life 26〔他が為に騎士は立つ〕
どう見ても、目の前のメイドはただの使用人だ。
でも、その隙のない立ち姿、そして先ほど見せた身のこなし。
もしボクが騎士でなければ今頃は……。
「待ってっ、本当に誤解なんですっ!」
背後でエイミーが必死に訴える。
次いで妹の震える手が、ボクの背中の服をギュッと掴む。
「わたし達は賊じゃありません! わたしは領主の、ロエン様との商談の件があって……、お姉ちゃんも、ただの……」
ただの、不審者、以外の何者でもない現状に、妹も言葉に詰まる。
そして相手の表情はピクリとも動かない。
むしろ、薄暗い廊下で冷たく光るその瞳は、言い訳など一切耳に入っていないかのように、自分の首筋を静かに見据えている気がする……。
「……アナタ方の事情などは結構です。わたくしは急ぎ、アヤネ様のところへ向かわねばならないのですッ」
そう言ってメイドが再び短刀を構える。
が、ボクの耳が確かなら、これで二度目となるその名に思わず――。
「――アヤネ様が居るのですか? どこに……?」
同時に、ヒヤリとするほどの殺気が膨れ上がり、メイドの重心が僅かに沈み込む。
ハッとする。
「……よもや目的がアヤネ様とは、なんと罪深き賊」
――来る。さっきよりも速く、確実に仕留める気配で。
避けないと、けれど、背後にはエイミーがいる。
避けるだけでは、妹が巻き込まれてしまう。
なら、迎え撃つしかない……。
「……エイミー、下がって」
仕方なく攻撃を弾き返すために腰の剣へと手を伸ばす。幾度となく繰り返してきた動作、その、使い込まれた柄の感触を求めて――、……スカッ。
ェ? ――空を切る、手の平。
あれ? 腰にあるはずの、物が、無い。
……ぁ。そういえばと、一つの事実が鮮明に。
ボクは今、有給休暇中だった。
つまり、普段は持ち歩いている武器を持ってきていなかったのだ。
今のボクは。――完全に丸腰。
「待って」
情けない制止の声が、無情に空気を滑り落ちる。
トンッ――。
分厚い絨毯が強く、でも静かに踏みしめられる、くぐもった音。
それが鳴った瞬間に、相手の姿は弾かれたように前傾し、一気に間合いも狭まる。
ひッ……!
廊下の空気を裂き、ヒュッと鋭い刃鳴りが目前まで迫る。
鼻先を掠める、冷たい鉄の軌跡。
「きゃっ」
背後でエイミーの短い悲鳴が上がる。
けれども剣はない。受け流す術もない。
このままボクが単に避け続ければ、いずれ、すぐに後ろの妹にまで――。
「くっ……!」
――咄嗟にエイミーの肩を押し退けながら、自らは上半身を強引に捻って反らす。
再び首筋の、すぐ横を冷ややかな銀閃が滑り抜けていく。
それにより数本の髪の毛がハラリと宙を舞うのが視界の端に映った。
ギリギリだった。――背筋からもドッと冷や汗が噴き出す。
でも、メイドの動きはそこで終わらない。
空を斬った相手の氷のように冷たい瞳が、わずかにボクの方へとギロリと動く。
表情は相変わらず、凍りついたまま。
短刀を持つ手首が反転し、今度は下段から、胴を薙ぎ払おうと刃が翻った。
「ェちょっ」
迫り来る鋭利な殺気に、ボクは半ばパニックになりながらも無我夢中で、後ろへと跳び退くしかなかった。
*
一瞬の心の揺らぎすらも抑え込み、深く静かに息を吐き出す。
己の輪郭を現状の闇へと溶かし、完全に気配を絶つ。
心音すらも律し、呼吸は細く、長く……。
館の空気に、壁に染み付いた古い傷跡にすら自身を同化して進む。
拙者の目的はただ一つ、この世界で唯一の村人であるアヤネ様の無事、無論、それは己が命に代えても、お助けすること……。
故に今は無用な騒ぎに関わっている暇はない。
壁の影と一体化し、その場をやり過ごして、行く――その時だった。
トン、トン、と。
規則正しく、しかし一切の迷いがない足音が廊下の奥から近づいてくる。
しかも酒の香りと、燻製肉の匂い……?
