第十九章 雨の西口
雨が、フロントガラスを叩く音だけが規則正しかった。ワイパーが一定のリズムで視界を拭うたびに、歌舞伎町のネオンが滲んでは戻る。律の意識も、その明滅と同じ間隔で、途切れては戻った。
腕時計はまだ《FLOW ERROR》の表示のままだった。数字のない身体は、いま何分持つのかを、律自身にも教えてくれない。時間の感覚が、輪郭を失っていく。
澪が、律の手首を握ったままでいた。脈を数える指の力だけが、律を現実につなぎとめている。ときどき、その指先に力がこもる。数字にできない何かを、澪はそこで確かめているようだった。
車内は静かだった。誰も口を開かない。エンジン音と、ワイパーの往復音だけが続く。その静けさが、律には次に来るものへの予兆のように感じられた。
「前方、検問」
助手席の黒服が、抑えた声で言った。
律は薄く眼を開けた。フロントガラスの向こうに、赤色灯が点滅している。制服の警察官が、車を一台ずつ止めて誘導していた。ワイパーの向こうで、光の色だけが赤く、青く、繰り返し滲む。
蘭堂は動じなかった。
「裏の路地へ」
運転していた黒服が、ハンドルを大きく切った。車体が横滑りし、澪の身体が律の方へ倒れ込む。タイヤが濡れた路面を鳴らし、狭い一方通行へ強引に入った瞬間、車体側面がミラーごと壁を擦った。硬い音が、車内に響いた。
律の身体が、シートベルトの下で大きく揺れる。左脇腹の痛みが、閃光のように走った。声を出す余裕もなかった。窓の外を、狭い路地の壁が異様な速さで流れていく。ミラーが根元から折れ、後方へ飛んでいくのが、律の眼にも一瞬映った。
路地を三度折れたところで、車体が急停止した。前方に、廃品を積んだ台車が横倒しになっている。運転手が舌打ちし、バックしようとしたが、後方からも別のヘッドライトが近づいてきていた。挟まれる。律にも、それだけは分かった。
「もう戻れません」
蘭堂が言った。
「ここで降ります。車はもう使えません」
黒服がドアを開けた。雨と、雑踏の音が同時に流れ込んでくる。
律は、澪に支えられて外へ出た。足の裏の感覚はほとんどない。雨が肩を叩く感触だけが、やけに強く伝わった。冷たさが、痛みと区別できないところまで来ている。
通りへ出ると、そこは歌舞伎町の喧騒だった。原色の看板、傘の群れ、酔って笑う声、客引きの声。律の視界には、光と音が輪郭を持たないまま流れ込んでくる。歩くというより、押し流されるような感覚だった。誰もが律たちを見ているようで、誰も見ていなかった。
澪が律の腕を自分の肩へ回し、体重の半分を引き受けた。
「倒れても、私が支える。だから、足だけ動かして」
律は頷く力もなく、ただ足を前へ出し続けた。一歩ごとに、雨に濡れたアスファルトが遠く近く伸縮する。
すれ違った若い男の一人が、ふと足を止めた。スマートフォンを構えたまま、律の顔をまじまじと見る。
「……あれ、これ、あの動画の奴じゃね?」
連れの一人が笑いながら振り返った。
「刺した奴だろ、歌舞伎町の。マジで見た、生きてんじゃん」
携帯のカメラが、律へ向けられた。フラッシュのような光が、律の視界の端で白く弾ける。数人が足を止め、囲むように集まり始めた。
黒服の一人が、素早く男たちの間へ割り込んだ。
「人違いです。どいてください」
声に凄みを利かせる。男たちは一瞬怯んだが、カメラは下ろさなかった。
「証拠拡散されたら困るのはそっちだろ」
蘭堂が短く指示を出す。黒服がもう一人、男たちの視界を塞ぐように立ち、律たちはその隙に路地の奥へ引きずり込まれるように進んだ。背後で、まだ笑い声とカメラのシャッター音が続いていた。あの偽の映像が、いまも律の顔を追いかけてくる。
