041_恋愛(日常の中の非日常)エレベーター、停電、2204字
薄暗く、静まり返ったエレベーターの箱の中。
ガタン、という鈍い衝撃と同時に停止してから、すでに1時間が経過していた。
「……まだ、かかりそうですかね」
「さっきのアナウンスだと、近くの現場からこちらに向かってるみたいだけど……思ったより大掛かりな停電みたいだからね」
壁にそれぞれ背を預けて座り込む二人は、完全に憔悴しきっていた。
一人は、就職活動の帰りに巻き込まれた女子大生。
もう一人は、残業を終えて帰宅途中だったスーツ姿の会社員。
見ず知らずの男女が密室で二人きり。最初は気まずさに身を縮めていたが、スマホの電波も途絶え、あまりの退屈と疲労に、どちらからともなくぽつりぽつりと身の上話を始めていた。
「はぁ……私、今人生のどん底なんですよね。先週、4年間一筋で追いかけてた推しアイドルが電撃引退しちゃって。もう生きる活力がゼロなんです」
女子大生は膝を抱え、深いため息をついた。
「それは……きついな。でも、僕も似たようなもんだよ」
会社員は苦笑しながら、緩めたネクタイに手をやった。
「3年遠距離恋愛してた彼女に、昨日振られたばっかり。そろそろプロポーズかなって考えてた矢先に『近くに好きな人ができた』ってさ」
「うわ、最悪ですねそれ! 推しの引退もきついけど、リアルな裏切りは精神的にきますね……」
「だろ? だから、このエレベーターに閉じ込められた時、神様から『お前はもうひとりでひっそり生きろ』って言われた気がしたよ」
「あはは、何ですかそれ。じゃあ私たちが今ここでこうしてるのって、傷の舐め合いですね」
暗闇の中、小さな笑い声が響く。
お互いの素性も名前すらも知らない。だからこそ、普段なら他人に言えないような格好悪い本音も、不思議とするすると言葉にできた。
時計の針は深夜22時を回ろうとしていた。空調の止まったエレベーターは少し蒸し暑く、お互いの距離はいつの間にか、肩が触れ合うほどに近くなっていた。
女子大生が、ふと悪戯っぽい目を会社員に向けた。
「ねえ、お兄さん」
「ん?」
「じゃあ、もし無事にここから出られたら……私たち、付き合っちゃいます?」
極限状態が生んだ、ほんの冗談のつもりだった。失恋した男と、推しを失った女。寂しさを埋めるための、ちょっとしたお遊び。
会社員は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい笑みを浮かべ、両手を胸の前で合わせた。
「……じゃあ、無事に出られるように、全力で祈っとくか」
彼が目を閉じ、大真面目な顔で祈りを捧げた――その、刹那。
ウィーーーーン……
機械的な駆動音とともに、パッと天井の蛍光灯が点灯した。同時に、ゆっくりとエレベーターが動き出し、最寄りの階でチーンと間の抜けた音を立てて扉が開く。そこには、汗だくとなった作業員の姿があった。
「あ……」
「出られた……ね」
あまりにもタイミングが良すぎた。
我に返った二人に、猛烈なきまずさが襲いかかる。
「付き合っちゃいますか」という言葉と、「祈っとくか」という返し。それが現実のものとして目の前に突きつけられた瞬間、急に「見ず知らずの他人」という境界線がくっきりと現れた。
「あ、じゃあ、お疲れ様でした。助かりました」
「あ、うん。気をつけて帰ってね」
連絡先を交換しようという空気には、どうしてもならなかった。二人はなんとなく目を合わせないまま、軽く会釈を交わし、駅の改札前で左右に別れた。
東京の夜の雑踏に紛れれば、もう二度と会うこともない。ただの「災難を共にした奇妙な一夜の思い出」になるはずだった。
それから数ヶ月後。季節は巡り、桜の舞う4月。
会社員は、新年度のバタバタとした空気の中で、配属されてくる新入社員の受け入れ準備をしていた。
「おい、今年のウチの部署の新人、めちゃくちゃ優秀な子らしいぞ」
同僚に声をかけられ、「へえ、楽しみですね」と書類に目を落としたまま応じる。
「おい、きたぞ。」
「――みんな、注目! 今日から我が部に配属になった新入社員を紹介する」
部長の声に、会社員は顔を上げた。
「本日より配属になりました、よろしくお願いします!」
ハキハキとした元気な声。
綺麗に整えられた黒髪に、まだ着慣れないピシッとしたリクルートスーツ。
しかし、その顔を見た瞬間、会社員の思考は完全にフリーズした。
記憶の底にある、あの狭い空間で膝を抱えて「推しが引退した」と嘆いていた女の子の顔が、鮮明にフラッシュバックする。
「え……?」
それは女子大生――いや、新入社員の彼女も同じだった。
挨拶を終え、課内のメンバーを見渡していた彼女の視線が、一人の会社員でピタリと止まる。
数秒の沈黙。
(あ、あの時のエレベーターの……!?)
(嘘だろ、なんでここに――)
彼女の目が限界まで見開かれたかと思うと、一瞬にして、顔が耳の根元まで真っ赤に染まっていくのが分かった。あの夜の「付き合っちゃいますか」という自分のセリフが、彼女の脳内で大音量で再生されているのは明白だった。
会社員は、必死に笑いを噛み殺しながら、彼女に向かって小さく片目を瞑ってみせた。
どうやら、あの夜の「祈り」の効果は、まだ継続中だったらしい。