歩み寄ってくるその音は、かなりの急ぎ足。
その場でさらに身を沈め、完璧な隠密を保つ。
絶対に気付かれるはずはない。
この足音の持ち主は、そのまま、拙者が潜む影の前を通り過ぎて行くはず、だ。
が、――ピタリ。と。
唐突に、分厚い絨毯を踏む足音が止まる。
「……――まさか、既にここまで賊が入り込んでいたとは」
驚愕したのは、むしろ拙者のほうだ。
隠密の術で、微細な衣擦れの音すら立ててはいない。
それなのに、この男の鋭い眼光は、何もないはずの暗がりに潜む拙者の存在を――正確に射抜いていた。
その上で、その表情には酒の緩みなど一切なく、ただ威圧感だけが張り詰めている。
これが、この男が、この館の主であり、この地を治める者。
――領主ロエン。
*
一方、同時刻。
館の外、正面の方では物々しい警備兵たちが周辺を探索していた。
そんな張り詰める空気の中で、一人の兵士が足取りもおぼつかなく、フラリと上体を揺らす。
「おい、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
同僚の兵士が心配そうに声をかける。
「あぁ……平気だ。昨夜、遅くまで飲んでいただけだからな……」
そう言って、二日酔いの兵士が、こめかみを押さえながら重い息を吐き出す。
呼気からはまだ、ツンとしたアルコールの名残が微かに漂っている。
「なんだ。何かいい酒のあてでも手に入ったのか?」
呆れ半分、羨ましさ半分の同僚の言葉に、二日酔いの兵士は少しだけ得意げに口角を上げる。
「ああ。最高のチーズが手に入ってな。アレはすごかった……、濃厚な味わいがワインと絶妙に合って、つい飲みすぎちまった……」
昨晩の至福のひとときを思い出し、兵士がへらっと笑みを浮かべ――た、その時だった。
「――ぬ?」
ふと、二日酔いの兵士は自身の右手に、奇妙な違和感を覚えた。
何かが触れている。
いや、触れているというより……熱心に、嗅がれている?
「……ぇ?」
視線を落とした兵士の目が、限界まで見開かれる。
いつの間に近付いたのか。
足音は一切なかった。
そこには、見知らぬ少年が、四つん這い近く身を屈め、兵士の手を――。
「――スンスン、クンクンッ!」
少年は犬の様に鼻をヒクつかせ、指先から手のひらにかけて貪欲に嗅いでいる。
「な、なんだお前ッ? どっから……ッ!」
同僚の兵も突然現れた少年に驚愕し、ガチャリと音を立てて腰の剣に手をかける。
だが、少年――の姿をした神獣、月狼マーナガルムの子は、周囲の警戒など一顧だにせず、瞳を爛々と輝かせて。
「おおおッ! この香りは……間違いない! あの凄まじい臭いにして、我が舌を歓喜させた甘美なニオイであるぞッ!」
神獣は鼻息を荒く、興奮も露わに兵士の手をブンブンと揺さぶる。
「キサマ、あのウマい塊をどこに隠し持っておるのだッ! さあ、出し惜しみせずに我にもよこすのだッ!」
「なッ?」
一気に兵士の酔いも覚めるほどの、凄まじい執着。
その行動は完全に食い意地の張った犬にしか見えない。
二日酔いだった兵士は、得体の知れない少年の異常な気迫に圧倒され、ただただ手を振り回すほかなかった。
*
ボクの喉笛を狙った三度目の刃が、空を切り。
「くっ……!」
メイドの息遣いが聞こえる。
それでも、相手の踏み込みは異常なほど速く、無駄がない。
右へ、左へ。
なんとか致命傷だけは避けていく。
でも、あくまで防戦一方。丸腰のボクには、返す手が全くない。
「お姉ちゃんっ!」
妹の悲痛な声が少し離れた所から響く。
焦りは額に滲み、ぽたりと冷や汗が落ちた、その時だった。
――ドンッ。背中に、硬く冷たい感触が当たる。
ぁ。
気づけば、廊下の壁際にまで追いやられてしまっていた。
それを見て、メイドの瞳に決定的な冷酷さが宿る。
もう、躱せない――。そう覚悟を決める。
と、再び背を壁に接した衝撃で、頭上からカチャリと重々しい金属音が鳴った。
……ぇ?
視線を音の鳴った方へと向ける。
廊下の壁。そこに飾られていたのは、アンティークな意匠が施された十字剣と、小ぶりな鉄の盾だった。
本来はただの壁掛けの装飾品。けれど、今のボクには何よりも頼もしく感じられる。
そして考えるよりも先に、体は動く。
咄嗟に手を伸ばし、壁の台座から盾をもぎ取る。直後――。
ガァンッ!
――短刀を、構えた盾の表面で激しい火花を散らし、弾く。
「……チッ」
メイドの氷のような表情が僅かに歪み、小さな舌打ちの音が漏れる。
その隙を逃さず、ボクは残った片手で壁の十字剣を引き抜いた。
ズシリとした金属の重みが、手のひらを通して全身へと伝わっていく。
そうして盾を斜めに構え、剣の切っ先を真っ直ぐにメイドへと向ける。
次いで強く柄を握り込んだ瞬間、ボクの中で澄んだ騎士の思考が戻ってくるのを感じた。
ボクは門衛騎士だ。
護るべき者がいるのなら、決して退くわけにはいかない。
メイドが短刀を低く構え直し、再び凄まじい殺気を放つ……。
互いの視線が交差する。
張り詰める廊下の空気、ボクは静かに、けれども明確な意志を持って、対峙する。




