第一幕 九
翌朝、レオンは早くから身支度を整えていた。
華の部屋の前で、自分を指す。次に、廊下の先と階段の方を指した。二本の指を少し歩かせてから、胸元へ戻す。
どこかへ出て、戻る。
たぶん、そういうことだ。
華は扉のそばで、黒い板の入った布袋を握っていた。
レオンは華の手元を見た。布袋を指し、次に下の階を指す。それから、鍵を持つ華の手を一度見た。
言葉は分からない。
けれど、宿の中なら、昨日までに見たものがいくつかある。帳場。食堂。水差し。鍵。
華は小さく頷いた。
レオンはそれ以上何もせず、階段の方へ歩いていった。
*
しばらくしてから、華は部屋を出た。
扉を閉め、鍵を回す。もう一度取っ手を引いてから、鍵を布袋へしまった。
廊下には誰もいない。
階段を下りると、昨日見た長い卓の部屋から、人の声がした。食べ物の匂いもする。
華は入口の脇で立ち止まった。
卓には、何人かが座っていた。木の杯。平たいパン。湯気の上がる器。帳場の女が、奥から運んできた皿を置いている。
レオンはいない。
華は空いている卓の端へ座った。
昨日の朝、レオンが帳場で頼んでいたものが、ここへ来るのかもしれない。けれど、待っているあいだに喉が渇いた。
帳場の女がこちらを見る。
華は布袋を開けた。
黒い板の水の印を探す。昨日写した形は、少し端に寄っている。白い棒で、その隣にもう一度同じ印を書く。
女は板を見た。
すぐには動かない。
華は板を持ったまま、自分の前に置かれた空の杯を指した。次に水の印を指し、杯へ戻す。
女の視線が、杯と板のあいだを往復した。
何かを言って、奥の棚を指す。
華はそちらを見た。棚の上には、水差しが並んでいる。けれど、どれを使っていいのか分からない。
女は水差しを一つ持ち上げ、杯へ注ぐ仕草をした。
華は少し息を吐いた。
女が水差しを持ってきて、華の杯へ水を注ぐ。
華は両手で杯を持った。
女へ頭を下げる。
礼が通じたかは分からない。女はもう一度、板の水の印を見た。それから、自分の指で印をなぞるようにして、短い音を言った。
華はその音を聞いた。
昨日レオンが水差しを指して言った音と、同じだった。
華も、同じ音をまねた。
*
パンと、温かい器が運ばれてきた。
女は皿を置き、指を二本立てた。それから、華と、空いている向かいの席を見る。
レオンの分もあるらしい。
華は頷いた。
パンを一口ちぎる。昨日までに食べたものと同じ固さだった。水を飲むと、口の中が少し楽になる。
窓の外を、人が通っていく。
ここにいる人たちは、華が何者かを知らない。
華も、彼らが何を言っているのか知らない。
それでも、杯の水は手元にある。
レオンを呼ばずに、ひとつだけ用を済ませた。
できることが増えたというほどではない。水がほしいと伝えただけだ。
知らないことの方が、まだずっと多い。
華は黒い板を卓の端へ置いた。
水の印の横に、木の杯らしい形を描き足す。
*
レオンが戻ったのは、華が器を半分ほど食べたあとだった。
扉を開けて中を見回し、すぐに華を見つける。
卓の上には、空いた杯と、水の印が残った黒い板があった。
レオンは向かいの席へ座る。華の前の水差しを見てから、板を見る。
華は板の水の印を指し、杯を指す。それから、自分の胸を指した。
レオンは華の手元を見た。
帳場の女の方へ目を向ける。女は皿を運びながら、こちらへ短く何か言った。
水を頼んだのだろう。
レオンは華へ目を戻した。
驚くほどのことではない。宿の中で、水を一杯もらっただけだ。
ただ、次に朝を迎えたとき、華の喉が渇いたら、自分が先に水差しを持って部屋へ行かなくてもいい。
それだけのことが、一つ増えた。
レオンは自分の杯を取った。
華は黒い板を布袋へしまい、もう一口、水を飲んだ。




