第十六章 解剖
止まったのは、律の呼吸だった。
蘭堂の問いは、大きな声ではなかった。だからこそ、律の身体は罠だと認識するより先に竦んだ。四秒吸って六秒吐く。ポンプが生きていた頃から数えきれないほど繰り返してきた呼吸法を、身体はまだ覚えているはずだった。それなのに、最初の四秒に届かないまま、喉の途中で息が止まる。肋骨の裏側だけが、速く浅く波打っていた。
蘭堂は繰り返さなかった。
一度差し出した問いを、もう一度差し出すような真似はしない。律が黙っているという事実そのものを、記録すべき答えとして受け取っているように、灰色のコートの襟も、視線の角度も動かさずに立っている。
澪は顔を上げなかった。尾関の左脇腹を押さえる指の位置を、わずかにずらしただけだった。律を見れば何かを言ってしまう。それを知っていて見ないようにしているのが、律にも分かった。
搬送椅子の上で、優真の喉がまた上下する。細いカニューレの先で、息の音が小さく鳴った。天井の向こうから、防火シャッターの継ぎ目を叩く工具の音が、さっきより近い間隔で二度、落ちてくる。近い。
律は蘭堂へ視線を戻そうとした。焦点が半瞬遅れる。輪郭が二重になり、戻るまでに瞬きが一度多く要った。
「答えなくていい、という意味ではありません」
蘭堂が言った。
「久世さんが、答えを選ぶまでの時間そのものを、こちらは見ています」
律は喉に力を入れた。声より先に、息を整えることが要る。四秒。届かない。もう一度。今度は三秒で止まり、それでも構わず声にした。
「……二年前、私は」
声が掠れた。
「篠宮さんの前で、もう一度倒れることが怖かった。自分の身体の管理を、彼女に背負わせたくなかった」
言った端から、その言葉の輪郭に見覚えがあることに、律自身が気づいた。何度も内側で磨いてきた説明だった。人に話すたび角が取れて、いまでは自分の口からも滑らかに出てくる。ふだんなら、条件を切り分け、損失を数えれば、たいていの状況は見える形になった。だが自分自身へ同じやり方を向けても、輪郭はいっこうにはっきりしない。
蘭堂の眼が、初めてわずかに細くなった。
「それは、久世さんがすでに安全な形へ整理された説明ですね」
「……違うとは言いません」
「負担になるかどうかを決める権利は、篠宮さんにあった。久世さんではなく」
澪の指先が止まった。一瞬だけだった。すぐにまた圧迫の力へ戻る。
「蘭堂さん」
澪が初めて口を挟んだ。蘭堂へではなく、律の方も見ないまま、律へ向けて言った。
「私に選ばせなかったのは、事実よ」
律は答えられなかった。
守る、という言葉が、律のなかで意味を変えていく。誰かを守るために選んだはずの行為が、その相手から選ぶ機会そのものを取り上げていたのだと、いまさら輪郭を持ち始めた。
上階の工具音が止み、代わりに低い振動が壁を伝った。搬送担当の端末が短く鳴る。
「対象B、呼名反応の低下を確認」
男が抑揚のない声で言った。
「搬送判断の再確認を要請します」
蘭堂の眼が、初めて律から離れた。しかし戻るまでの間は短い。
「久世さんが、自発的に答えている間だけ、保留を維持します」
その一言で、律は自分がすでに人質として差し出されていたことに気づいた。優真の呼吸そのものが、律の沈黙を許さない仕組みへ組み込まれている。
未明が、包帯の右手を胸へ抱えたまま、律を見た。
「あんた……」
言いかけて、止まる。ガーゼの端に、新しい血が一滴だけ滲んだ。
「自分を使うって決めたからって、何でも許されるわけじゃないから」
怒鳴りではなかった。むしろ、自分自身へ言い聞かせているような声だった。優真のために律を差し出した自分と、優真のためにいま自分を差し出そうとしている律とが、未明のなかで同じ線の上に重なったのだと、律にも見えた。許すための言葉ではない。それでも、未明がその重なりに気づいたこと自体が、律の胸の奥を静かに押した。
腕時計が短く震えた。
《CORTISOL 7.0》
1時06分。
言葉が、思ったところに届かない。足の裏に力を入れても、床を踏んでいる感覚が薄い。
蘭堂は律の腕時計を一瞥した。それから、質問を変えるでもなく、同じ角度から続けた。
「『大丈夫』という言葉を、久世さんは篠宮さんへ何度も使いましたね」
「……はい」
「あれは、篠宮さんを安心させるための言葉でしたか。それとも」
蘭堂は言葉を切った。
「それ以上、踏み込ませないための言葉でしたか」
律は答えなかった。答える代わりに、二年前の消毒液の匂いと、澪の手の温度だけが、断片として蘇った。あの部屋の壁の色も、時計の音も思い出せないのに、その二つだけは輪郭を保っている。
「篠宮さんは、久世さんにとって二つの意味を持っていたはずです」
蘭堂の声は変わらず穏やかだった。
「発作を起こさせる危険因子。同時に、倒れたときに久世さんを救える、唯一の安全装置」
律の耳の奥で、何かが低く鳴った。
「その矛盾を処理できなかったから、久世さんは篠宮さん本人を、生活から切り離した」
