019_別れの予感(その情熱を恋という)社会人、同棲中、1146字
深夜一時、ぬるい風がカーテンを小さく揺らしていた。
テーブルの上には、すっかり冷めたトマトスープが二人分。
時計の針が刻む規則正しい音だけが、静まり返ったリビングに響いている。
「ごめん、今日も遅くなる」
三時間前に届いた彼からの短いメッセージ。
かつての私なら、この画面を見つめながら、心が千切れそうになっていただろう。「誰といるの?」と、聞きたいのに聞けない言葉を繰り返し、泣きながら彼を待つ夜を過ごしたはずだ。
だけど今の私は、あの時とはもう違う。ただ静かに携帯を閉じる。
胸の奥にあるのは、驚くほど静かで、平坦な凪の海だった。
カチャリ、と静かに鍵が回る音がした。
「ただいま。……起こしちゃった? ごめんね」
申し訳なさそうに言いながら入ってきた彼は、テーブルの上のスープを見て、さらに眉を下げた。
「ううん、本を読んでただけだから」
私は立ち上がり、いつものように笑みを浮かべて彼を迎える。健斗は「いつも待っててくれてありがとう」と、私の肩に額を乗せてきた。
ぬるい彼の体温。そして、首筋から香る、彼のものではない、シトラスの香水。
それはずっと昔、私が彼と付き合い始めた時に使っていた香水の匂いだった。
気付いた瞬間、条件反射のように、脈拍が少しだけ上がった気がする。
けれど、それは目の前にいる彼にときめいているのではない。
その香りとともに、あの時のことが走馬灯のように頭を駆け巡ったからだ。
―― あの時の情熱を恋だと言うのなら、
今の私の想いは、恋ではない気がする。
私はきっと、何かあったら彼を諦められる。
彼に対して、責めることも泣くこともないだろう。
昔を想い出し脈拍が上がることはあっても、
もう彼に焦がれて眠れぬ夜を過ごすことは無い ――
出会った頃、連絡が数時間途絶えるだけで世界が滅びるような錯覚を覚え、彼の一挙手一投足に一喜一憂していた。
あの狂おしいほどの熱量こそが、私にとっての恋だった。
けれど、約束を破られるたび、私は傷つかないための防壁を少しずつ築いてしまった。何度も涙を流すうちに、感情の泉は枯れていき、いつでも彼を諦める準備をしてしまうようになってしまったのだ。
「明日、温め直して食べるね」
彼はスープの器を冷蔵庫にしまい、私の髪を撫でた。
私が今も彼の隣にいるのは、彼を愛しているからではないのかもしれない。
あの時の自分の熱に捕らわれ続けているだけなのかもしれない。
もう二度と、彼のために眠れぬ夜を過ごすことはないだろう。
それは傷つかないために手に入れた術であり、二度とあの熱狂へは戻れないという、静かな諦念だった。




