第一幕 六
翌朝、華は黒い板を卓の上へ置いた。
隣には、見慣れない文字の並んだ薄い板がある。
夜のうちに、何度か指でなぞってみた。角の丸いもの。線が交わっているもの。日本語の文字とは、どれも形が違う。
読めない。
けれど、見た順番まで失わずに残せる。
華が板を見ていると、扉の外から短く声がした。
「ハナ」
鍵を開ける。
レオンは片手に水差しを持っていた。もう片方には、小さな布袋がある。華が扉を開けると、彼はいつものように、先に中へ入ろうとはしなかった。
華が卓のそばへ戻ると、レオンも入ってきた。
水差しを卓へ置く。木の杯へ水を注ぎ、自分で一口飲んでから、華を見る。
次に、黒い板を指した。
白い棒を手に取る。
水差しを指し、短い音を二度言った。
華はその音を聞いた。意味は分からない。だが、レオンは水差しを見ている。
レオンは黒い板へ、小さな印をいくつか書いた。隣の薄い板にも、同じ形がある。
それから、また水差しを指す。
華は板の端に、さっきの印を写した。形が少し歪んだ。
レオンはそれを見て、すぐには何も言わなかった。もう一度、水差しを指して同じ音を言う。
華も、その音をまねた。
喉の奥で転がすような音になった。合っているかは分からない。
レオンの眉が少し動いた。違うと言っているのか、聞こえたと言っているのか、それも分からない。
ただ、彼はもう一度だけ音を言った。
華は水差しの脇へ、その印を残した。
次にレオンは、布袋から平たいパンを出した。同じように指し、音を言い、板へ印を書く。
華は水の印とパンの印を見比べた。
音。物。形。
三つを同じ場所に置けば、後からでも確かめられる。
分かる言葉は二つにもなっていない。それでも、ただ聞き流すよりはましだった。
華は白い棒を持ったまま、レオンを見る。
自分を指す。水差しを指す。次に板へ印を置く真似をする。
レオンは少し待ってから、頷いたように見えた。
*
宿を出る前に、レオンは黒い板と白い棒を布袋へ入れた。
華が自分の鍵を持つのを確かめ、それから通りの方を指す。
行く。
華は杖を取った。
朝の通りは、昨日より人が少なかった。店の前で板を開く者。桶を並べる者。火の入っていない屋台を拭く者。店先の硝子灯りだけは、夜と同じように光っている。
レオンは人の流れを避けながら歩いた。華の少し横を行き、ときどき後ろを振り返る。
市場の端で、彼は低い石造りの建物へ入った。
入口の上には、剣とも秤ともつかない形の板が掛かっている。
レオンは華を指し、建物の外側に置かれた長椅子を指した。次に、片手を開いて見せる。
ここで待つ。
たぶん、そういうことだ。
華は建物の中を見た。奥には帳場があり、数人が立っている。壁には紙のようなものが何枚も貼られ、その前で二人の男が指を動かしていた。
何の場所かは分からない。
華は長椅子に座った。
レオンは中へ入った。
扉が閉まっても、彼の姿は窓越しに見えた。帳場の男へ何かを渡す。男は帳面を開き、紙片へ印をつけた。レオンが腰の小袋から、革紐に通した小さな板を出す。
男はそれを確かめて返した。
しばらくして、帳場の下から金属片が出てきた。レオンは数を確かめ、袋へ入れる。
昨日、宿で硬貨を置いた手つきと同じだった。
ここで暮らすには、食べ物を買うためのものがいる。
レオンは、それをどこかから受け取っている。
助けてくれる人である前に、こうして人と話し、何かを渡し、何かを受け取って生活している。
華は膝の上で布袋を握った。
中には黒い板と、白い棒がある。
自分にはまだ、あの帳場で渡せるものがない。
だからまず、渡されたものを使う。
レオンが建物から出てくる前に、華は布袋の口を閉じ直した。