「――違う」
自分の声が、思ったより大きく出たことに、律は遅れて気づいた。
「澪は、装置じゃない」
蘭堂は驚かなかった。むしろ待っていたものが来たというように、わずかに顎を引いた。声の乱れを指摘することもしない。ただ、感情が出たという事実だけを、静かに受け取っている。
律の呼吸法が崩れた。四秒どころか、吸うことさえ間に合わない。左脇腹の奥が、鈍く重く疼く。視界の端が暗く狭まり、蘭堂の輪郭がまた二重になった。踏み出そうとした足が、身体より半歩遅れる。
澪は律を見なかった。慰めもしなかった。処置の手を止めないまま、律の次の言葉を、ただ待っている。
律は一度、眼を閉じた。開けたとき、視界は完全には戻らなかった。
「怖かったのは……澪の前で倒れることじゃない」
言葉を選ぶ余裕は、もうなかった。
「澪がいないと生きられない自分を、受け入れられなかった。澪の判断ひとつで、自分の生死が決まる。それに耐えられなかった」
律は続けた。止めれば、二度と出せない気がした。
「感情を動かす相手と、発作のとき自分を救える相手が、同じ人間だったから……『負担をかけたくない』って言えば、逃げたことを、正しい判断みたいに扱えた。最初に守ったのは、澪じゃない。自分だった」
澪の手は動かなかった。
蘭堂が、静かに口を開いた。
「では、篠宮さんへの想いは、最初から自分を守るための道具だったと」
「本物です」
律は即座に返した。
「自分を守ったことと、澪を大切に思っていたことは、両方本当です。あなたの言うような、綺麗な二択じゃない」
律は、その両方を抱えたまま、澪の選ぶ権利を奪った。それが結果だった。正当化はしない。だが、その意味を蘭堂に決めさせることも、しなかった。
澪は許さなかった。何も言わず、尾関のガーゼを新しいものへ替える。手の動きだけが、律の言葉を受け取ったことの、唯一の返事だった。
腕時計が震えた。
《CORTISOL 6.8》
1時10分。
尾関のガーゼへ、赤黒い血が新しく広がった。呼びかけへの反応が、明らかに鈍くなっている。澪の意識が、律から尾関へ完全に切り替わった。
「尾関さん」
返事はなかった。尾関の瞼が、開き続けられずに落ちる。
優真の顎が、力なく落ちた。呼吸の間隔が、さっきより長い。
「優真」
未明が身を屈め、包帯の手で弟の頬に触れようとして、途中で止めた。代わりに、澪が教えた呼吸を、そのまま口にする。
「吸わなくていい。吐くだけでいい」
優真の胸が、遅れて一度だけ持ち上がった。
未明が搬送担当の男へ叫んだ。
「いまの、記録に残せ。呼吸、遅くなってる」
「当方は医療判断を行いません」
男は端末から眼を離さずに答えた。それでも指は動き、蘭堂へ向けて何かを送っている。
「搬送判断の再定義を要請」
尾関の拳銃は、ステンレス台の上から動いていない。
監視映像のなかで、壁の継ぎ目に小さな光の点が現れた。探査用のカメラが、隙間の奥へ差し込まれている。黒服のひとりが画面を覗き込み、別のひとりへ手で合図した。
律は、台の縁へ手をついた。支えがなければ、立っている姿勢そのものが崩れる。腕時計が震えた。
《CORTISOL 6.7》
1時12分。
灰庭側のモニターが、その映像を捉えていた。搬送担当の端末に、新しい表示が浮かぶ。
《応答記録 受領》
《引渡確認 再判定》
保留は、解放へ進まなかった。
律は、自分がいま口にしたことの意味を、遅れて理解した。優真を救うための対価ではなかった。灰庭にとっては、律の告白もまた、処理し、記録し、値段をつけるべき一件の商品にすぎない。自分の恐怖の輪郭を、ようやく自分の言葉で描けたと思った矢先に、それは端末の中で別の欄へ移されていた。
蘭堂が、律へ向き直った。
「充分です」
その声には、勝ち誇る響きも、労う響きもなかった。ただ、必要な作業が終わったという事実だけがあった。
「では、次の条件へ移りましょう」
蘭堂は、証拠袋の入った保冷庫へは触れなかった。代わりに、その奥にある別の保冷区画から、新しいカートリッジを一本取り出す。
ステンレス台へ置かれた音は、これまでの薬剤と変わらないはずだった。ラベルの印字、封の位置、薬液がわずかに揺れる動き。そのどれもが、正規の一本と同じに見えた。
律だけが、その音のどこかに、ほんの小さな違和感を覚えた。何が違うのか、言葉にする前に、蘭堂の声が割り込んだ。
「久世さん。二年前の答えは、篠宮さんへ何も返しません。あなたが認めた事実は、あなたのものです」
律は、その言葉に何も返せなかった。返す力も、いまはもう残っていなかった。
壁の奥から届く探査光の範囲が、初めてはっきりとした空洞の輪郭を映し出す。人が通れるほどの通路が、灰庭の業務区画の裏側へ続いていた。
腕時計が最後に震えた。
《CORTISOL 6.6》
1時14分。
蘭堂は、新しいカートリッジをそっと持ち上げた。
「では、次は二本目です」




