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第二十四章 再出発

 退院の日は、よく晴れていた。


 三週間ぶりに見る空は、記憶にあるよりも高く感じられる。大久保病院の正面玄関を出た律は、しばらくその場に立ち止まり、光に眼を慣らした。雲の少ない、九月の午後――あの夜の雨が嘘のように思えるほど、空気は乾いている。


 腕時計には、見慣れた数字が戻っていた。


《CORTISOL 8.2》


 治療域の範囲内。正規のカートリッジに戻り、定期的な補充も再開されている。数字だけを見れば、あの夜の前と何ひとつ変わらない。


 だが、律は知っていた。数字が同じでも、それを見る眼は、もう同じではない。以前は、この数字こそが自分のすべてだと思い込んでいた。いまは、数字の外側にある何かの方が、よほど重い。


「待った?」


 澪が、駐車場の方から歩いてくる。白衣ではなく、私服姿だった。休みを取って、迎えに来てくれたらしい。


「そんなには」


 律は答えた。二年前なら、ここで「大丈夫」と続けていたはずだ。いまは、続けない。


 澪の運転する車で、律は自分のアパートへ向かった。会話は、多くない。だが、その沈黙は、以前のような、何かを隠すための沈黙ではなかった。何を話すか、まだお互いに探っている途中の、ただの間である。


「今度、また話そう」


 澪が、アパートの前で言った。それだけだった。恋人に戻る、という言葉はない。それでも、律にはそれで充分だった。距離は、確かに縮まっている。急いで測る必要は、もうなかった。


 部屋に戻ると、留守番電話が一件、点滅していた。未明からだ。


「優真、退院したよ。まだリハビリはいるけど、元気にはなった。あんたにも会いたいって、生意気なこと言ってる」


 その週末、律は二人が住む部屋を訪ねた。優真は、車椅子だった椅子から、いまは杖を使って歩けるまでに回復している。


「久世さん」


 優真が、少し照れくさそうに頭を下げる。以前より、声に張りが戻っていた。


「姉ちゃんから、色々聞いて……ありがとうございました、って言えって、うるさくて」


「別に、私が助けたわけじゃない」


 律が言うと、未明が横から口を挟んだ。


「助けたかどうかは、あたしが決める」


 その口調は、あの夜と変わらず刺々しい。だが、傍らに座る弟を見る眼だけは、明らかに柔らかくなっていた。


 優真は、あの夜連れ去られた先で、拘束されていただけだった。乱暴な扱いは受けたが、命に別状はない。灰庭たちの正体――御厨の依頼で動いていた、別系統の回収班――は、御厨の逮捕とともに、その全貌が少しずつ明らかになりつつある。


 尾関は、生きていた。あの夜の傷は重く、一時は予断を許さない状態だったと、後になって聞いた。検察との司法取引に応じ、灰庭の内部構造について、知る限りのことを話しているという。天井へ向けて撃ったあの一発が、結果として何人を救ったのか、律には正確には分からない。それでも、あの銃声がなければ、いまここに自分がいないことだけは確かだ。会いに行く機会は、まだない。いつか行こう、と決めていた。


 御厨は、医師免許の取消しと、複数の罪状で起訴されている。ニュースでその名前を見るたびに、律の中で何かが複雑にねじれた。憎しみだけでは片付かない何かが、まだ胸の奥に残っている。


 蘭堂は、逮捕から十日後、拘置先から姿を消した。


 正確には、消えたのではない。書類の上で「別の関連会社への移送手続き」がいつの間にか完了しており、気づいた時には、どこにも該当する身柄がなかった。灰庭が最後まで守り抜いたのは、薬でも、金でもなく、自分たちの姿を法の網から抜き出す、その一点だったのかもしれない。


 律のスマートフォンが鳴ったのは、退院から五日後の夜。


 非通知だった。


 律は、しばらく画面を見つめてから、通話ボタンを押す。


「――久世さん」


 その声を、律は忘れていない。


「元気そうですね。数値も、安定しているようだ」


「見てるのか」


「いいえ。声で分かります」


 蘭堂の声は、あの夜と、何ひとつ変わっていない。


「どうして電話を」


「特に理由はありません。ただ、久世さんがあの夜、平静を捨てたことについて、少しだけ感想を伝えたかっただけです」


 律は、黙って続きを待った。


「あなたは、感情を出せば死ぬと思っていた。だが、実際には逆でした。感情を殺し続けたことの方が、あなたを何年もかけて殺しかけていた」


「それを、いまさら言いに」


「ええ。もう一度、言葉にしておきたかった。それだけです」


 通話の向こうで、微かに雨のような音がする。どこにいるのか、律には見当もつかない。この国のどこかなのか、それとも、もう遠く離れた場所なのか。


「あなたは、これからどうする」


 律は、訊いた。


「さあ。私にも、まだ分かりません」


 蘭堂の声には、初めて、計算し尽くしていない響きがあった。それが嘘なのか本音なのか、律にはもう見分ける必要も感じない。


「久世さん。ひとつだけ、覚えておいてください。あなたを観察していた時間は、私にとって、退屈しのぎ以上のものでした。それだけは、嘘ではありません……では」


 それだけを言って、通話は切れた。


 律は、スマートフォンの画面を見る。通話履歴に、短い数字が残っていた。


 通話時間 00:37。


 三十七秒。それだけの時間に、何を測るべきなのか、律には分からない。だが少なくとも、それはもう、律の生死を決める数字ではなかった。


 律は、窓辺に立った。夜の街に、いつも通りの明かりが灯っている。腕時計の表示が、静かに息をするように、数字を刻んでいた。


《CORTISOL 8.5》


 完璧な数字ではない。それでも、律は、その数字だけに支配される必要が、もうないことを知っている。


 スマートフォンを、机の上へ置く。澪に、いまの電話のことを話すかどうか、まだ決めていない。話すとすれば、隠すためではなく、ただ伝えたいから話す――その違いだけは、もう間違えない自信があった。


 怖い時は、怖いと言う。それだけのことに、律はこれから、少しずつ慣れていくつもりだった。

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