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010_現代_別れ(言わなくていいこと)

 

 彼の部屋を引き払う手伝いをしていて、クローゼットの奥から一通の古い封筒を見つけた。

 中に入っていたのは、数年前のあの日、彼が「急に仕事が入って行けなくなった」と言っていた、私のピアノ発表会のチケットだった。


 チケットの半券は切られていない。代わりに、その裏には彼の手書きで、私の体調を気遣うメモと、病院の領収書が挟まれていた。あの時、彼は高熱を出して倒れていたのだ。それなのに、大舞台を控えた私を動揺させまいと、何でもない風を装って「仕事だ」と笑っていた。


 今更だけど、本当にもう今更何を言うことも出来ないくらい遅くなってしまって、ようやくわたしは、あの人がとてもとてもわたしに気を遣ってくれていたことを知った。

 嘘が苦手なあの人が、ついた嘘を知った。


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。

 あの時の私は、彼の不器用な優しさに気づきもしなかった。それどころか、「仕事なら仕方ないね」と言えばいいものを、「私の晴れ舞台より仕事の方が大事なんだ」なんて、子供じみたあてこすりを彼にぶつけてしまったのだ。


 ―― とっさに気づけなくて、

    言わなくても問題が無いことを言って、

    あなたの気持ちを踏みにじってしまってごめんなさい。


 彼は私の酷い言葉を、ただ静かに、寂しそうに受け止めていた。自分の体調よりも、私の舞台の成功を最優先にしてくれた彼を、私は自分の言葉で深く傷つけた。


 だけど、その嘘の理由を知った今、私の心を満たしたのは後悔だけではなかった。あんなに嘘が下手で、いつも顔に出てしまう彼が、私のために必死でついた嘘。


 ―― あなたの気持ちが嘘ではないと分かって、うれしかったよ。

    わたしはあの人の、そういうところが好きだと思った。


 不器用で、どこまでも優しくて、自分の痛みを隠してでも誰かを守ろうとする、彼のそんな真っ直ぐな生き方が、私はたまらなく愛おしかったのだと、離れてしまった今になって強く実感する。


 私たちはもう、別々の道を歩いている。

 遠い、遠いところに行ってしまった彼に、この気持ちを届ける術はない。


 ―― 一生伝えることはできないけれど、忘れないでおくよ。


 私はチケットをそっとポケットにしまい、静かに部屋の鍵を閉めた。あの人がくれた優しい嘘を、この胸の宝物にして、私は私の道を歩いていく。


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