順に慣れた人間の仕事だった。誘拐ではなく、回収。律の頭の奥で、その言葉が形を持った。
優真の乗っていたはずの搬送椅子は、跡形もなかった。車輪の擦れた線だけが、通路の奥、闇の濃い方角へ向けて伸びている。誰かが、椅子ごと連れ去ったのだ。抵抗した跡はある。だが、優真自身の力では、とても抗えなかったはずだった。
蘭堂が、その針の蓋を拾い上げた。灰色のコートの下で、指先がわずかに震えているのを、律は見た。これまでの蘭堂の手からは、一度も見たことのない震えだった。
「――先を越されました」
誰に向けた言葉でもなかった。
律は、蘭堂のその一言だけで、事態の深刻さを理解した。灰庭でも、K-TRANSでもない、第三の手が、すでにここに入り込んでいる。優真たちが、いまどちらの手にあるのかさえ、蘭堂自身にも分からなくなっている。
「行きますよ」
蘭堂の声が、初めて急いた。丁寧語は崩れていないのに、間の取り方が変わっていた。律を支える手にも、これまでにない強さがこもっている。
律は、澪に支えられながら、通路の奥へ進んだ。饐えた湿気の先に、幅の広い空間が見えてくる。頭上の案内板に、色褪せながらも読み取れる文字があった。
――西口地下広場。
バスターミナルの真下だと、律にも分かった。中央に据えられた、白い球体を模したモニュメントが、非常灯の中でぼんやりと浮かんでいる。地元の人間なら誰もが知る、あの目玉のような彫刻だった。昼間なら待ち合わせの人々で賑わうその場所に、いまは律たちの足音しかなかった。まるでその目玉だけが、無人の広場でずっと律たちを見ていたかのようだった。
シャッターの下りた売店が、両側に並んでいる。閉じた金属の列が、非常灯の光を鈍く反射していた。誰かが息を潜めていても、律には気づけそうになかった。
広場を抜けた先に、まっすぐ伸びる通路があった。床の中央を、停止した動く歩道が貫いている。都庁方面、と示す案内板の矢印が、律の視界の端に入った。ふだんなら人を運ぶはずのベルトが、いまは無音のまま、ただの床の一部と化している。
黒服が先頭に立ち、動く歩道の脇を進み始めた。律たちも続く。歩くたびに、靴音が硬い壁に反響し、何倍にも増えて返ってきた。四人分の足音のはずなのに、律の耳には、もっと多くの誰かが歩いているように聞こえた。
通路の右手、ガラス張りの連絡口の向こうに、見覚えのある高層ビルの下層階が見えた。
――新宿三井ビルディング。
何度も広告で眼にした、独特の柱の意匠。エントランスの明かりだけが点いていて、警備員の姿はどこにもない。助けを求めるには、あまりに遠い光だった。
三百メートル近い直線だった。逃げ場になる曲がり角も、身を隠せる柱もほとんどない。ただ延々と、同じ高さの天井と、同じ間隔の照明が続くだけだった。ここを設計した誰かは、まさかこんな夜に、この直線が人の生死を分けるとは想像もしなかっただろう。
律の背中に、冷たい汗が伝った。CORTISOLの数値とは関係のない、別種の悪寒だった。
「後ろ」
澪が短く言った。声を抑えていたが、その硬さだけで充分だった。
律は振り返らなかった。振り返る力もなかったが、澪の声の硬さだけで、何かが背後にいることが分かった。
遠く、通路の入り口の辺りに、人影がひとつ立っていた。距離があるせいで、輪郭しか見えない。だが、その立ち方には、K-TRANSの機械的な動きとも、黒服の訓練された動きとも違う、静かな異様さがあった。
人影は、こちらへ歩き出した。急いではいない。急ぐ必要がない、という歩き方だった。
律の直感が、そこに恐怖の質の違いを見た。蘭堂は、条件と記録で人を追い詰める。この影は、それとは別の、もっと単純な確実さで距離を詰めてくる種類のものだった。
「走ってください」
蘭堂が言った。
律の脚には、もう走るための力はほとんど残っていなかった。それでも、澪に引かれるまま、律は足を前へ送り続けた。動く歩道の停止した床を、踏みしめるように進む。ステップの継ぎ目が、動かない分だけ硬く、律の足首に響いた。
