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006_現代_恋愛中


 記憶の流れに逆らって、わたしはいつまで憶えていられる?



 診察室の白い壁を眺めながら、私は自分の手のひらをじっと見つめていた。

 先生の言葉が、まるで遠い水底から聞こえるように頭の中で反響している。少しずつ、だけど確実に、私の世界から大切なピースが零れ落ちていくのだという。


 帰り道、薄暗くなった街を歩きながら、私は頭の中で必死に彼との思い出を手繰り寄せていた。初めて手を繋いだあの神社の階段、誕生日にくれた不器用な手作りのビーズの指輪、唐突に思いついて二人で電車に乗って出かけた冬の海。

 だけど、ディテールを思い出そうとするたび、記憶の輪郭が霧のようにぼやけていく。


 ―― 記憶なんてものは意思に関わらず薄れていってしまう。


 どんなに強く『忘れたくない』と願っても、脳の細胞は私の感傷なんてお構いなしに、その活動を静かに閉じていく。抗えない現実が、冷たい恐怖となって背中を駆け上がった。


 ―― 最後まで覚えていられることはなんだろう。

    海馬の働きに、いつまで抵抗できる?

    わたしは一体いつまで、あなたを憶えていられる?


 彼が私を呼ぶ声、その手の温もり。それすらもいつか、ただの無機質な『データ』として私の記憶のメモリーから消去されてしまうのだろうか。


 ―― もしわたしが忘れたら、全て消えてなくなってしまう。


 彼が私を愛してくれたという事実も、二人で重ねた愛しい時間も、私の頭の中から消えてしまえば、最初から存在しなかったことと同じになってしまう。それが何よりも怖かった。


 ―― 他の何を忘れてもいいから、憶えていたいのに。


 自分の名前も、ここがどこかも、言葉の意味さえ忘れても構わない。

 ただ、彼という存在だけは、この胸の奥に刻みつけておきたかった。



 家に戻ると、彼がキッチンで夕飯の支度をしていた。トントンと規則正しい包丁の音が響く。その背中を見つめていると、視界が涙で歪んだ。


「おかえり。どうしたの、そんな顔して」


 振り返った彼は、私の異変に気づいてすぐに駆け寄り、その大きな手で私の頬を包み込んでくれた。その温もりに触れた瞬間、私は彼の胸にしがみつき、堪えきれずに声を上げて泣いた。


 ―― あなたを思い出せなくなるとき、わたしはどうしたらいい?


 私の問いかけに、彼は理由を聞くこともせず、ただ強く、でも壊れ物を扱うように優しく抱きしめ返してくれた。


「大丈夫だよ」

そう、彼は私の耳元で静かに、何度も繰り返した。

「もしお前が全部忘れちゃっても、俺が全部覚えてるから。お前が忘れた分だけ、俺が何回でも、新しく思い出を作ってあげるから」


 彼の胸の鼓動が、私の耳に真っ直ぐに届く。

 その確かな温もりを感じながら、私は思った。

 たとえ私の頭から記憶が消え去ったとしても、この人が私を覚えていてくれる限り、私たちの世界は消えたりしないのだ、と。


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