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第十八章 御厨

 通路の先で開いた扉から、外気が流れ込んでいた。生ぬるく、排気と埃と、微かな雨の匂いが混じっている。地上に近い。律にはそれが分かったが、身体はその情報を喜ぶだけの余力を持っていなかった。


 腕時計の表示は、まだ七・〇のまま動かない。動かないことが、むしろ律には不安だった。数字は嘘をついたまま、律の脚を支えてはくれない。歩くたびに、床の傾斜が実際より急に感じられる。耳の奥で、自分の脈だけが大きく鳴っていた。壁を伝う指先の感覚は、もうほとんど残っていない。


 通路の先が、緩い上り坂になっていた。コンクリートの床に段差があり、律の爪先がそこへ引っかかる。


 支えにしていた壁から手が離れた瞬間、身体が傾いだ。膝の力が抜ける感覚に遅れて、腹の中で何かが強く引かれる。カテーテルの根元、テープで固定していたはずの位置が、さらにずれた。


 腕時計が、これまでと違う、甲高い音で鳴った。


《FLOW ERROR》


《CORTISOL --.-》


 数字が消えた。回復を装っていた表示ごと、崩れ落ちた。


 律の視界の縁が、急速に黒く狭まる。床が近づいてくる感覚だけがあり、それを止める力は、もうどこにも残っていなかった。


 澪が動いた。尾関のガーゼから手を離さないまま、身体だけを捻って律の腕を掴む。二人分の体重を、細い腕一本で支えることはできない。律は床へ膝をついた。掌に伝わるコンクリートの冷たさだけが、やけに鮮明だった。


 澪の指が、律の手首へ一瞬だけ触れた。脈を数える動きだった。数字は口にしなかった。ただ、眉の角度がわずかに変わっただけだった。


 蘭堂が足を止めた。


「――なるほど」


 声に、これまでと違う響きが混じった。怒りでも失望でもない。予定表から一行が消えたことを、静かに確かめるような響きだった。


「装着したのはカートリッジであって、薬ではなかった、ということですね」


 律は答えなかった。答える力より先に、痛みが戻ってきた。左脇腹の奥から、偽の数字に隠れていた分の低下が、まとめて押し寄せてくる。呼吸のたびに、喉の奥で錆びた味がした。指先から始まった痺れが、いまは肘のあたりまで這い上がっている。


 蘭堂が、律の前へしゃがみ込んだ。目線の高さを合わせるその動作にも、急いだ様子はなかった。


 黒服の一人が持つ通信端末から、ノイズに混じって声が漏れた。


「――だから、個体差の範囲だと言っている。あの子のポンプは、もともと感度が高い」


 聞き覚えのある声だった。穏やかで、急いでいない。診察室で何百回も聞いた声だった。壁も、時計の音も思い出せないのに、その声の抑揚だけは、いつでも正確に再生できる。


 律の意識が、痛みを一瞬忘れた。


「御厨、先生」


 声は止まらなかった。相手が誰に聞かれているか、まだ気づいていない。


「数値はこちらで調整できる。蘭堂さんは、時間だけ稼いでくれればいい。指定ロットの回収さえ済めば――」


 通信が、急に切れた。黒服が、端末を耳から離して確認している。切ったのは、向こう側だった。


 蘭堂は、その端末を一瞥しただけだった。何も言わなかった。言わないことが、もう答えだった。


 律の中で『どちらかは嘘です』というあの通知、それがいま、一本の線でつながった。数字を作れる者は、灰庭の外にもいた。しかも、律が最も信用していた場所にいた。信用と裏切りが、同じ声から同時に出てくるという事実に、律の胸の奥が鈍く軋んだ。悲しむ余裕はなかった。ただ、事実として刻まれた。


 治験の説明をするときの、あの穏やかな抑揚。数値が落ち着かない律に、何度も「大丈夫、想定内です」と告げてきた声。あの言葉のどこまでが、本当に律のためだったのか、いまとなっては判別できない。感情を消せば、誰にも裏切られずに済むと思っていた。だが今夜だけで、その前提そのものが二度、崩れている。蘭堂の前で声を荒らげたときも、いまも。平静でいることは、傷つかないことと同じではなかった。


