悪霊デスペラ
「う、うぅ……」
朦朧とする意識の中、サファイア姫は月の光で目が覚めた。サファイア姫は起き上がろうとした。しかし彼女がどれだけ起きようとしても、体は起き上がる気配がなかった。
「何?私の身に何が……は?」
サファイア姫は自分の手足を見て鳥肌を立てた。動かそうとしていた彼女の手足は、鎖でテーブルに繋げられていた。更には月光だけが入ってくるその部屋の壁には手枷や古びた拷問器具……その中の一つであるトゲ付きの鉄球が誰に触れられることもなくゆっくりとサファイア姫の方へ転がった。
「おやぁ……もうお目覚めかい?」
部屋の中で、何かが笑った。空気が歪み、影がゆらりと立ち上がる。ランプも無い部屋に、なぜかスポットライトのような光が落ち、闇の中から長い腕が伸びてくる。
「ふふ……可愛いお姫さまが俺様の舞台に来るなんて、今夜はずいぶん贅沢な晩餐だ。」
声の主は、まるで踊るように姿を現した。黒い帽子、裂けた口、霧のように白く、青白く光る体。
だがその動きは軽やかで、どこか楽しげだった。
「あなた、誰……?」
サファイア姫の声は震えていた。すると影の男が帽子を取る動作一つで壁の骸骨のランプが一斉に点いた。
「おいおいおい?まさか俺様を知らない奴がいるのか?信じられないぜ?」
影の男は大げさに肩をすくめ、床にドンと足を鳴らした。その瞬間、部屋全体が震え、床下から白い手が次々と伸びてきた。手たちは拍手を打ち鳴らし、まるで観客のようにざわめきだした。
「俺様の名前はデスペラ!恐怖に満ちた魂が大好物で、悲鳴で踊る夜の支配者!」
その名を告げた瞬間、部屋の天井から光の筋が差し込み、まるで舞台のスポットのようにデスペラを照らした。彼の影が壁いっぱいに伸び、裂けた口が笑うたびに影も同じように裂けていく。
「ナイトのスター! 怖がる顔が一番のごちそう~!泣き声はソース、震えはメイン!特にお姫さまの恐怖は最高のワインだぜ〜!」
デスペラは軽快にターンし、鎖に繋がれたサファイア姫の前にすべるように近づいた。指先で彼女の頬に影を落としながら、甘く囁く。
「君のその純粋な魂……まっさらで、濁りのない恐怖。それをもっと恐怖に染めて喰えば、俺様はまた“完全”に戻れる。封印なんて、怖れがひとしずくでも残ってりゃすぐに溶けるのさ。」
