第十七章 二本目
蘭堂は、新しいカートリッジを持ち上げたまま、律の反応を待たなかった。
「今回のものは、私が久世さんへ直接差し出す、二本目です」
律は、その言い方に引っかかった。今夜、律の身体を通り過ぎたカートリッジは、もう何本目か数える余裕さえなかった。頭の奥の霧が、単純な足し算さえ濁らせている。数えることに意味があるとすれば、それは本数ではなく、そのたびに何を差し出させられたかの方だった。
「あの夜、私が一度お返しした一本と区別するための言い方だとお考えください」
蘭堂は続けた。
「あれは、久世さんを生かして観察を続けるためのものでした。今回は、先ほどの回答に対する、次の工程です」
「薬を与える、とは言わないんですね」
「ええ」
蘭堂の声に、揺れはなかった。
「差し上げるのは、久世さんご自身が選んで、使ったという記録です」
律の身体は、まだ二年前の告白を吐き出した直後の重さを引きずっていた。声を出すたびに、腹の底が軋む。感情を出したことの代償を払う時間さえ与えられないまま、次の条件が積まれていく。
搬送担当の端末で、光が短く点滅した。優真の椅子の脇では、探査カメラの光が通路の奥へさらに伸びている。壁の向こうから、位置を測る音が二度、間を詰めて響いた。近い。
「久世さんが使用と反応確認へ応じているあいだだけ、弟さんの搬送判断は保留のままにします。拒否、または故意の遅延と判断された時点で、搬送担当は弟さんを連れて退出します」
拒めば、優真は即座に運び出される。律にはそれが分かった。
「分かりました」
律は、カートリッジへ手を伸ばす前に言った。
「使う前に、封とラベルと底面を、確認させてください」
蘭堂は止めなかった。むしろ、記録の体裁としては望ましいというように、わずかに顎を引いた。
律は受け取った一本を、指先で回した。視界の端がまだ二重に揺れている。ラベルの文字は読めるのに、輪郭がすぐには結ばれない。指先も、思うほど繊細には動かなかった。爪の先で封の縁をなぞる動作だけで、いつもの何倍もの時間がかかる。
台へ置かれたときの音を、律は覚えていた。正規の一本より、ほんのわずかに軽い。転がりが止まる位置も、記憶にある重心と少し違う。だが、それだけでは何も証明できない。音は検査を始める理由にはなっても、断定の材料にはならなかった。
律は顔を上げた。
「蘭堂さん。私が選んで使った記録にするなら、識別番号も残してください」
蘭堂は一拍だけ間を置いた。
「時間を稼ぐおつもりでしたら、無駄です。ですが、記録の完成度としては、あった方が望ましい」
律が時間を稼ごうとしていることを承知のうえで、それでも本人使用の記録を完成させるためには、応じないわけにいかない立場だった。蘭堂自身の原則が、律に小さな隙を与えていた。
携帯読取機がカートリッジの底へ近づく。小さな読み取り音のあと、画面に文字が並んだ。
《登録 久世律用 正規品》
律は、その画面をもう一度見せてほしいと頼んだ。低値で読めない、というふりを続けながら、ラベルの端にごくわずかな段差があることを確かめる。段差の下に、別の患者番号がうっすら透けていた。
律は、蘭堂のタブレットへ視線を移した。証拠袋側の回収番号として保存されていた固有識別番号の末尾ブロックが、いま読み取った番号と、同じだった。
同じ固有番号を持つ現物が、同じ部屋に二本ある。証拠袋の一本は、警察の撮影と封緘記録が残っている。ならば、いま手にしているこちらが、複製された方だった。
律は何も言わなかった。声にすれば、それは蘭堂へ渡す情報になる。眼を伏せ、確認に時間がかかった理由だけを、低値の症状へ紛れ込ませた。指先が震えているのは演技ではなく、そのまま使えた。
腕時計が震えた。
《CORTISOL 6.4》
1時17分。
脚の反応が、また一段遅れる。壁の継ぎ目を叩く音が、間を置かずに三度続いた。
「対象B、呼名反応、さらに遅延」
搬送担当が言った。感情のない声だったが、言葉自体が優真の状態を表していた。
未明が、脅す代わりに言った。
「いまの時間、記録に残せ。呼吸の間隔、延びてるって」
「当方は医療判断を行いません」
それでも男の指は動き、観察事実だけを端末へ入力していく。数字と時刻だけが増えていき、判断だけが誰の手にも残らなかった。