交差点の手前に、傘を差した警察官が立っていた。雨天の交通整理をしている。律の視界が、その紺色の制服だけを、一瞬だけ鮮明に捉えた。
助けを求める。その考えが浮かんだ瞬間、律は最後の力を脚へ集めた。身体が傾ぎ、警察官の方向へよろめく。
蘭堂の手が、律の肩を軽く支えた。支える、という動作でありながら、進む方向を確実に変えていた。指の力は柔らかいのに、抗えなかった。
「大丈夫ですか」
警察官の方から、先に声をかけてきた。傘の下から覗く眼が、律の顔色を気にしている。近づいてくる足音が、律には救いの音に聞こえた。
まだ間に合う。
「すみません、連れが飲みすぎたようで」
蘭堂が答えた。雨音に紛れるほど、自然な声だった。
警察官がうなずきかけた。だがその視線が、律の顔から蘭堂の顔へ移った瞬間、何かが変わった。
律には、それが見えた。ほんの一瞬。警察官の眼の中から、疑いの色がすっと引いていく。答え合わせが済んだ、というような静かな変化だった。
「……ああ。いつもの、ですか」
警察官の声が、低く落ちた。誰にともなく確かめるような響きだった。
蘭堂は答えなかった。ただ、コートの内側へ軽く手を入れ、何かを警察官の傘の内側へ、握手のように滑り込ませた。動作は一瞬で、雨音の中にほとんど溶けて消えた。
律は、その手の動きを見た。声を出そうとした喉が、今度は違う理由で凍りついた。
「ご心配なく。すぐそこのホテルへ運びますので」
澪が続けて言った。看護師としての声色だった。だが、そこにもわずかな硬さが混じっていた。彼女もまた、いま何が起きたかを理解していた。
警察官は、もう律を見なかった。傘を軽く上げ、律たちの背後を指し示すように腕を振る。
「お気をつけて」
それだけを言って、彼は背を向けた。誘導灯を振る、いつもの交通整理の姿へ戻っていく。まるで、いまの数秒間が最初からなかったかのように。
律の中で、警察官の背中を追っていた最後の望みが、音もなく消えた。届かなかったのではない。届いた先が、最初から閉じていた。
灰庭が繋がっているのは、書類と会社だけではなかった。雨に濡れた交差点に立つ、たったひとりの制服にさえ、根が伸びていた。それを知った瞬間の方が、殴られるよりも効いた。
人混みを抜けると、通りは急に静かになった。ネオンの光が背後へ退き、代わりに濡れたアスファルトと、閉まったシャッターの列が続く。歌舞伎町から西口へ向かう、人気の少ない道だった。
誰も、何も言わなかった。雨の音だけが、四人分の沈黙を埋めていく。
雨脚が強くなった。傘を差す者もいない道で、律の服はすでに肩から重く濡れている。息を吸うたび、肺の奥まで水を含んだような重さがあった。
律の足が、突然、言うことを聞かなくなった。
膝が折れる。澪が抱き止めようとしたが、二人分の重みを支えきれず、二人とも路面へ崩れ落ちた。
律の視界が、完全に暗くなった。音だけが遠く残っている。雨の音、澪の声、遠くのサイレン。すべてが、水の中で聞いているようだった。
「律っ」
澪の声が、初めて名前を呼んだ。処置の声ではなかった。
律の意識は、そこで一度、完全に途切れた。夢も、闇も、何もなかった。ただ、時間だけが飛んだ。
どれくらいの時間が経ったのか、律には分からなかった。頬に当たる雨の冷たさで、意識がわずかに戻る。眼を開けると、澪の顔が近くにあった。雨粒が、澪の睫毛から落ちて律の頬に当たった。
澪の指が、律の首筋と手首を素早く行き来する。頸動脈、橈骨動脈、呼吸の回数。プロの手つきが、雨の中でも乱れなかった。
「息はしてる。脈も、まだある」
澪の声は、蘭堂へ向けられていた。責めるような響きがあった。