デスペラがパチンと指を鳴らすと、壁の影たちが一斉にざわめいた。笑い声、すすり泣き、誰かの叫び。それらが混ざって、奇妙なジャズのような音楽を奏で始める。
「震えと悲鳴でリズムを刻め!光が消えりゃ、闇の幕が開く!恐怖こそが俺様の、ショウタイム!」
デスペラはステップを踏みながら拷問器具を指でなぞっていた。
「どれから始めようか?のこぎり?メイス?鎖鞭?さぁ……“泣き出す準備”はできてるかい?」
デスペラが低く笑うと、影たちは歓声を上げてステージの幕を引いた。同時に闇が一気に膨れ上がり、サファイア姫の足元を飲み込んだ。
「や、やめて……!近寄らないでっ!」
鎖が鳴り、鉄の擦れる音が響く。だがデスペラは構わず、鼻歌を歌いながらサファイア姫に近づいてきた。
「いいぞ!もっと怖がれ……そうだ、その顔だ。それが“命の味”ってやつさ。」
「いやあああああっ!!!」
サファイア姫の瞳が涙に濡れ、声が掠れる。デスペラの腕が伸び、サファイア姫の頬を撫でると、彼女の甲高い悲鳴が闇を突き抜けた。
「ハハハハッ……これだよ、これが俺様のショウタイム!」
モーニングスターを回しながら、デスペラは笑みを浮かべて迫ってきていた。
その直後だった。
__パリィィン!
月光を通す天井のガラスが突然割れ、どさっ!と鈍い音を立てて何かが二人の間の床に落ちてきた。埃まみれの床の上に落ちてきた人物は頭を押さえながら立ち上がった。
「あ、貴方は!」
サファイア姫はその人物を見て目を丸くした。立ち上がってきたのは、あの日森の中で出会ったあの若者だった。
◇
__一時間前。
「今日が満月のハロウィン……奴が目覚めてるって事じゃないか!倒す手立ては無いのか?」
ウロクがシャルドネに聞くと、彼女は落ちていた本を開いた。
「元々アイツは、呪われたダイヤに怨念が集まって生まれた悪霊。つまり心臓でもある呪われたダイヤを砕けない限りは何度倒してもダイヤの中に一時的に封印されるだけ。」
「でも、君が封印を解く前から既に封印されてたんだろ?何か完全に封印できる方法があるはずだ。」
若者が聞くと、シャルドネはため息をついて言った。
「それは無理な話よ。アイツを縛っていた封印は先代の魔女達の魔力を全て使ってやっと成せた業。魔女はもう私しか居ないからもう封印できる手段は無い。」
シャルドネの声には、諦めにも似た冷たさと、深い疲れが滲んでいた。ランタンの光が彼女の顔を薄く撫で、瞳には長年の重さが映っていた。
「じゃあ、オイラ達にできることはもう……」
ウロクは息を詰めていた。もうシャルドネも打開策が無いと言った感じだった。
「弱点は?」
すると若者が何かを思い立ったように口を開いた。
「え?」
「封印が駄目なら、弱点を突いて倒すことはできないのか?」
若者の言葉に、シャルドネは一瞬だけ顔を強張らせ、床に落ちていた銀色の箱を開けた。
「一つだけある。それはデスペラの心臓のダイヤを砕くこと。そうすればデスペラは依代がなくなり、そのまま消滅する。だけど純銀の刃じゃない限りはあのダイヤが纏う呪いを浄化することはできないわ。そしてここに一本だけ、純銀の矢がある。」
「これでデスペラを討てるのか?」
「私の言葉を刻む。」
そう言うとシャルドネは指先で刃をなぞり始めた。するとなぞった箇所から人語ではない摩訶不思議な緑色の文字が刃に刻まれていった。
「今のは?」
「純銀の力だけではデスペラを完全には討てない。私の破魔の言葉を刻んだこの銀の矢を呪われたダイヤに打ち込めば、奴は消える。」
「呪いには呪いか……」
若者はレイピアに刻まれた言葉を見つめると、意を決した。
「それで、デスペラが今どこに居るのかは分かるのか?」
「居場所ならだいたいは掴める。アイツは強い怨念を放ってる。その波動が空気を焦がすの。」
彼女は床に指で魔法陣を描いた。淡い光が円の縁を走り、やがて一点が黒く滲み出す。その一点の隣も青白く光っていた。
「この黒い場所よ。それに既に誰かを拐ったみたいね。」
「じゃあ、文字通り猶予がないんだね。」
ウロクは魔法陣を見つめながら言った。
「位置的にこの場所は古い教会跡だな。ここからだとそれなりに距離がある。」
若者が言うと、シャルドネが「それなら心配ないわ。」と返した。
「私の呪いの言葉には決めた場所へと飛ばせるものもある。これから貴方をこの場所へ飛ばすわ。」
「分かった。」
「待ってよ!オイラも行くよ!」