尾関のガーゼへ、新しい赤が広がった。澪が体重を掛け直す。呼びかけへの反応はもう戻らない。閉じかけていた尾関の瞼が、開いたまま止まっている時間の方が長くなっていた。
尾関の唇が、二度動いた。声にはならなかった。何かを言おうとした形だけが残り、息だけが漏れる。澪はその口元を見たが、聞き取れなかったと判断し、圧迫の力を緩めなかった。
「蘭堂さん」
澪が顔を上げずに言った。
「この人も、この子も、いまの状態で搬送に耐えられない」
処置の手は、止まらなかった。声だけが、蘭堂の方へ飛んでいく。
「規定項目は満たしています」
蘭堂の答えは、以前と同じだった。律には、その繰り返し自体が、灰庭の恐ろしさに見えた。同じ言葉を使い続けられる限り、状況がどれだけ変わっても、責任の所在は動かない。
「規定項目が、この子を歩かせるわけじゃない」
澪が言い返した。声を荒らげてはいなかったが、圧迫する指先には、はっきりと力がこもっていた。蘭堂は、その言葉には答えなかった。答える必要がない、というだけの沈黙だった。
律は、拒めば優真がすぐに連れて行かれ、蘭堂が別の手段へ切り替えるだけだと分かっていた。目的はもう、自分が助かることではない。偽物を使ったと信じさせ、警察が届くまでの時間を作ることだった。
腕時計が震えた。
《CORTISOL 6.2》
1時20分。
律は顔を上げた。
「使います」
蘭堂が黒服へ眼で合図しかけたのを、律は止めた。
「自分で装着させてください。他人がやれば、自分で選んで使った記録にはならない」
蘭堂は、その理屈を否定しなかった。記録の体裁を守るため、黒服が律の両手を自由にする。
律はシャツの内側へ手を入れた。澪が留めた皮下カテーテルの固定テープの端を、指先で探る。感覚は鈍く、一度で剥がせず、二度目でようやく端が浮いた。完璧な手際ではなかった。テープの粘着が指先に絡み、剥がす動作が、蘭堂の視線からは装着の準備にしか見えないことだけを、律は祈った。
未明が、律の手元の動きに一瞬眼を留めた。何かに気づきかけた顔をしたが、口には出さず、優真の呼吸を数える声へ切り替えて、蘭堂の注意をそちらへ引いた。
「優真、いま何回目だ。数えてるからな」
弟の名を呼ぶ声は、律を庇うためではなかった。ただ、自分がもう一度、誰かに選ばせずに助ける側へ回らないための、未明なりのやり方だった。
澪も、律の意図を推測したはずだった。それでも名を呼ばず、尾関の処置を続けたままでいた。手の動きだけが、いつもよりわずかに慎重になっていた。恋人だった頃の呼吸ではなく、患者を見る看護師の呼吸に戻っている。律には、その違いだけがはっきり分かった。
腕時計が震えた。
《CORTISOL 6.0》
1時23分。
発語も、手指の操作も、限界に近い。律はカテーテルの先端を皮膚の外へ逃がし、その状態のまま、偽物のカートリッジをポンプへ収めた。蓋の閉まる音が、いつもと同じ高さで鳴った。
腕時計に、新しい表示が浮かぶ。
《CARTRIDGE 89 MIN》
《DOSE RISING》
ポンプの作動音は正常だった。だが皮下に来るはずの、あの鈍い圧迫感がない。液体は体内へ入らず、テープの内側へ静かに滲んでいる。皮膚の上を、冷たい湿りがゆっくり広がっていくのが分かった。
動いたのはポンプであって、律の身体ではなかった。
流量の異常は、装着と同時には検知されない。だが何度か作動を重ねれば、いずれ`FLOW ERROR`が出る。律はそれを承知していた。いま買えるのは、警察が届くまでの、ほんの数分だけだった。
律は、長く息を吐いた。姿勢を立て直し、声の遅れを減らす。回復し始めた人間が最初にする程度の、小さな変化だけを見せる。第十六章まで自分を守るために使っていた平静を、いまは他人のために使っていた。
蘭堂が、画面と律の顔を交互に見た。
「では、その間に確認しましょう」
その声からは、疑いも確信も読み取れなかった。ただ、次の工程へ移る前の、業務上の一拍があるだけだった。
腕時計が震えた。表示は下げ止まり、上がり始めた。
《CORTISOL 6.5》
1時25分。
