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手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜  作者: やっくん


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6話 私だけが知っていること

――麻草結(あさくさ ゆい)視点―― 


 十二時になり、お昼のチャイムが鳴った。


 今日はお弁当を作れなかったのでコンビニに行くことにした。


 工業団地のコンビニは会社から歩いて十五分。行って帰ってくるとお昼休みが半分なくなってしまうのでみんな車で行く。私は免許を持っていないのでいつも歩きだ。


 コンビニでサンドイッチとヨーグルトを買って、袋を提げて戻る。


 空を見上げるとよく晴れていた。


 ……そういえば。


 会社の裏の林、抜けられるって前に誰かが言ってたっけ。


 正門まで回ると遠回りだけど、林を突っ切ればすぐ社屋の裏に出るらしい。


 行ってみようかな。


 どうせ食べる時間が短くなるだけだし。


 私は舗装された道を外れて雑木林のほうへ入った。


 落ち葉を踏む音がぱりぱりと足元で鳴る。木漏れ日が地面に丸い光をいくつも落としている。


 思ったより気持ちいい。今度から晴れた日はこっちにしよう。


 そんなことを考えながら、少し奥まで進んだときだった。


「うぅぅぅぅん……ッ」


 ……え?


 私は足を止めた。


 人の低い唸るような声がした。


 木の間からそっと覗くと、開けた場所に男の人が立っていた。


 白いワイシャツ、袖をまくって、ネクタイを緩めて、腰を落としてる。


 両手を体の前でボールでも抱えるみたいに構えている。


 顔を見て息が止まりそうになった。


 ……大葉さん?


「うぅぅぅぅぅぅん……ッ!」


 大葉さんが唸ってる――すごく真剣な顔で。


 目を閉じながら歯を食いしばって全身に力を込めている。


 たぶん今まで見た中でいちばん真剣な顔。


 その両手には何も持っていない。


 何もないんだけど、大葉さんはそこに何かがあるみたいに構えている。


 ……えっと。


 何を見てるんだろう、私。声をかけたほうがいいのかな。でも何て。あの、大丈夫ですか。何をされてるんですか。なんてどっちも聞けない。


 そうこうしてると、大葉さんが右足を踏み込んだ。両手をまっすぐ前に突き出して。


「猛虎・黒炎波――ッ!!!」


 林の中に大葉さんの声が響き渡った。


 鳥が数羽、飛び立った。


 風がひゅるると吹いて、葉っぱが一枚落ちた。


「……」


 もうここくえんは。


 猛った虎、黒い炎って意味なのかな……


 あ、たぶん漢字はこう書くんだろうな、と、私はなぜかそんなことを考えていた。


 大葉さんは突き出した手をそのままにして、しばらく止まっている。


 ああ、なんだろう、見ちゃいけないものを見てる気がする……


 今すぐ引き返そう。まだ気づかれてない。そっと下がって、正門から回れば――


 そう思ったときだった。


「うぉ!?」


 大葉さんが急に後ろを振り向いた。


 私は木の陰でびくっとしたけど、彼が見ていたのは私ではなかった。


 誰もいない木の枝のあたり、そこに向かって大葉さんは話しかけ始めた。


「いたのかよ」


「……」


「いつから」


「……」


「なんで黙って見てたし」


 誰と話してるんだろう。


「居合抜きだけど」


 誰もいない空間に向かって大葉さんは律儀に答えている。


 あ、さっきの構えって居合の構えなんだ。ってそういうことじゃなくて。


「そもそもなんでここが分かった」


 会話がずっと続いている。


 間の取り方が自然すぎる。きっと普段からこういうことやってるんだ……


 私の背中に冷たいものが伝った。


 大葉さん、疲れてるのかな。ずっと一人でみんなの尻ぬぐいしてるから。誰にも頼らないから。だからついに――


「なぁ、出せるのか! 俺の必殺技ッ!」


 大葉さんは何もない空間に顔を近づけて、必死に何かを問い詰めている。あの、いつも冷静で涼しい顔で仕事をしている大葉さんが。


 そして――


 突然、両手を高く突き上げた。


「ま、まじかぁ!」


 子供みたいに笑ってる。


「仕事終わりにもっかい挑戦だぁ!!!」


 もっかいやるんだ……


 ――ぷっ。


 やばい。私は慌てて口を押さえた。


 だめだめだめ、笑っちゃだめ。我慢して、私っ!