ウロクが行きたがったが、シャルドネは首を縦に振らなかった。
「あんたは町に戻って。もし私達が戻って来なかった時、皆を守れそうなのはあんたぐらいだろうから。」
「でも…!」
断っても引き下がらないウロクにシャルドネは顔を向けた。
「その代わり帰ってきたら約束するわ。来年のハロウィンは一緒に盛り上げるって。」
「……分かったよ。でも忘れいないでくれ。皆、君のことを待ってるんだって!」
ウロクの言葉にシャルドネは頷くと、若者の前に立ち、杖を拾って床に突き立てた。
その瞬間、魔法陣が青色に強く輝きだした。
「今更考え直すは無しだけど、準備は良い?」
「ああ。もう決めている。」
若者の即答に、シャルドネはフッと笑った。
「その度胸は、あの男にそっくりね。それじゃ行くわよ。」
そしてシャルドネは杖を突き立てたまま呪いの言葉を唱え始めた。
「ルークス・ルーナエ、ノース・アド・カエルム・ウェへ!(月夜の光よ、我らを空へと運べ!)」
呪文が響いた瞬間、足元の魔法陣がまばゆい光を放ち、風が逆巻き、室内の紙や本が宙に舞った。更に青色の光は強まり、二人の身体を包み始めた。
「人間!」
ウロクが若者に叫んだ。
「シャルドネの事を頼んだよ!」
「ああ!分かった!」
「それともう一つ!これは本当に大事なことなんだ!」
だがウロクの言葉が終える前に、二人は魔法陣の光で真上へと跳んだ。そしてそのままドゴンっ!という音と共に二人の姿は消えた。
「シャルドネの瞬間移動は手荒いから、着地するタイミングには気を付けてって言おうとしたのに…遅かったかぁ。」
穴の空いた天井を見上げながらウロクは呟くのだった。
◇
「いってぇ……」
教会の天井を突き破って床に激突した若者は頭を押さえながら立ち上がった。
「言ってなかったかしら?一応呪言だから着地の反動は保証できないって。」
「そういうことは、先に言って欲しかったよ……」
ゆっくりと浮遊しながら降りてきたシャルドネの遅い忠告に若者は愚痴った。
「あ、貴方は…!」
若者が顔を上げると、正面から声が聞こえた。若者が声が聞こえる方を見るとそこには、テーブルに鎖で繋がれた女性が居た。その女性を見て、若者は目を丸くした。
「君は、あの日森に居た……」
「や、やっぱり!貴方はあの時の狩人殿!また助けに来てくださるなんて……」
縛られながらも若者を見て安心するその黒髪の女性はあの日森の中で若者が助けた人、サファイア姫だった。
「デスペラに囚われているのか?」
「ええ……。森で貴方を探していたら……」
その言葉が終わるよりも早く、教会の奥から金属が軋む音が響いた。まるで誰かが鎖を引きずっているような、重い音。
「おーい。誰が水を差してきたのかと思ったら、シャルドネじゃないか~?」
若者達の背後から聞こえたその声は、どこか愉快そうで、同時に血の匂いを孕んでいた。振り替えると、霧のような白い男立っていた。腕は影のようにどこまでも伸びて、モーニングスターを回していた。
「……デスペラ。」
シャルドネが低く呟いた。
その名を聞いた瞬間、サファイア姫が怯えたように肩を震わせる。
「久しいなぁ、呪いの魔女。まさかまた“人間”なんて連れてくるとは思わなかったよ。前回、懲りたと思ってたんだがねぇ?」
「懲りるのはあんたの方でしょう? 前回は命拾いしただけでも運が良かったわ。」
「ははっ、口の減らない女だ。自己中的な欲求で俺様の封印を解いた癖にぃ?」
デスペラは笑いながら、鎖を引きずって一歩ずつ近づいてくる。その度に床の石が軋み、古い教会が呻き声を上げた。
「まあ、お前の事は最悪後でどうにでもなるけどぉ?」
デスペラは突然首を長くして若者の目の前に顔を近づけた。
「お前だけはシンプルに殺してやるぞ?あの男のそっくりさん。」
若者の胸に、祖父の姿が蘇る。そして帽子をぎゅっと掴み直すと、言葉は震えずに出た。
「もしお前が、爺ちゃんが仕留め損ねた相手なら……」
若者は恐怖を抑えて距離を取り、弓を構えた。
「僕がここで終わらせる。」
デスペラがにやりと口角をゆがめる。影の波が床から湧き上がり、若者の周囲をすり抜けていく。空気が冷たく震え、細かな埃が渦を描いた。
「ふん、いい度胸だ。爺さんの真似事は結構だが、血の香りだけじゃ骨まで踊らせられんぜ?」