 澪が律の顔を覗き込んだ。瞳孔、皮膚の色、呼吸の速さを、指と眼だけで確かめていく。


「立って。歩けなくていい、動いて」


 優しさより先に、命令として届く声だった。


 律は膝に手を突いた。腕が震える。もう一度、力を入れる。


 立った。


 黒服たちの間で、短い指示が飛び交った。優真の椅子が、律たちとは別の角の通路へ向きを変える。未明がそれに気づき、声を上げた。


「待てよ、どこ連れてくんだ」


「別経路です」


 答えたのは搬送担当だった。抑揚のない声のまま、椅子を押す速度だけを上げる。


 未明は黒服の手を振り払おうとしたが、力で押さえられ、椅子の後を追う形で、律たちとは違う角へ消えていった。姿が見えなくなる直前、未明は一度だけ振り返った。何かを言おうとした口が、結局、動かなかった。優真の車輪が床の段差で跳ね、金属の音が通路の奥へ吸い込まれていく。


 律は、その音が完全に消えるまで、意識のどこかでずっと追っていた。助けられなかった、とは思わなかった。まだ終わっていない、というだけの感覚が残った。


 残るのは、律、澪、尾関、そして蘭堂だけだった。


 尾関の寝台が、狭い通路の途中で止まっていた。黒服の一人が、その脇を通り過ぎようとした瞬間、尾関の左手がわずかに動いた。腰の後ろに差されていた拳銃へ、指先が伸びる。


 律は、尾関と一瞬だけ眼が合った。何も言葉は交わさなかった。それでも、これから何が起こるかを、律は理解した。


 黒服が気づいて振り向くより早く、銃口は天井へ向いていた。


 乾いた音が、通路いっぱいに反響した。


 埃と破片が降る。黒服たちの意識が、一瞬だけ尾関と天井へ引き寄せられた。


「――行け」


 尾関が言った。声は掠れていたが、初めて、命令ではなく本人の言葉だった。自分の腕の中で誰かを死なせるのを、これ以上増やしたくない。律には、それだけが伝わった。


 澪が律の腕を引いた。二人は、開いた隙間へ向けて走った。走る、というより、倒れる方向を選ぶような動きだった。


 背後で、複数の手が尾関へ伸びる音がした。銃が奪い返される音。何かが倒れる音。呻き声がひとつ、短く上がって、それきり続かなかった。


 澪の足が、一瞬だけもつれた。振り返りかけた身体を、自分の意思で前へ戻す。尾関の名を呼ぶことも、しなかった。それが、いまの澪にできる、ただひとつの手当てだった。


 黒服の一人が、律たちを追って数歩、通路へ踏み出した。


「放っておきなさい」


 蘭堂の声だった。追っていた足が、すぐに止まる。律には、それが助けではなく、計算だと分かった。蘭堂はまだ、律がどこへ向かうかを知っている。


 律は振り返らなかった。振り返れば、脚が止まる。


 前方の角から、別の黒服が駆けてきた。銃声を聞きつけて向かってくる足音だった。澪が律の襟首を掴み、横の狭い資材置き場へ引きずり込む。黒服が二人の脇を、気づかずに走り抜けていった。


 足音が遠ざかるのを待って、二人はさらに奥へ進んだ。角をひとつ折れたところで、今度は澪が急に律を物陰へ引き込んだ。声を出す間もなかった。壁に背をつけ、二人で息を殺す。


 通路の先を、懐中電灯の光が横切った。定期巡回の黒服だった。まだ騒ぎに気づいていない足取りで、光を左右へ振りながら、ゆっくり近づいてくる。


 律の呼吸が、浅く速くなっていく。咳を堪えようとした喉の奥が、逆に強く鳴りそうになった。澪の手が、律の口元を覆う。皮膚に触れる指の冷たさだけが、頭の芯を一瞬だけ現実に引き戻した。


 光が、二人の隠れた壁の手前で止まった。長い数秒だった。やがて光は反対側の通路へ折れ、足音が遠ざかっていく。


 澪が手を離し、小さく息を吐いた。律も同じだけ、遅れて息を吐いた。


 二人が身体を起こしたとき、前方で低いモーター音が唸った。天井から、鋼鉄の防火扉が下り始めている。施設全体が、警察の突破を受けて区画封鎖に入ったのだと、律にも分かった。


