ペルセウス座流星群
「ごめん。和子ちゃんが何でそんなに怒ってるか、分からない」
ホールドアップ。言葉通り困った顔をした竜泪が、顔の高さに両手を上げて降参を示した。誰に対しても常に穏やかな対応をする彼の情動は、こんな時にも凪いでいるようだ。
それが、気に食わない。内なる不機嫌な肉食動物が、目を三角にして唸り声を上げていた。
ことの始まりは、昼休みに鈴音を訪ねてきた飯田の発言にまで遡る。
曰く、竜泪と付き合うのはオススメしないとのこと。
竜泪と小学生から一緒だという飯田は、小さな頃から親たちが話す口さがない噂話も聞いていたのだ。
その一。竜泪は片親しかおらず、父親が誰かも分からない。研究者をしているらしい母親が、男の影もなくいつの間にか妊娠しており、そのまま竜泪を産んだらしい。
その二。小学校低学年のころ、竜泪の目を気持ち悪いと泣いた女の子がいた。それ以来竜泪は目を隠すようになったという。以前より違和感を覚えていた同級生たちもまた気味悪がり、遠巻きに彼と接っするようになったらしい。
中学生に上がる際、近隣の二校と合わさったタイミングで竜泪と普通に接する生徒も増えたというが、小学生から共にしている人らは変わらず距離を置いていたという。
――私だってママしかいないし。それの何がいけないの。
鈴音の言い分はそこであった。彼女の言う通り、片親を理由に人を忌避するのはあまりにも幼稚である。
「あっそ。じゃあもう二度と話しかけないでね。バイバイ」
結果的に別れの原因ともなったこの話を、親切心から話したという彼の心理はこれっぽっちも理解出来なかった。反対に、ムカついたから別れてやったと憤慨する鈴音の選択には、未来と共に大いに賞賛を送っていた。
ちなみに鈴音はこの日から二週間後に、今度はサッカー部の男の子と付き合うことになるのだが、それはまた別のお話だ。
それは、それとして。
鈴音の元カレが言った悪口の、個人的に怒れたポイントは竜泪の目を気持ち悪いと言われたことだった。
いったいどこをどう見ればそんな感想になると言うのか。心底、理解出来ずにいる。あんな、綺麗な目なのに!
午後の授業を越えてなお、この怒りは治まりそうになかった。
しかし、うまい発散方法なんてものも知らない。大人ならば自分の機嫌は自分でとるものらしいが、あいにくまだコドモなのだ。煮えたぎる感情は、放課後までずっと腹の底で燻り続けていた。
天文学部の部室へと向かう道すがら、黙したままのこちらに竜泪はどうかしたのと尋ねてきた。
視線の合わさった両目は今日も綺麗な星空だ。黒目の奥の光が静かに瞬いているような錯覚を覚える。少し前までは、野暮ったい前髪に隠されていた瞳。
「前髪伸ばしてたのって、昔何か言われた所為?」
腹の底に溜まった怒りのさらに下。大好きなものを傷つけられた悲しみが、気付けばほろりと質問をこぼしていた。
「あー、うん。そうだね」
今は短くなった前髪を指先で触れた竜泪は、どこか他人事のように頷く。その凪いだ声が神経を逆撫でるようだった。
「気持ち悪いって思う人もいるんだなぁって思って、じゃあ隠しとこうって伸ばし始めたんだよね。この目の所為で理子さんのこともっと悪く言われるのは嫌だったし」
「リコさん?」
「あー、えーっと母親」
部室の扉を開きつつ、竜泪が答えた。呼び方を間違えたことに苦く笑ったその表情に火種が追加される。
「名前で呼んでるんだ」
「うん、変だよね。ごめん」
謝られれば、火に油だ。
「ごめんって何よ」
「え?」
空いた机の上に鞄を力強く叩きつけた。がちゃりとお弁当箱が揺れた音がする。
「別に竜泪くんが何て呼んだっていいじゃん。何がいけないの?」
「いけなくは無いけど、多数派ではないからさ。まー、うちが僕と母親だけなのもあって色々言われたりもするからなるべく普通にしとかないとなーってさ」
「だから何って言ってんの。片親の何が駄目なの。イマドキそんな人いっぱいいるじゃん。それに竜泪くんの目だってこんなに綺麗なのに。気持ち悪いとかホント意味わかんない。ちゃんと見てから言えよって感じ。ほんと、ムカつく」
「えー……。けど、まぁウチの家族構成は事情が事情だし。変な目なのも確かだし、しょうがないよ。いじめられるとかハブにされることはなかったしさ」