デスペラの声は甘く、どこか愉快そうに響いた。だがその瞳の奥は、獲物を見つめる獣のように冷たかった。若者は震える指で弓の弦を引き絞った。弦の振動が指先から腕へ、そのまま胸の奥の鼓動と同期する。教会の暗闇は針の先のように研ぎ澄まされ、空気が軋むたびに影が歪む。シャルドネは若者の側で薄い光の輪を張った。
「いくぞ!」
シャルドネの細い声が確かな合図となった。その合図と共に若者はデスペラの胸に向かって矢を一本放った。だがデスペラはゆるりと右手を上げると、その指先から影が流れ出し、盾のように固まって飛んできた矢が刺さると、火花が弾け、重い音が響いた。
「はっはっは……痛いなぁ?」
デスペラの胸に刺さった矢は黒い煙に包まれて、そのまま消えてしまった。
「くそ。やっぱり普通の矢は駄目か。」
「ええ。だけどいきなり放てばアイツはおそらく避けてくるわ。どこか隙を見て……」
「仲良くお喋りしている場合か?」
シャルドネが若者に助言をしていた時、デスペラがモーニングスターを軽く振ると、鎖が空気を裂き、轟音が教会の中に響いた。
「くっ!」
シャルドネは咄嗟に若者と自分を囲むように魔法の壁を作ってモーニングスターの打撃を防いだ。鉄球がぶつかった瞬間、火花のような魔力が弾け、轟音と共に床がえぐれた。更に打撃は続き、壁の表面がひび割れて光が不安定に揺らいだ。
「防いだつもりか? 俺様の玩具をなめるなよ!」
デスペラが鎖を引き寄せ、もう一度振り上げた。次の一撃はさらに重く、壁の内側の空気が歪み、耳鳴りがした。
「駄目……このままじゃ…!」
シャルドネの声が震えた瞬間、バキィン! と乾いた音を立てて、魔法の壁に亀裂が走った。
ひとつ、ふたつ、そして無数の光の裂け目が広がっていく。
「終わりだッ!」
デスペラが笑いながら、鎖を勢いよく引き、モーニングスターの最後の一撃を叩きつけてきた。破裂音とともに壁が粉々に砕け散り、閃光と衝撃波が吹き抜け、二人はその衝撃波で奥の祭壇へと吹き飛ばされた。若者は吹き飛ばされながらも、タイミングよく地面に手をついて体勢を整えた。
その瞬間、デスペラの胸元で赤く光る塊が目に映った。
(あれが呪われたダイヤか!)
迷っている暇はなかった。デスペラがモーニングスターを振り回しながらゆっくりとこっちに近づいていた。若者は素早く弓を構え、矢筒に手を伸ばす。その中に一本だけ月光のように淡く光る“銀の矢”。先端には古い紋章が刻まれ、冷たく、触れただけで魔力を感じた。
(頼む……外すなよ。)
喉が焼けるように乾く中、若者は静かに弓を構えた。肩越しに風の音を感じ、時間が一瞬伸びたように遅くなる。
「くたばれ!」
その時モーニングスターを振りかざすデスペラの姿が目の前へ迫っていた。
「今だっ!」
手を離した弦が鳴り、銀の矢が放たれた。銀の閃光は空気を引き裂き、デスペラの胸へ正確に飛んで行った。
「ぐわっ!?」
デスペラの体がのけぞる。胸の呪われたダイヤにぐさりと刺さり、一瞬だけひび割れが走った。それと同時にデスペラは苦しそうに呻き声を上げた。
「やったわ!銀の矢が刺さってる!」
「ああ!」
勝利を確信するシャルドネと若者。しかし呻き声を上げていたはずのデスペラの声は笑い声へと変わっていた。
「はっはっは……なんだ今のはぁ?まさか今ので倒したと、思ってないよなぁ?」
ダイヤの周りに黒い煙が纏わり、効いたはずの銀の矢がどろどろに溶けて消えた。
「そんな……まさか効いてない?」
「いいや効いたとも?だけどシャルドネ。お前は一つ見過ごしていたようだな?」
その言葉に、シャルドネの目がわずかに見開かれた。
黒い煙が渦を巻くたび、ダイヤの内部で何かが蠢く無数の呻き、叫び、笑い声。
耳を澄ませば、そこには人ではない“何か”の魂が押し込められているのが分かった。
「……そういうことね。」
震える唇でシャルドネが呟く。
「どういうこと?銀の矢が奴の弱点じゃ?」
「普通ならね。だけど年月が経った今、ダイヤに宿る悪霊たちの怨念が奴の生命力そのものを強化しているわ。苦しむ魂が増えるほど、あの核は硬く、冷たく……決して砕けなくなる!」
「何っ!?」
若者は愕然とし、弓を握る手を見つめた。デスペラは愉快そうに肩をすくめる。
「そうさぁ!恐怖も痛みも恨みも全部、俺の“鎧”になるってわけだ。なあ、お嬢ちゃん?」
デスペラがサファイア姫を撫で下ろしながら言った。デスペラの長い手に触られたサファイアは恐怖で涙を浮かべていた。
(あの人の恐怖で更に強くなっているのか!)