 ……ふぅ………なんとかおさまっ――


「――ガサッ」


 あ。


 枝を思いっきり踏んでしまった。


 大葉さんが突き上げた両手をそのままの姿勢で止めた。


 そして、ゆっくりとこっちを向く。


 目が合っちゃった。


 「…………」


 どうしよう。


 どうしようどうしようどうしよう。


 顔が一瞬で熱くなった。


「……あ、あの」


 なにかしゃべらなきゃ……


「お、お邪魔してすいませんっ!」


 私は勢いよく頭を下げた。


「あ、いや」


「わ、私、コンビニの帰りで、近道しようと思って、それで、あの」


 言いたいことが全然まとまらない。


 全部見てました。構えるところから、叫ぶところから、イマジナリーの会話から、最後の万歳まで、全部。


 でも、それを言ったら大葉さんが。


「見てません! なんにも見てませんから!」


 ふぅ、一番に言いたいことがきちんと言えた。


「じゃ、じゃあ失礼しますっ!」


 私はもう一度頭を下げてから走った。たぶんこの二年でいちばん速く走った。


 落ち葉を蹴散らして、枝をよけて、コンビニの袋を胸に抱えたまま林の中を走った。


 まもなく息が続かなくなって立ち止まった。


 膝に手をついて、はぁ、はぁ、と肩で息をしてしまう。


 ……あれ。


 顔を上げて、あたりを見回した。


 ……ここどこ。


 結局、正門まで大回りする羽目になった。


◇


 会社に戻ったのは、お昼休みが終わる五分前だった。


 昼食を取る時間はないので、サンドイッチは机の引き出しにしまった。


 パソコンを立ち上げて、私は思い出した。


 思い出したくないのに勝手に再生される。


 腰を落として、両手を構えて、真剣な顔で唸っている大葉さん。


 誰もいない空間に向かって喋っている大葉さん。


 そして両手を突き上げて、子供みたいな声で叫んでいた大葉さん。


『仕事終わりにもっかい挑戦だぁ!!!』


 だめだ。思い出すたびに口元がゆるむ。


 私はオフィスの中で、マスクで口元を隠してしばらく笑っていた。


 だいぶ落ち着いたのでマスクを外した。


 なんだろう、この感じ。


 さっきまで、私は大葉さんのことを、すごい人だと思っていた。


 冷静で、何でも知っていて、誰かが困ってると横にいて、十秒で解決して、お礼も受け取らずに戻っていく人。


 私もいつかあんなふうになりたい、って、今日の朝も思った。


 思って、それから、少しだけ苦しかった。


 だって私、今日データを消したばっかりだし、九州に倉庫があることも知らなかったし、入社二年目で、まだ何にもできないから。


 あんなふうになれる日なんて、来るのかな。


 そう思ってた。


 ……なのに。


 あの人、昼休みに、会社の裏で、上着を丁寧にたたんで、必殺技の練習してた。


 しかも本気で。


 しかも出なくて。


 しかも「仕事終わりにもっかい挑戦だぁ」って言ってた。


 ――ふふっ。


 なんだ。


 大葉さんも、普通の人なんだ。


 いや、普通ではないかもしれないけど。


 でも、完璧な人じゃなかった。ちゃんと変なところがある人だった。


 そう思ったら、なんだか胸のあたりがすとんと軽くなった。


 あ。


 大葉さんの午後イチの営業、うちの資料が要る案件だ。


 私は慌てて書類を出して、部数を確認して、順番を並べ替えて、クリアファイルに入れた。


 大葉さんの机に置く。


 置いてから、しばらく立ち尽くした。


 どうしよう。


 このまま何も言わずに置いていいのかな。さっきのこと、謝ったほうがいいのかな。勝手に見てしまってすみませんでしたって。


 ……いや。


 それを書いたら、大葉さんは「見られた」って確定してしまう。


 きっと見られていないと思ってるだろうから、私が「見てません」って言って、そのあと謝ったら全部台無しだ。


 じゃあ、どうすれば。


 私は付箋を一枚取って、ペンを持った。


 考えて、考えて。


 結局、いつも通り『準備できてます! いってらっしゃい!』と書いた。


 うん。これでいい。


 私は付箋をクリアファイルに貼った。


「麻草さん、これから来客用の備品買ってきてくれない?」


「あっ、はーい! わかりました」


 声をかけられて、私は慌てて席に戻った。


◇


 買い出しが終わっていつもの業務に戻ったが、正直あんまり仕事に集中できていなかった。


 伝票を打ちながら、ときどき手が止まる。


 大葉さん、あの付箋、見てくれたかな。


 変に思われてないかな。


 ……というか。


 あれ、なんなんだろう。


 なにかを出す練習、誰もいない空間との会話、そして――


『仕事終わりにもっかい挑戦だぁ!!!』


 ……仕事終わり。


 今日の仕事終わりに、どこかでまたやるってことだよね。


 私はキーボードから手を離して、窓の外を見た。空はまだ明るい。




 ……見たいな。




 えっ。


 いや、待って、今なんて思ったの私。見たいって思わなかった? なんで?


 自分で自分のことがわからない。


 あの人が一人で唸って叫んでるのをなんで見たいの?


 私はぶんぶんと首を振って、伝票に向き直った。


 だめだめ。そんなの完全に不審者だ。会社の先輩をつけるとか、そんなの絶対だめ。


 ……でも。


 わたしだけが知ってる大葉さんの秘密。


 ――カタッ。


 マウスが手から滑って机の上で音を立てた。


 私は顔を上げて斜め向かいの営業の島を見る。


 大葉さんの席は空っぽだった。


 ……今日、あと何時間だろう。


 私は時計を見上げた。


 午後三時十二分。定時まで、あと二時間弱。


 なんだか、今日はいつもより時間が長い気がした。


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