「しょうがなくない!」
ホールドアップ。
「ごめん。和子ちゃんが何でそんなに怒ってるか、分からない」
言葉通り困った顔をした竜泪が、顔の高さに両手を上げて降参を示した。誰に対しても常に穏やかな対応をする彼の情動は、こんな時にも凪いでいるようだった。その態度がまた怒りに燃料を注ぐ。
「竜泪くんが怒らないから私が怒ってんの。自分の好きなもの気持ち悪いって言われてたんだよ、ムカつくでしょ」
不機嫌に威嚇する肉食動物の姿を、竜泪は嬉しそうに目を細めて眺めた。
「ほんとに、和子ちゃんは僕の目好きだね」
「だってすっごく綺麗じゃん」
優しいその表情に毒気を抜かれる。いや、まだ怒りの火種は残っているけれど。
「うん。和子ちゃんがそう言ってくれたから、隠さなくていいかなって思えたんだよ。ありがとう」
そんな風に言われてしまえば、何も言えなくなってしまうじゃないか。
「でね、話は変わるんだけど」
更に、柔らかな声音で話題を変えられてしまえば、ひとりで怒っているのも馬鹿らしくなる。これ以上、この件を掘り返すものではないのだろう。頷いて竜泪の話の続きを促した。
「夏の、なんだっけ、あの流星群」
苛立ちに濁った思考はいつもより検索に時間がかかる。思春期の虎退治はそう簡単にはいかないのだ。一休さんにだってきっと難しい。
なんて、馬鹿なことを考えて気を紛らわせつつ、竜泪の質問に答えた。
「ペルセウス座流星群?」
「そう、それ。一緒に見ない?」
「えっ!」
元より竜泪に対してではなかった怒りだ。彼からの、まさかの提案に好奇心と恋心が上回る。
だって、ペルセウス座流星群が見れるのは夜なのだ。つまりそれは、夜まで竜泪と一緒に過ごせるってことで……。
「見るって、どこで?」
「加藤先生に頼んで学校で見るか。それか、うち来る?」
「へ?!」
「山近いからさ、星も見やすいんだよね。どう?」
どう、と言われてもだ。いきなり家に来ないかなんて言われてすぐに回答できるはずもない。竜泪くんの家族に会うのかとか、彼の家に泊ることになるのかとか。頭の中は上を下への大騒ぎだ。
「か、考えさせていただきます」
身体をカチコチに固めさせ、なんとか絞り出した声に竜泪はふはっと吹き出していた。
ゴムは付けなさいよと、カバンの中からひとつ取り出し渡してきたのは鈴音だ。未来はそれを冷めた目で見ていたが、咎めはしなかった。
親には正直に話して条件付きで許可を得ている。まずは竜泪の母親の連絡先を聞いてくること。未来の家ではないのだからお行儀よくすること。それから、部屋はきちんと分けること。
こちらも健全な女子高生だ。そういったことに興味が無いわけではない。けれど未来の言う通り少女漫画思考の自分には、キスという単語ですら恥ずかしいのだ。その先のあれこれなど、考えが及ばない。及ばないが。
もしかして……。いや、相手は竜泪なのだ。キスの雰囲気すらないのに。いやけど向こうだって男の子なのだから……。いやいや部屋はきちんと分けてもらってるし……。
ぐるぐると、余計なことを考えている間にその日はやって来ていた。
「和子ちゃん? 顔赤いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫!」
話に聞いていた通り山に近い、彼の家の玄関前。心臓は耳の裏側でドクドクと大きな音をたてていた。
蝉時雨、というよりも、大洪水のような騒がしさが耳をつく。
どうしよう。帰ろうか。緊張のあまり、心は今すぐ踵を返して帰りたがった。
そんなカノジョの心を置き去りに、竜泪は「ただいま」と気兼ねなく玄関を開けた。待って、とも言えない。口は、心臓が飛び出さないように真一文字に結ばれていた。
彼の声を聞きつけたのだろう。奥から近づいてくる足音に緊張はさらに高まってゆく。
やがて、長い髪をひとつに結んだほっそりとした女性がやって来た。
「こんにちは、遠くまでありがとうね。竜泪の母親です。よろしくね、和子さん」
竜泪とよく似ている。彼女の笑みに心臓がひっくり返った。
「はじめまして! 佐藤和子です! これ、母からです。よかったらメシアガッテください!」
「お気遣いありがとうございます。って、お母さんにお礼お伝え下さい。さ、どうぞ。上がって。……竜泪、」