デスペラの笑い声が低く響くと、教会のステンドグラスがビリビリと震える。次の瞬間、床の影が一斉に動き出す。まるで黒い手が無数に伸び、二人の足を掴もうとするかのようだった。
「くっ、下がって!」
シャルドネが杖を振るい、青白い炎の輪を展開する。影の腕が燃え上がるが、焼けたそばから別の影が湧き出してくる。
「止まらない……! 一体どれだけの魂を喰らったの!?」
「数なんざ覚えてねぇなぁ。ただ、食えば食うほど腹は減るもんだ。」
デスペラの口元が異様に裂け、笑い声と共に黒煙が噴き上がる。その煙は次第に形を持ち、巨大な腕のように変じて天井を突き破った。破片が降り注ぎ、シャルドネは若者を庇って床に転がる。
「シャルドネ!」
若者が叫ぶ間もなく、鎖がうなりを上げて二人の間を裂いた。モーニングスターが振り下ろされ、石の床が強く抉れる。衝撃波だけで若者の体が吹き飛び、背中が祭壇の柱に叩きつけられた。若者の口の中に血の味が広がる。立ち上がろうとするが、腕が震えて言うことを聞かない。
「おいおい、もう終わりかぁい?」
デスペラは獣のような動きで距離を詰め、モーニングスターを地面に叩きつける。教会全体が軋み、壁の聖像が崩れ落ちた。
「……まだ死ぬわけにはいかない。」
若者が必死に矢筒へ手を伸ばす。だが、すでにデスペラの鎖が蛇のようにうねって若者の周りを囲んでいた。それに銀の矢はもう無い。弱点を突く術はなかった。
「もう少し見せてくれよ?絶望する顔ってやつをなぁ?」
デスペラの瞳がぎらりと光る。黒い影が天井まで満ち、光が一瞬で飲み込まれた。
若者はシャルドネの方を見た。しかしシャルドネは今の衝撃で体力を消耗し、立ち上がれる状態ではなかった。しかもデスペラの放った黒い影が彼女の足に絡み付いて飲み込もうとしていた。
「あばよ“狩人の孫坊主”!」
デスペラがモーニングスターを振りかぶった。鎖が軋む音が、死刑宣告のように響いていた。
「狩人殿!」
その時、鎖に繋がれていたサファイア姫が必死に声を張り上げた。
「そのレイピアを使ってくださーい!」
「え?」
若者が目を向けると、彼女の鎖で繋がれた指が、若者の腰に吊るされたレイピアを指していた。
「それも……銀です!不純物の無い正真正銘の……鋭さも折り紙付きで頑丈な!」
「これが……分かった!」
若者はすぐに腰のレイピアを抜いた。銀の刃が教会の青白い月光を反射し、残響のように光を散らす。
「ははっ、シャルドネが呪言を唱えられないところで今さらだ!」
デスペラがモーニングスターを豪快に振るう。鉄球が宙を裂き、若者の頭上を掠めた瞬間、彼は床を滑るようにかわした。
次の一撃。振り抜かれる鉄球を身を低くして潜り抜け、刃の腹で鎖を弾く。火花が散り、空気が震えた。
「ちょこまかと動きやがって!」
「まだだ!」
若者は足元を蹴り、教会の柱を駆け上がるようにして跳躍した。レイピアの刃に刻まれた緑の文字が淡く光り出す。
それは、矢を撃つ時にシャルドネの呪言が弦に移っていたからだった。
(これに全てをかける……!)
