第十五章 弟
言葉が落ちたあとも、律は未明を見なかった。
見れば、何かを決めてしまう気がした。責めるのか、理由を聞くのか。それとも、彼女がそこまでして救おうとした相手を思い浮かべてしまうのか。
どれも、いま決めるには遅すぎた。
澪の両手の下で、血を吸ったガーゼが湿った音を立てている。部屋の奥では薬剤保冷庫のコンプレッサーが低く唸り、ガラス扉の向こうには未開封の警察証拠袋が白く浮かんでいた。切り離された発信器と開封検知タグは、隣の遮蔽箱に入ったままだ。さらに上から、一定の間隔で金属を削る振動が落ちてくる。警察が防火シャッターを切っている音だった。
律は、契約内容を表示した灰庭危機管理のタブレットへ眼を落とした。
《履行条件 久世律/選択薬剤一本の引き渡し》
《対価 三枝優真の解放》
《状態 受領済》
その右下で、時刻が変わった。
0時47分。
腕時計には、別の数字が出ている。
《CORTISOL 7.7》
指先はとうに冷え切っていた。左脇腹の奥にある鈍痛は、呼吸のたび、硬い異物を押し込まれるように深くなっていく。額を伝った汗が睫毛に触れても、律は瞬きをするまでに一拍を要した。
「五分です」蘭堂が静かに告げた。灰色のコートの袖口から覗く腕時計を、わざわざ見せるような真似はしなかった。ただ約束の時刻が来たという事実だけを、ホテルの延長料金でも知らせるように差し出した。
「聞こえなかった?」澪は顔も上げなかった。尾関の背中側から左脇腹へ抜けた銃創へ体重をかけながら、赤黒くなったガーゼの上へさらに新しい一枚を重ねていく。
「この人の身体には、あなたと交わした契約なんて流れてない。五分で血が止まるわけないでしょう」
「承知しています。以降は篠宮さんご自身の判断です」
「最初から私の判断よ」
蘭堂はそれ以上、澪へ答えなかった。
律はようやく顔を上げた。未明の頬はいつもより白く、乾いた汗の筋が一本残っている。右手は厚いガーゼに覆われ、胸の前で不自然に浮いていた。左手首には切られた結束帯が残り、短い樹脂の端が、彼女の震えに合わせて揺れている。
「未明さん」
呼びかけられた未明の眼が、律の胸元ではなく腰のポンプへ向く。カートリッジのない空の装着部を見てから、すぐに逸れていった。
「優真くんに、何があったんですか」
「……聞いてたろ。薬が効きすぎたんだよ」
「何を見せられたんですか」
未明の唇が動きかけ、止まった。
上階から、ひときわ長い切削音が響き、天井の照明をわずかに震わせる。その白い光の下で、尾関の頬だけが土気色にくすんで見えた。
「画面だよ」未明は吐き捨てるように言った。
「奥の部屋の。優真が椅子に縛られてて、呼んでも眼ぇ開けなくて……途中から、胸が動かなくなった。周りの奴らは数字だけ見てた。尾関が入ってきて、運ぶなって止めたら、やっと息が戻った。それでも、次の搬出までに承認しろって」
右手を庇っているせいで、未明の肩は片方だけ上がっている。口調は荒いままだったが、最後の数語だけは喉の奥で擦れて、ほとんど声にならなかった。
「だから、律を渡したの?」尾関の身体から眼を離さないまま、澪がその問いだけを未明へ投げた。
「あんたに訊いてねえよ」
「私も訊いてない。確認してるの。未明ちゃんが、何をしたのか」
未明の顔から、一瞬だけ凶悪な色が消えた。だが、すぐに歯を食いしばりながら、律へ向き直る。
「あんたなら、一本なくてもすぐには死なないと思った。ずっとそうだったろ。殴られても、薬が漏れても、数値が落ちても、まだ動いてた。優真は息もできなくて、自分じゃ何も選べなかった。だったら――」
「勝手に、助かる側へ置かないで」澪の声が、未明の言葉を切った。
押さえている手は動かない。怒りが力に変わってしまえば尾関を傷つけると分かっているからこそ、指の一本まで制御しているように見えた。
「律は平気な顔をしているだけ。ポンプは空で、もう治療域を下回ってる。優真くんの呼吸が止まったのも事実、律がここで死ぬ可能性があるのも事実よ。どちらかが助かる選択をしたんじゃない。未明ちゃんは、助かるかもしれない一人のために、もう一人を差し出したの」
「分かってるよ!」
未明の叫びに、搬送台の金属器具が微かに鳴った。
しかし、その先は続かなかった。右手を握ろうとして傷へ力がかかったのか、顔を歪めながら、厚いガーゼを左手で抱え込んでいく。白い表面の一部に、遅れて赤が滲んだ。
