035_立ち直り(あなたの未来に私はいない)社会人、990字
夕方のオフィス街は、家路を急ぐ人々のざわめきと車の騒音に包まれていた。
駅前の広場にあるベンチで、私は膝の上で固く手を握りしめ、目の前の超高層ビルを見上げていた。
ミラーガラスの壁面には、夕焼けに染まり始めた空と、ゆっくりと流れる雲が映し出されている。
あのビルの最上階には、かつての恋人 薫が新しく立ち上げたデザイン事務所がある。
三年前、何もないところからスタートした彼を、私は一番近くで支えてきた。徹夜続きの彼のために夜食を届け、愚痴を聞き、「いつかきっと売れるよ」と励まし続けた。
そして今、彼は夢を叶えた。業界の寵児となり、誰もが知る存在になった。
……それと引き換えに、私たちの時間は消えた。
彼の世界が広がるにつれ、私の居場所はなくなっていった。住む世界が変わり、会話が噛み合わなくなり、最後に会ったとき、薫は申し訳なさそうに「今の俺には、君を幸せにする余裕がない」と言った。
綺麗で、残酷な拒絶だった。
―― もう、終わりにしよう
そう決めて、彼に「今までありがとう。頑張ってね」とだけメッセージを送ってから、もう二時間が経っていた。返信は、まだない。おそらく、新しい大きなプロジェクトの打ち合わせに追われているのだろう。
かつて彼は「あのビルのガラスに映る空ってさ、映画のスクリーンみたいで綺麗だよね」と言っていた。だから、最後にここから彼のいる場所を見上げたかった。
スマートフォンの画面は静まり返ったままだ。
ビルに映る白い雲を、いくつもいくつも見送った。
一つ流れるたびに、彼と過ごした愛おしい記憶が剥がれ落ちていくような気がした。もう、あのガラスの向こう側に、私を呼ぶ彼の声はない。
街の灯りがひとつ、またひとつと灯り始め、ビルの輪郭が夜の闇に溶けていく。
「……よし」
私は小さく呟き、深く息を吸い込んで立ち上がった。
結局、最後までスマートフォンが震えることはなかった。それが、彼なりの誠実な終わりの合図なのだと理解する。
彼を愛していた。彼の夢が叶ったことは、心から嬉しい。
けれど、その未来に自分がいないという事実だけが、トゲのように心に刺さったままだった。
私は一度も振り返ることなく、改札口へと歩き出した。
頭上に広がる夜空には、もう雲の姿はどこにも見えなかった。