「走って」


 澪が律の腕を引いた。扉はすでに、大人の腰の高さまで下りている。金属と金属の擦れる音が、閉じるたびに間隔を狭めていく。


 律は足を踏み出した。一歩ごとに視界が揺れる。扉の下端が、膝の高さまで迫っていた。


 澪が先に身を投げ出すようにして扉の下をくぐり、振り返って律の腕を掴む。律は最後の一歩で膝から崩れ、そのまま扉の下を這うようにして抜けた。


 背中のすぐ後ろで、金属が床へ叩きつけられる音がした。扉は完全に閉じた。振り返っても、いま来た道はもうなかった。


 通路の先に、鉄製の梯子があった。上へ向かって、四段ほど。錆びた手すりが、掌に冷たく食い込む。


 律の脚には、もうその高さを登るだけの力がなかった。澪が下から背中を支える。


「吸わなくていい。吐きながら、腕だけ動かして」


律は歯を食いしばり、一段ずつ身体を持ち上げた。


 視界が狭窄していく。指先の感覚がほとんどない。二段目で、右手の握りが甘くなり、身体が一瞬、後ろへ流れかけた。


「離すな」


 澪の声が、下から鋭く飛んだ。律は指の一本ずつに力を戻し、三段目へ足をかけた。遠くでサイレンの音が聞こえた。近い。だが、届く距離ではなかった。


 梯子を上りきると、そこは搬入用の通路だった。天井が高く、シャッターの隙間から、赤と青の光が壁を撫でている。警察の車両の光だった。光は規則正しく明滅し、律の視界の中で唯一、はっきりした輪郭を保っていた。


 律は、その光に向かって足を踏み出そうとした。声を出そうとしたが、喉が掠れて音にならない。


 叫べば、届くかもしれない。だが、いま自分ひとりが確保されても、未明と優真がどこへ運ばれたかは分からないままになる。証拠袋の薬も、御厨の関与も、蘭堂の手の中にある限り、書類の外へは出ない。律は、その計算だけを最後の力で組み立て、光へ向かう足を、自分から止めた。


 澪が、律の腕を強く引いて止めた。


 シャッターの手前に、灰色のコートがあった。


 蘭堂は、急いだ形跡もなく、そこに立っていた。手には、証拠袋の入った保冷ケースがある。背後に停まっている黒い車の存在が、律にもようやく見えた。


「今夜、私が読み間違えたのは、これで一度目です」


 声には、これまでの余裕とは違う、わずかな硬さがあった。負けを認めているわけではない。ただ、想定外を数えている声だった。


「久世さん。歩けるところまでで結構です。あとは車が迎えに来ます」


「尾関さんは」


 律は、掠れた声を絞り出した。


「業務上の処理をします」


 蘭堂の答えは短く、それ以上の情報を与えなかった。生死のどちらとも、律には読み取れない答え方だった。


「御厨は、あなたの依頼人ですか」


「いいえ」


 蘭堂は、間を置かずに否定した。


「取引先のひとつです。今夜だけの相手ではありません。それ以上は、久世さんが知る必要のないことです」


 律は、蘭堂の後ろに続く暗がりを見た。優真たちが消えた方角とは、別の方向だった。黒い車のヘッドライトが、雨に濡れ始めたアスファルトへ、二本の白い筋を落としている。行き先を示す表示は、どこにもなかった。


 選べる道はなかった。律の脚は、もう自分の意思だけでは動かない。シャッターの向こうの光まで、あと十数メートル。届かない距離として、律の中に刻まれた。


 蘭堂が、車の後部座席のドアへ手をかけた。


「次は、西口の方まで移動していただきます」


 その一言だけを残し、蘭堂は乗り込んだ。律には、行き先の意味を考える余力すら、もう残っていなかった。


 シャッターの外で、雨が降り始めていた。屋根を叩く音が、少しずつ強くなっていく。


 黒服が、律の身体を支えて後部座席へ押し込んだ。座面に身体が沈んだ瞬間、張り詰めていた力が一気に抜け、律は喉の奥で小さく呻いた。澪が隣に乗り込み、すぐに律の首筋へ指を当てる。数字は口にしなかった。ただ、表情を変えなかった。


 律は、動かない腕時計を見た。数字のない自分の身体が、いま初めて、正直に感じられた。数字がなければ、自分がどれだけ持つのか、律自身にも分からない。


 分かったことがひとつ増え、分からないことはそれ以上に増えた。御厨の声は本物だった。だが、蘭堂との力関係も、優真たちの行方も、いまはまだ律の手の届かないところにある。


 ドアが閉まる音がした。車が動き出す。窓の外で、シャッターと黒い建物の輪郭が、雨に滲みながら後ろへ流れていった。

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