律は未明から眼を逸らさなかった。
「私が生きられると、未明さんが決めたんですね」
「……そうだよ」
「私には訊かずに」
未明は答えなかった。
それで充分だった。
タブレットから短い電子音が鳴り、表示時刻が0時50分に変わる。契約の下へ、新しい行が追加されていく。
《対価 履行処理中》
《引渡確認 待機》
律はその文字を二度読んだ。視界の端が暗く狭まり、焦点を結ぶまでに時間がかかったわけではない。ただ、意味があまりに狭かった。
「蘭堂さん。《受領済》は、優真くんを解放したという意味ではありませんね」
「はい」蘭堂はすぐに認めた。
「当方が久世さんと選択薬剤一本を受領した、という意味です。三枝さんへの対価は現在、履行手続きに入っています」
「手続きって、何だよ」
未明の声に、先ほどまでの勢いはなかった。
「弟さんを当方の直接管理から外し、指定された搬送事業者へ引き渡します。拘束は解除されますので、契約上の『解放』は、その時点で完了します」
「どこへ運ぶ」
「それは別の契約です」蘭堂は丁寧に答えた。
「三枝さんが承認された契約には、帰宅、目的地の指定、ご家族の同行、治療の継続は含まれていません」
「それのどこが解放だよ」
「日常語としてのお話でしたら、三枝さんのおっしゃるとおりです」
黒い扉の向こうで、錠の外れる重い音がした。
「ですが、契約語としては異なります」
扉が内側へ開いた。
腕時計が短く震えた。
《CORTISOL 7.5》
0時52分。
最初に入ってきたのは、紺色の上着を着た男だった。胸には《K-TRANS》と印刷された社名章があり、その下に顔写真入りのIDを下げている。手にしているのは拳銃でも警棒でもなく、薄い端末と透明な書類ケースだった。
男の後ろから、背もたれを深く倒した搬送椅子が押し出されてくる。消毒液の匂いがかすかに漂った。
薄い毛布の下にいたのは、帳票に並んでいた《対象B》ではない。顔を確かめるより先に、律の眼は呼吸を探していた。
三枝優真の鎖骨の下が、浅く持ち上がっては止まる。律が無意識に数えかけたところで、もう一度だけ上がった。鼻には細いカニューレが入り、首は右へ傾ぎ、半分開いた唇の端には、乾いた唾液が白く残っていた。
眼は閉じていた。
「優真!」未明が走り出した。
「未明!」律の声に、彼女の足が一瞬だけ止まった。その前へ搬送担当の男が手を出す。殴るためではなく、病院の廊下で家族を制止するときの、掌を見せる穏やかな動作だった。
「受け渡し確認前です。接触はお待ちください」
「そいつに触ってんのは誰だよ」
「搬送補助です」男は端末から眼を上げなかった。血の臭いがこもった地下室でも、質問された項目だけに答えれば仕事が終わると教え込まれているようだった。
「対象B、入室確認」蘭堂が業務用の呼称を使う。未明の眼が鋭く向いたためか、ほんの少し間を置いて言い直した。
「三枝さん。弟さんの状態をご確認ください」
搬送担当が椅子の側面へ端末を近づけると、小さな読み取り音のあと、画面へ整然とした文字が並んでいく。
《取扱区分 保護移送》
《本人同意 確認済》
《家族引渡承認 確認済》
《家族連絡 不要》
《請求区分 夜間搬送補助》
最下段には三つの企業コードが並んでいた。搬送、同意記録の保全、夜間警備。どれも別の番号を持ち、どの欄にも誘拐、鎮静、銃創という文字はない。
この男が警察に止められても、説明するのは簡単だった。本人の同意は確認済みで、家族の承認もあり、夜間に保護対象を搬送していた。それだけで、男自身が知っている事実には嘘がなくなる。
暴力は、書類へ移された瞬間に仕事へ変わる。
「家族引渡承認って、何だよ」
未明の左手首で、切れた結束帯が揺れた。
「あたしは、こんなのに判を押してない」
「音声と左拇印による承認が登録されています」蘭堂の眼が、未明の左手へ向く。
「履行条件と対価を読み上げたうえで、ご承認いただきました」
「優真を別の奴らに渡していいなんて言ってねえ!」
「契約の対価は、弟さんの解放です。先ほどご説明したとおり、当方からの解放には引き渡しが必要です」
円が閉じていた。