「このまま放置すれば、あと数分で心停止する。あなたにとって、それは困るはずよ」
蘭堂が、律の傍らへしゃがみ込んだ。灰色のコートの裾が、濡れた路面に触れる。
答えるまでに、間があった。
「困ります」
蘭堂は、コートの内側から、小さなケースを取り出した。証拠袋の一本ではなかった。ラベルのない、無地のカートリッジだった。
澪が鋭く眼を上げたが、何も言わなかった。いま言葉を挟めば、律の時間が削られるだけだと分かっていた。
蘭堂は、律のポンプへ手早く接続した。作動音が鳴る。
律の意識の奥で、鈍い圧迫感が生まれた。これまでの偽物にはなかった感覚だった。本物だ、と律は思ったが、それを喜ぶ余裕はなかった。
腕時計が、久しぶりに正直な音で鳴った。
《CORTISOL 6.3》
数字が戻った。だが治療域には遠く届かない、危険な値だった。
「あなたの依頼人は、私が死んでは困るんですね」
律は、掠れた声で言った。
蘭堂は、すぐには答えなかった。律のポンプの表示が安定していくのを、黙って見ている。
「六本、揃わなければ意味がないものがあります」
それだけだった。理由も、謝罪も、その先には続かなかった。
律を生かしているのは、優しさではなかった。ただの、在庫管理だった。数字が戻った安堵より先に、その事実の冷たさの方が、律の胸を刺した。
澪が律を抱え起こしながら、蘭堂を睨んだ。
「それでも、いまは助かった」
律には、その言葉に頷く力すらなかった。生かされている、という事実だけが、重く残った。助けられた安堵と、生かされている恐怖が、同じ胸の中で同時に鳴っていた。二年前、澪に助けを求められなかった自分と、いま蘭堂に生かされている自分が、一瞬だけ重なって見えた。どちらも、自分の意思だけでは立てない身体だった。
黒服が持つ端末が、短く振動した。画面を見た黒服の表情が、わずかに変わる。
「対象B、搬送先で確保失敗の報告。詳細は追って」
蘭堂の眉が、初めてはっきりと動いた。
律は、その一言だけを聞き取った。未明と優真の身に、何かが起きている。
「未明たちは、いまどこに」
律は、絞り出すように訊いた。
「行方が分かりません。搬送担当者との連絡も、途絶えています」
蘭堂は、それ以上を語らなかった。ただ、彼の指先が、無意識に自分の端末の縁を、一度だけ強く押した。律には、それだけで充分だった。何かが、彼の計算からも外れ始めている。
律は、澪に支えられて立ち上がった。数字はまだ戻ったばかりで、脚には力が入らない。それでも、進むしかなかった。
蘭堂が、通りの先を見た。雨に煙る先に、地下へ続く階段の入り口があった。古い案内板に、色褪せた文字で店名の並びが記されている。
「予定を変更します。地下を通ります」
黒服が先に立ち、階段を降り始めた。一段、二段、三段。饐えたような湿気と、蛍光灯の唸る音が上がってくる。いつもなら安っぽく感じるはずのその明かりが、いまはやけに心強く見えた。雨から逃れられる、というだけの理由で。
律は、澪に支えられながら、その明かりへ向けて足を踏み出した。
不意に、先を行く黒服の足が止まった。
階段の下、蛍光灯の白い光の中に、何かが広がっていた。零れた水たまりのようにも見えた。だが、その縁の色が、律の眼にはっきり映った瞬間――
明かりが消えた。
完全な暗闇。
どこかで、女の悲鳴が短く上がり、すぐに途切れた。
「――未明?」
律の声は、暗闇に吸い込まれて消えた。
蘭堂の手が、律の腕を強く掴んだ。これまでのどの瞬間よりも、強い力だった。
「動かないでください」
その声には、初めて、余裕の欠片もなかった。