若者は瞬時に判断した。弓を背から取り、弦を強く引く。そして、レイピアの刃をその弦に掛けた時、銀の矢にも刻まれていた呪言がレイピアに刻まれていった。
「小癪なぁっ!」
デスペラが怒号とともにモーニングスターを横薙ぎに振るう。
鉄球が轟音を立てて飛来し、石畳を砕きながら火花を散らした。しかし若者の姿はすでにそこにはない。
「こっちだ!」
声が響いた瞬間、彼は柱を蹴って宙を舞っていた。銀のレイピアが弦に掛かり、張り詰めた空気がビリビリと震える。緑の呪文が刃の上を奔り、刃全体が淡い光を帯びた。
シャルドネの魔力と、彼自身の意志が共鳴する。
「さらばな悪霊共!」
その言葉と共にレイピアを弦から放った瞬間、閃光が走った。刃がまるで矢のように空を裂き、デスペラの胸元へ一直線に突き刺さる。そこに黒く濁り、ひび割れていた呪われたダイヤがはめ込まれていた。
「ぐ、ぬぅぅっ……な、なんだこの光はっ!?」
ダイヤの中で、黒い影が暴れ狂い、やがて裂けるように爆ぜた。呪詛が霧散し、教会全体を包んでいた闇が一瞬で晴れていく。デスペラは本気で呻きながら、鉄球を取り落とした。若者は荒く息を吐きながら、ゆっくりと地に降り立った。呪われたダイヤに刺さったレイピアの刃先からは、まだ微かに銀と緑の光が揺らめいていた。
「俺様が……こんなガキにぃぃぃぃ!!!」
デスペラは叫びながら、崩れ落ちるように膝をついた。砕けていくダイヤの中で黒い影が暴れ狂い、内側から裂けるようにひび割れていく。やがて、轟音とともに黒煙が吹き上がった。
「俺の体が…体がぁぁぁぁぁ!?」
そしてデスペラの全身の霧を形成していた呪われたダイヤがひび割れた所から徐々に崩れ落ちていく。同時にデスペラの霧も消え始めていた。
「うわぁぁぁぁっ!!」
デスペラは自分の腕を掴み、霧の一部を抑えようとしたが、霧の方が先に消え、霧で形成していた腕が消え落ちていく。骨のような黒い残骸が一瞬だけ形を保ち、次の瞬間には灰になって風に舞った。
「お、俺は……俺は……最恐の悪霊……」
その声はもう、地に届くことはなかった。最後のひと欠けらのダイヤが粉々に砕け、爆ぜるような音とともにデスペラの姿は完全に霧散した。残ったのは、かすかな焼け焦げた臭いと、床に残る黒い影の跡だけ。床に落ちたレイピアの刃先で最後の黒煙が淡く揺らめいたが、やがて完全に消えた。
「……終わったのか?」
若者が呟いた瞬間、背後で微かな声がした。
「ええ……よくやったわ……」
見ると、シャルドネが壁際に座り込みながら微笑んでいた。そして、鎖の切れたサファイア姫がゆっくりと立ち上がり、青い瞳に涙を浮かべていた。サファイア姫は、鎖の落ちた音を確かめるように両手を見つめた。震える指先で頬をなぞり、零れた涙をそのままに、二人の方へ歩み寄る。
「本当に助けてくださったのですね……」
その声はかすれていたが、確かに喜びと安堵が混じっていた。
「怖かった……もう、永遠に光なんて見られないと思っていました……」
彼女は唇を震わせながら、シャルドネと若者を順に見つめた。
「あなたたちが来てくれなかったら……私はきっと……あの闇の中で……」
そこで言葉が途切れ、姫は堪えきれずに涙をこぼした。若者は困ったように微笑みながら一歩前に出た。
「もう大丈夫だ。あいつはもう……現れることはない。」
「ありがとう。本当に……ありがとう。」
サファイア姫は両手で胸を押さえ、深く頭を下げた。その姿に、教会の割れたステンドグラス越しの月光が静かに降り注いでいた。