未明が律と薬を売った承認は、優真を救うためのものだった。その同じ承認が、優真を家族から切り離す許可へと変わっている。新しい署名は要らない。灰庭は、一度与えられた声と指紋を、意味だけ変えて使っていた。
搬送担当がプリンターの細い紙を切ると、乾いた音がした。
「優真くん」尾関の傷を押さえたまま、身体を動かさずに、澪が声だけを搬送椅子へ届ける。
「聞こえる? 眼を開けなくていいから、息をゆっくり吐いて。吸おうとしなくていい。吐けば入ってくるから」
優真の喉が上下した。
返事はない。
未明が男の腕越しに、弟の顔を覗き込んだ。右手を伸ばしかけては、ガーゼの厚みを見て左手へ替える。だが、その左手も途中で止まった。自分の拇印が何を承認したことになっているのか、まだ画面に残っていたからかもしれない。
「優真。あたしだ。分かるか」
優真の瞼が微かに震えた。
眼が開くまでに、上階から二度、金属を叩く音がした。
焦点の合わない眼球が天井を滑り、搬送担当の紺色の肩を越え、ようやく未明の位置で止まった。
「……姉ちゃん」
未明の顔が崩れかけた。
だが、彼女は笑わなかった。泣きもしなかった。唇の端を無理に引き上げながら、喧嘩を売るときと同じ顔を作っていく。
「遅えよ。何回呼ばせんだ、馬鹿」
優真は返事をせず、姉の右手を見た。
厚いガーゼの一部に滲んだ赤へ、眼が留まる。指を動かそうとしたのか、毛布の縁がわずかに波打ったが、手は外へ出てこなかった。
「姉ちゃん」
一度、呼吸が途切れた。
「俺……帰れるのか」
未明が口を開いた。
答えが出る前に、保冷庫のコンプレッサーが止まった。部屋が静かになり、未明の浅い息だけが残る。
「帰るに決まってんだろ。こんなとこ、さっさと――」
「その回答は、契約内容を超えています」蘭堂が、声を荒らげることなく遮った。
未明が振り向く。その顔には、律へ向けたものより露骨な憎悪が浮かんでいた。
「おまえ、殺すぞ」
「三枝さん。その言葉を記録へ残す必要はありません。弟さんの搬送に不利益となります」
脅しですらなかった。
注意事項だった。
搬送担当の男が、椅子の持ち手へ両手を置いた。端末には《引渡確認 実行待ち》と表示されている。
「搬送を開始します」
「待って」澪の声が飛んだ。
男の足は止まったが、手は持ち手から離れない。
「その子、鎮静で呼吸が止まりかけた直後でしょう。自発呼吸が戻ったことと、搬送に耐えられることは同じじゃない。舌根が落ちれば、椅子を押しているあなたには顔色も見えない。少なくとも、ここで呼吸状態を継続して確認する必要がある」
「当方は医療判断を行いません」搬送担当は、澪ではなく端末へ答えた。
「引き渡し時点の状態を記録し、指定先へ搬送します」
「だから、いまの状態を見ろって言ってるのよ」
「規定項目は満たしています」蘭堂が引き取った。
「自発呼吸あり、呼名反応あり、外部拘束なし。搬送可能です」
澪の顎が強張った。それでも、尾関の傷を押さえる力は変わらない。
「その三つで人間が助かるなら、救急外来なんて要らない」
尾関の喉から、空気の漏れる音がした。
律はそちらへ眼を向けた。閉じかけていた尾関の瞼が、わずかに持ち上がっていた。血の気を失った唇が、二度動く。
「……もたない」
部屋にいた黒服のひとりが、蘭堂を見た。
蘭堂だけは尾関を見なかった。
「それは、0時20分と同じ判断ですか」
尾関は答えない。
代わりに、床へ投げ出されていた指先が、わずかに曲がる。その二歩先、ステンレス台の上には尾関の拳銃があり、上からの振動を受けて、銃身の下で金属が細く鳴った。
澪が気づき、視線だけを動かす。
拳銃にも、手を伸ばした尾関にも届く距離ではない。それでも澪は圧迫の角度を変えないまま、膝の位置だけを数センチずらす。尾関が動けばすぐに分かるよう、自分の脚をその腕へ触れさせたのだと、律には見えた。
腕時計が震えた。
《CORTISOL 7.3》
0時57分。
数字を読んだ直後、左脇腹の痛みが遅れて届く。律は息を止め、足裏へ力を集めた。床が傾いたように感じたのは一瞬だったが、蘭堂の輪郭が二重になり、元へ戻るまでに三度の瞬きを要した。
壁面の監視映像では、防火シャッターの一部が内側へ捲れていた。黒い防護具を着けた警察官は開口部から闇雲に飛び込むことはせず、照明を入れながら、ひとりずつ奥を確認していく。別の警察官は図面を開き、地下二階の壁と見比べていた。