クスクスと笑う息子を軽く咎め、理子は室内へと招き入れてくれた。
流星群が始まるのは夜の九時。暗くなってから歩かせるのは悪いと言う竜泪の気遣いで、現在時刻はまだ夕方の五時だ。
どうやって時間を潰そうかと心配もしていたが、杞憂に終わる。
なんと、竜泪の母親である理子は星の研究者だったのだ。昔から宇宙が好きだったという彼女の蔵書は、どれもこれも気になるものばかり。ひとつ選んで読み進めている間に夕飯へと招待される時間となっていた。
食卓に並んでいたのは大皿に山となったそうめんだ。さすがは男子高校生。竜泪がどんどんその山を崩していくのを横目に、星の研究者とはどんなものなのかと、理子へ尋ねてみた。
「この山の中にある天文台知ってるかな。あそこで研究しているの。分野は流星天文学っていって、流れ星の研究なんだけどね」
「えっ、今日ここにいていいんですか?」
思わぬ回答に口元まで持ち上げていたそうめんを、つゆの中に落としてしまう。仕事の邪魔をしたのではないだろうか。弱くなる語尾に、親子はよく似た柔らかな笑みを浮かべていた。
「大丈夫。極大は今日だけど、流星群自体はまだしばらく続くからね。今日は他の人に任せてあるの」
「理子さん昨日まで天文台に籠ってたしね。それに明日か明後日にはまた戻るんでしょ?」
竜泪の合いの手に理子が頷く。
「そのつもり。それにたまには帰れって上司にも言われちゃったからね。だから気にせず存分に楽しんでいってね」
「なら良かったです。ありがとうございます」
「こちらこそ。来てくれてありがとうね」
そう言って理子はミョウガを摘んでつゆへと入れた。大人である。
「ほんとにね、理子さんほとんど帰ってこないから。今日会うのも久々だよね」
「一週間くらい?」
「いーえ、十日ですよ理子さん」
竜泪との間で交わされる会話は、親子と言うよりも年の離れた友人同士のようであった。確かに、一般的な親子とは少し違うのかもしれない。けれども仲睦まじい彼らの様子は、喧嘩ばかりの自分たち親子から見れば一種の憧れを感じるものだ。
自分も帰ったらあんな風に母親と話せるだろうか。いや、無理だろう。
穏やかな理子の喋りと知性に、好感度は上がる一方であった。
研究者である彼女は当然専門知識も多く、こちらの疑問に対しても興味深く話を聞いてくれる。有意義な時間はあっという間であった。
「理子さん、和子ちゃん。そろそろ時間じゃない?」
時計は間もなく夜の九時になろうとしていた。
山が近い所為だろうか。二階建ての屋上は、蒸し暑さが和らいでいる。木々を揺らす風が気持ち良い。そこは、街明かりが遠い分星がよく見えた。
「あっ――」
最初に声を上げたのはどちらだったろうか。
夜闇に線が走った。それも次から次へと。流れでは消えてゆく。星の軌跡にうっとりと見惚れていた。
横目に見た竜泪は、遠く夜空へと指先を伸ばしているようだった。普段は星に興味など無さそうな顔をしているというのに。その横顔はどこか寂しげにも見え、感傷的な気持ちを呼び起こす。
「綺麗だね」
流れる星が数を減らした頃、ため息のように言葉を落とした。
「うん、綺麗だった」
同じように、静かな声で竜泪が返す。
「また見たいね」
二人とも夜空は見上げたままだった。
「んー。次はなんだっけ」
またひとつ、空に線が走る。
「えーっとね。大きいものなら12月のふたご座流星群かな。けどその前に、今年は10月のジャコビニ流星群が大出現するって言われてたかな」
「そっか、」
「どっちも楽しみ。ね、また一緒に見ようね」
またひとつ、流れた星に願うように。他愛もない約束を取り付けた。
「うーん」
しかし竜泪の返事は鈍い。どうしたのかと見つめた彼の表情は、星明かりだけしかないせいで読みづらい。軽く眉をひそめた顔つきは、嫌がっていると言うよりもどうにも困っているような顔つきだった。
「なんか、ダメだった?」
恐る恐る尋ねる声がなぜだか震える。ざわざわと揺れる木々の音が、今は耳障りであった。
「ダメっていうか」
竜泪の声はいつもと変わらない。柔らかな、優しい声のまま。
「ふたご座流星群は見れないかなぁ」
事も無げにそう告げてくる。
「なんで?」
竜泪の向こう。夜空にまた、流星が走った。
「秋には僕、いなくなるからさ」




