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手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜  作者: やっくん


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5話 クールでかっこいい先輩

――麻草結(あさくさ ゆい)視点――


 この会社の総務に入ってもうすぐ二年になる。


 電話の取り方も覚えた。請求書の締めも、経費精算も、来客のお茶出しも、もう先輩に確認しなくてもできる。


 少しは慣れてきたかな。


 なんて思っていた矢先だった。


「……えっ」


 共有フォルダを開いた画面が真っ白だった。


 いや、正確には真っ白ではない。フォルダはあるけど中身がない。


 先月分の請求書データ――八十七件が全部。


「……あれ?」


 マウスを何度かクリックする。更新して、もう一度開いてみる。


 やっぱり、ない。


 背中がすうっと冷たくなった。


 まずいよぉ……これ、私が消したんだ。たぶんさっき整理しようとしてドラッグしたときだ。


「どうしよう……」


 社員共有のデータだから私だけの問題じゃない。経理の花田さんも、営業の人たちも、全員が見るファイルだ。


 どうしよう。どう謝ろう。まず誰に言えばいいの。花田さんは今日、外出してる。じゃあ課長。でも課長、朝から機嫌が――


「どうかしたの」


 振り返ると営業の大葉さんが立っていた。


「あっ、大葉さん……あの、請求書のデータが……」


 彼は私の椅子の後ろに立って、モニターを覗き込んだ。


「消しちゃったんです、たぶん私……」


「うん」


 それだけ言って大葉さんは私の横からマウスに手を伸ばした。 


 カチ、カチ。


 ゴミ箱フォルダが開いた。


「あ」


 あった、全部ある。


「先月の分だよね」


「は、はい」


 カチ、カチ、カチ。


 選択して、右クリックして、元に戻す。


 終わり。


 ……十秒。たったの十秒だった。


 私があれだけ絶望していたものが、ものの十秒で戻ってきた。


 画面の中に、八十七件のファイルが何事もなかったみたいに並んでいる。


 あぁ……。


 助かったよぉ……。


 肩から力が抜けて椅子の背もたれに寄りかかりそうになった。誰にも迷惑をかけずに済んだ。それだけで泣きそうになる。


「ゴミ箱、三十日は残るようになってるから。慌てなくて大丈夫」


 大葉さんはそう言って、もう自分の席に戻ろうとしていた。


 慌てて顔を上げる。


「……あ、ありがとうございます」


 彼は軽く手を上げただけだった。


 振り返りもしない。


 ……かっこいい。


 いや、そうじゃなくて。


 助けてもらったのに、私、ちゃんとお礼できてない気がする。今度お菓子でも持っていこう。あの人、甘いもの食べるのかな。


◇


 時刻は十一時。


 営業の島のほうがなんだか騒がしくなってきた。


「……納期、間に合わないっすわ」


 受話器を置いた男の人が頭を抱えている。


 ええっと、名前は――なんだっけ。


 あ、そうだ。真庭くん。


 私と同期で入ってきた人だ。何度か食事に誘われたけど、なんとなく軽い感じがして結局全部断ってしまった。悪い人ではないと思うんだけど。


 その真庭くんのところに大葉さんが顔を向けた。


「どこの案件」


「西谷ホームさんです。来週の水曜に十台って言われて」


 トラブルかな。


 私はキーボードを打つ手を止めないまま、つい耳を傾けてしまった。


 どうやら、注文が入ったのに近くの工場に在庫がないらしい。水曜までに十台。


「型番は」


「R-420です」


 大葉さんは自分のモニターに向き直って、マウスのホイールを回している。


 カラカラ、カラカラ。


 三秒くらいだったと思う。


「九州に残ってるよ」


「えっ、でも九州からだと」


「今日中に手配かければ火曜の午前には着くかも。倉庫の田淵さんに直で連絡してみて。俺の名前出していいから」


 ……えっ、九州……


 私、この会社の倉庫が九州にあることすら、今初めて知った。


 真庭くんもぽかんとしている。


「……大葉さん、なんで在庫の場所まで覚えてるんすか」


「たまたまね」


 たまたま?


 たまたまで他県の在庫台数まで出てくるわけないじゃないですか。


 大葉さんはもう次のメールを打ち始めている。今のやりとりが、彼の中では終わったことになっている。


 すごい。なんかもう、単純にすごい。


 うちの会社、大葉さんがいなかったら回らないんじゃないかな。営業成績で一番になったりはしないけど、誰かが困ってると、いつのまにか横にいていつのまにか解決してる。


 みんな気づいてないけど、私だけは彼のすごさを知っている。


 私も、いつかあんなふうになりたい。


 落ち着いてて、涼しい顔で、必要なことだけ言って、さっと解決して、ありがとうも受け取らずに戻っていくような。


 クールで、かっこいい、あんな――


 あ。


 目が合った。


 私は慌てて画面に向き直った。


 心臓が変な打ち方をしている。


 ……見てたのバレた?


 いや、たぶん一瞬だし。たまたま顔を上げただけかもしれないし。


 でも私、今どれくらい見てたんだろ……五秒? 十分?


 変な女だと思われてないかな……


 私はキーボードを打つふりをしながら、しばらく顔を上げられなかった。

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