灰庭が消したはずの時間を、警察は一枚ずつ拾い始めている。
律は搬送担当の端末を見た。
0時52分、引き渡し地点、地下区画。画面にはもう記録が残っていた。優真の現在の呼吸だけを記した搬送票。未明の承認。三つの会社コード。合法に見せるために作られたものが、同じ場所と時刻を指している。
「蘭堂さん」
返事を待つあいだに、律は一度、息を吐いた。声を急げば、舌が追いつかない気がした。
「いま優真くんを動かせば、この担当者は、ここで優真くんを受け取ったことを記録します。搬送先では、鎮静後の状態が記録される。尾関さんは入口で撮影され、ここで撃たれた。未明さんの承認と、警察の証拠袋も、同じ時刻に同じ地下へ集まっています」
蘭堂の眼が律へ向いた。
「それで?」
「あなたたちの仕事は、別々なら合法に見える」
律は一語ずつ選んだ。頭の奥に薄い霧が溜まり、考えた言葉が口へ届くまでの距離が伸びていく。
「搬送会社は人を運ぶだけ。同意を保存した会社は記録を預かるだけ。警備会社は地下の入口に立つだけ。でも、いま運べば、その全部が一枚の搬送票でつながる。運ばなければ、三枝さんへの対価は履行されない。記録を消せば、今度は警察が到達した時刻の直前に、搬送記録だけが欠ける」
上階の工具音が止まった。
静かになったのではない。場所を移している。
監視映像の端で、警察官が図面にはない壁の幅を測り、隣の配線盤へ光を当てていた。
「搬送を止めてください」律は続けた。
「優真くんをここへ残す。澪を尾関さんから離さない。代わりに、私があなたの質問に答えます」
「律」澪の声が低くなった。
「それ、何を差し出してるか分かって言ってる?」
「分かってる」律は澪を見なかった。見れば、二年前と同じ顔をしているかもしれない。
「やめろ」未明が言った。
声は怒鳴り声ではなかった。弟のそばで大きな音を出すことを、身体が拒んだように掠れている。
「それじゃ、あたしと同じだろ。優真のために、あんたを売るのと」
律は未明を見た。
今度は逸らさなかった。
「同じではありません」
「何が違うんだよ」
「私は、私を使うと決めています」
未明の右手のガーゼから、新しい血が点になって浮いた。
「未明さんは、私に訊かなかった」
その一言で、未明の唇が閉じた。
許すことと、事情が分かることは違う。弟の呼吸を見せられ、選ぶ時間を削られ、右手の小指まで奪われた未明が被害者であることも、律と薬を引き渡すと決めたのが彼女自身であることも、どちらか一方にはできなかった。
蘭堂は搬送担当の端末へ眼を落とした。
「久世さんが黙秘されれば、こちらが困ると?」
「あなたが欲しいのは、答えではありません」
「では、何でしょう」
「私が選んで答えた、という記録です」
蘭堂の右手が、灰色のコートのポケットへ入る。その動作は途中で止まり、すぐに抜かれた。初めて、次の手順を確かめるための間が生まれていた。
搬送担当は何も訊かなかった。命令が来ないため、椅子の持ち手を握ったまま立っている。男の端末では、《引渡確認 実行待ち》の文字が明滅していた。
「一時停止してください」蘭堂が言った。
搬送担当が画面へ触れる。
《引渡確認 保留》
未明が優真へ近づこうとしたが、男はまだ手を退けなかった。保留は解放ではない。椅子も、酸素ボンベも、優真の身体も、引き渡し工程の途中に置かれたままだった。
それでも、優真の胸はもう一度持ち上がった。
澪がその呼吸を確認し、すぐに尾関へ視線を戻す。尾関は眼を閉じていたが、頸の皮膚がごく微かに打っている。ステンレス台の拳銃も動いていない。
律の腕時計が、再び短く震えた。
《CORTISOL 7.2》
1時02分。
監視映像のなかで、警察官のひとりが図面にない壁の継ぎ目へ手袋を当てた。別のひとりが合図し、工具を運んでくる。やがて、これまでとは違う壁から、低い衝撃が一度だけ響いた。
近い。
「では、その間に確認しましょう」蘭堂が律へ向き直る。
搬送が止まり、警察が近づいても、声の温度は変わっていない。むしろ仕事が予定どおりの場所へ戻ったときのように、わずかに柔らかくなっていた。
「久世さん。二年前、篠宮さんに『大丈夫』を繰り返しながら、翌週には別れを告げたのは、誰を守るためでしたか」
澪の手は止まらなかった。
止まったのは、律の呼吸だった。