薬は入っていない。それなのに、数字だけが上がっていく。律の視界は狭いままで、冷汗も左脇腹の痛みも、脚の遅れも、少しも軽くならなかった。表示と身体が、律の意図によって、初めてはっきり切り離された。
澪が、離れた位置から律を見た。顔色も、呼吸も、立ち方も、数字の指す回復とは合っていない。それでも澪は指摘しなかった。
「低値から戻るときは、表示より反応の方が遅れるから」
澪は蘭堂へ向けて言った。律のためではなく、事実として。声の温度は変えなかった。
未明も、律が治っていないと分かっているはずだった。それでも「効いてない」とは叫ばなかった。ガーゼの上から弟の胸元を見つめたまま、口をつぐんでいる。
蘭堂は完全には信じていない。律の身体を見る眼が、まだ残っていた。だが、警察の対応を先延ばしにする余裕は、蘭堂の側にもなかった。
律は、偽物を作った者とは別に、ポンプか表示そのものへ、正規の医療権限で触れられる誰かがいるのかもしれないと考え始めた。まだ名前までは結びつかない。ただ、数字が独りでに動いたのではなく、動かした誰かがいるという感触だけが、頭の奥に残った。あの穏やかな声を思い出しかけて、律はその先を打ち切った。いまはまだ、疑いを言葉にする段階ではない。
壁の向こうから、直接の呼びかけと足音が届いた。
「開けろ、中に人がいるのは分かってる」
鈍い衝撃音がひとつ響き、天井の照明が細かく揺れた。埃が一筋、光の中を落ちていく。壁の一部が内側へわずかに撓み、継ぎ目から白い光が線になって差し込んだ。
外側の監視映像が、途中で途切れた。室内の職員が、記録端末と保冷搬送箱を同時に動かし始める。誰も走らなかった。それが、かえって室内の緊張を際立たせていた。
蘭堂は、搬送担当の端末を一瞥した。
《引渡確認 保留》の文字が消え、
《搬送工程 再開》
に変わった。解放でも保護でもない。ただ、優真が業務用通路から運び出されるだけだった。
「優真」
未明が椅子へ駆け寄ろうとした。黒服がその肩を押さえる。振り切ることはできなかったが、未明は同じ通路へ、自分から進んだ。監視は消えていない。それでも、離れるよりましだった。
尾関は自力で歩けない。処置用の寝台ごと動かされ、澪はガーゼを押さえたまま、その脇へついていくしかなかった。車輪が床の段差に引っかかり、金属の低い音を立てる。
蘭堂がステンレス台の拳銃を回収した。尾関へは返さなかった。証拠袋の入った保冷箱も、黒服の手で運ばれていく。灰色のコートの裾が、通路の照明で一瞬だけ白く見えた。
偽物だけが、律のポンプに残った。
保冷庫のコンプレッサーが、ひとつ、また止まった。処置室の照明が落とされ、拘束帯付きの寝台と証拠品の並んでいた棚だけが、暗がりに残される。ここで起きたことを知る者は、これから運び出される人間たちと、灰色のコートの男だけだった。
「久世さんも、こちらへ」
蘭堂が言った。
律は、壁際に手をついたまま、足を踏み出した。表示上の回復に合わせ、自力で歩けるふりを続ける。実際には、足の裏の感覚がほとんどなく、視野もさらに狭まっていて、壁へ触れていなければ、進む方向さえ保てなかった。
狭い業務用通路を、一行が進む。背後で、扉を叩く音と、警察の声が重なった。壁一枚の向こうに、確保されるはずだった場所がある。律には、それが分かっていて届かない距離として感じられた。
未明が一度だけ振り返った。優真の椅子を押す黒服の背中越しに、律と眼が合う。何も言わなかった。ただ、律がまだ立っていることだけを確かめるような眼だった。
偽物の残量表示は、律が動くたびに減っていく。システムの上では、投与はまだ続いている。
腕時計が最後に震えた。
《CORTISOL 7.0》
1時27分。
律は、自分が何も入れていないことを知っていた。だから、この上昇は、身体が出した答えではない。
蘭堂が数字を見て、わずかに眼を細めた。
「反応が出ましたね」
その声には、満足も安堵もなかった。ただ、律の身体そのものへ向けられた視線だけが、そこに残っていた。
通路の先で、扉が開く音がした。冷たい外気が、狭い空間へ流れ込んでくる。律は壁から手を離さないまま、その先へ足を踏み出した。腕時計の数字は、まだ上がったままだった。
回復したのは、律ではない。
腕時計の数字だけだった。