背後の足音が、少しずつ間隔を詰めてくる。急いでいないはずなのに、距離だけが確実に縮んでいた。数えるように、一定のリズムを崩さない足音だった。
通路の途中に、脇へ逸れる階段があった。案内板には「新宿モノリス」と記されている。黒服がそちらへ眼をやったが、蘭堂が首を横に振った。
「そちらは行き止まりです。まっすぐに」
律の視界の端で、非常灯の光が一瞬だけ強く瞬いた。振動が、足の裏から伝わってくる。上のどこかで、大きな音がしたようだった。地上の雨と、地下のこの静けさが、同じ夜の中にあるとは思えないほど、かけ離れていた。
しばらく、足音は聞こえなくなった。律は、肩で息をしながら、澪の腕に半ば体重を預けた。振り切ったのかもしれない。そう思いかけた瞬間、澪の身体が強張った。
足音が、また聞こえ始めていた。しかも、さっきより近い。
距離を詰められていたのは、律たちの方だった。追う者は、こちらの速度をとうに見切っていた。
通路の壁に、色褪せたプレートが埋め込まれていた。ワンデーストリート、と刻まれている。かつて、ここを歩く人々のために名付けられた、明るい名前だった。いまの律には、その明るさが、ひどく遠いものに感じられた。
背後の足音が、ふいに速くなった。
律の肩を、澪が強く引いた。二人の身体が、壁際へ大きく逸れる。すぐ横を、何かが空を切る音が通り過ぎた。壁に当たった何かが、乾いた音を立てて床へ落ちる。細い注射器だった。
「離れないで」
澪の声が、初めて震えていた。
通路の先が、二手に分かれていた。右手の案内には「東京都庁」、左手には「地上出口」とある。
律の足が、そこで限界を迎えた。膝が崩れ、澪の腕の中へ倒れ込む。
背後の足音が、止まった。
律が振り返ると、人影は、もう十数メートルの距離まで迫っていた。街灯とは違う、青白い光が、その手元で小さく灯っている。携帯用の紫外線灯だった。何かを照合するための道具だと、律には直感で分かった。
人影が、初めて口を開いた。
「久世律さん。第九腰椎の左側、まだ痛みますか」
律の呼吸が止まった。誰にも話していない、発作の後遺症の位置だった。カルテか、診察室でしか知り得ない情報だった。
律の頭の奥で、霧の中にもかかわらず、癖のような計算が働いた。この精度の情報を扱えるのは、灰庭の外部委託先か、あるいは診療データそのものに触れられる立場の人間しかいない。御厨の名が、また一段近くまで迫ってくる。だが、いま確かめる余裕はなかった。
蘭堂が、律たちの前に立ちはだかった。灰色のコートが、律の視界を覆う。
「――どちらの差配ですか」
蘭堂の声は平静を装っていたが、律の位置からは、コートの下の背中がわずかに強張っているのが見えた。この男が、誰かに対して身構えるところを、律は初めて見た。
人影は、答えなかった。ただ、青白い光を、ゆっくりと蘭堂へ向けた。光の輪の中に、白衣の裾のようなものが、一瞬だけ映った。
「三枝優真は、こちらで確保しました。姉の方は、まだ抵抗が続いています」
声には、感情の温度がなかった。優真の名を、対象の記号としてではなく、正しい名前で呼んだことが、かえって律の背筋を凍らせた。ここにいるのは、灰庭でも警察でもない、まったく別の理屈で動く誰かだった。
まだ抵抗している。その一言だけが、律の中でかろうじて光を保った。未明は、まだどこかで戦っている。
「久世さんには、まだ用があります。ご一緒いただけますか」
人影が、一歩、踏み出した。青白い光の輪が、律の足元まで伸びてくる。
澪が、律を庇うように前へ出た。蘭堂もまた、退かなかった。誰も動けないまま、光の輪だけが、じりじりと距離を詰めてくる。
律の意識が、そこで再び暗くなりかけた。右か、左か。どちらへ進めば助かるのかさえ、もう律には判断できなかった。




