第一幕 五
扉が閉まると、廊下の音が遠くなった。
華はしばらく、鍵を差したまま立っていた。
重い扉だった。さっきレオンが見せた通りに動かしたはずだが、もう一度だけ取っ手を引く。開かない。
それから鍵を抜いた。
部屋は狭かった。壁際に寝台が一つ。小さな卓と椅子。窓には木の板戸があり、向かいの壁には硝子に包まれた灯りがある。昼間なのに、淡い光は消えていなかった。
荷物はない。
森で目を開けたときから、何も増えていない。
華は上衣のポケットへ手を入れた。
スマートフォンがあった。
画面に細い傷が走っている。電源を入れると、見慣れた明かりが手のひらを照らした。時刻と日付。残っている電池の印。けれど画面の上には、つながる相手がいないことを示す印が出ていた。
窓のそばへ行って、もう一度見る。
変わらない。
連絡先を開く。家族の名前。友人の名前。職場の連絡先。
どれも、押しても届かない。
華は画面を消した。
財布もあった。中には紙幣と硬貨、何枚かのカード。日本でなら、どこへ行くにも困らなかったものだ。
ここでは、レオンが帳場へ置いた金属片と、形も色も違う。
腕時計はない。いつもならスマートフォンで時間を見れば済んだ。けれど今は、その時刻が何を示しているのかも分からない。
連絡する相手はいる。
心配している人も、いるかもしれない。
その人たちが、自分がいなくなったことをもう知っているのか。何を探すのか。何も確かめられない。
考えても、今の場所からできることはなかった。
華は財布を閉じ、スマートフォンの電源を落とした。使えないまま電池だけを減らすより、残しておく方がいい。
卓の上へ置いたものを、ひとつずつ見た。
スマートフォン。財布。鍵。
どれも手元にはあるのに、今すぐ自分を助けるものではない。
言葉が分からない。払うものがない。食べ物を頼むことも、水をどこで手に入れるのかも知らない。外へ出たとして、戻る場所を人に伝えられるかも怪しかった。
レオンについてきたことは間違っていなかったと思う。
だが、彼についていれば済む話でもない。
この世界で生きるなら、知らないままのものを減らさなければならない。
*
扉を叩く音がした。
華は顔を上げた。
「ハナ」
レオンの声だった。
鍵を持って扉へ行く。さっきと同じように鍵を差し、回す。扉を少し開けると、レオンが廊下に立っていた。
片手には、布に包んだものがある。もう片方には、小さな革袋と、薄い板を二枚抱えていた。
華が扉を開けたままでいると、レオンは中へ入ろうとしなかった。
布包みを持ち上げてから、卓を指す。
華は少し迷って、扉から離れた。卓のそばへ戻る。
レオンはそこまで来て、布を置いた。中には平たいパンと、湯気の消えかけた器が入っていた。革袋からは、木の杯と小さな布が出てくる。
食べるものと、使うもの。
その程度なら分かる。
最後に、レオンは薄い板を一枚、卓の上へ置いた。片面は黒く、角に白い粉が残っている。もう一枚には、見慣れない文字がいくつか並んでいた。
レオンは黒い板を指した。次に、指先で何かを書くような動きをする。
華は板を見た。
文字を書くためのものらしい。
ただし、書けたとしても、この人には読めない。
華が顔を上げると、レオンは自分を指し、短く何か言った。それから板を指したまま、待っている。
何を渡されたのか、まだ全部は分からない。
けれど、何も分からないまま世話を受けるだけではなく、自分から示せるものを作ろうとしているらしかった。
華は黒い板へ手を伸ばした。
指先に、白い粉が少しついた。




