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第一幕 四

 昼を少し過ぎたころ、荷馬車は低い丘を越えた。


 前を歩いていたレオンが、道の先を振り返らずに片手を上げる。


 華は荷台の縁を掴んだまま、そちらを見た。


 木立の切れた向こうに、石の壁があった。


 森の端から端まで続くほど高い。壁の内側には、屋根が重なっている。尖ったもの、平たいもの、煙を吐くもの。壁より高い塔の上には、風に揺れない旗のような布が見えた。


 あれが街なのだと思った。


 近づくほど、道を行く人が増えた。


 前から来る荷車。背に籠を負った女。馬に似た獣を引く男。華より小さな子どもが、桶を抱えて大人のあとを走っていく。誰もが壁の門へ向かうか、そこから出てきていた。


 門の手前には、荷馬車が何台か止まっていた。


 待っているらしい。


 先頭の馬車から声が飛ぶ。門の脇に立つ者が、荷へ目を走らせ、何かを書きつける。次の馬車が進む。


 ただ通り抜けるだけの場所ではない。


 レオンは荷馬車の横へ寄り、御者と短く話した。華の方を見て、掌を下へ向ける。


 待て、ということらしい。


 華は頷いた。


 レオンは門の方へ行った。途中で、革の紐に通した小さな板のようなものを取り出す。門番らしい男がそれを受け取り、片面を確かめてから返した。


 言葉は分からない。


 けれど、男はレオンを止めなかった。レオンも、説明を求められて困っている様子はない。


 華は、門の中を見た。


 石壁の厚みのあいだに、木の扉が開いている。その上の梁には、昼なのに白い灯りがあった。炎のように揺れてはいない。硝子の覆いの中で、淡い光だけが保たれている。


 門番のそばにいた別の男が、壁際の箱へ黒い石を一つ差し込んだ。何かを確かめるように手を添える。少しして石を抜き、帳面へ印をつけた。


 誰も驚かない。


 火をつけたときのレオンも、あの光も、同じものなのかもしれない。


 華の知っている技術ではない。


 けれど、珍しい見世物でもなかった。門を通すための手順の一部として、そこに置かれている。


 魔法。


 そう呼ぶのがいちばん近い気がした。


 ただ、その言葉で分かったことは、ほとんどない。誰でも使えるのか。石は何なのか。あの光が消えたら、門はどうなるのか。


 答えは、壁の向こうにあるのかもしれなかった。


 荷馬車が進む。


 華は揺れに合わせて、門をくぐった。


     *


 壁の内側は、思っていたより音が多かった。


 車輪の音。呼び売りの声。どこかで金属を叩く音。焼いたものの匂いと、獣の匂いと、濡れた石の匂いが混じっている。


 道の両側には店があった。布を垂らした台に果物らしいものを積んだ店。革の靴を並べた店。開け放した扉の奥で、二人の男が金属の輪を叩いている工房。


 人は立ち止まり、品を見て、何かを渡して、また歩いていく。


 その流れの中に、術式らしいものも混じっていた。


 通りの角に、屋根だけ深く張り出した建物がある。中には台が並び、台の向こう側では、数人が石や小さな金具を扱っていた。手元に淡い光が生まれるたび、壁に沿って続く細い金属の筋が短く明るくなる。


 水を入れた桶を抱えた女が、台の前で待っている。


 順番が来ると、台の向こうの男が桶を覗き込み、何かを言った。女は小さなものを渡した。男が光る金具へ触れる。女は桶を受け取って去った。


 後ろには、まだ何人も並んでいる。


 火を起こすためだけの力ではない。


 誰かが毎日使い、誰かが扱い、待つ順番や払うものまである。


 華は、荷馬車の縁を掴んだまま、建物が見えなくなるまで振り返った。


 この世界には、知らないものが一つあるのではない。


 知らないものを使って、人が暮らしている。


 レオンも、その中の一人だった。


     *


 荷馬車が市場らしい広場の端で止まった。


 御者たちは荷紐を解き始める。レオンがこちらへ来た。


「ハナ」


 華の名を呼んで、荷台を指す。それから自分の胸を叩き、道の先へ手を向けた。


 行く。


 たぶん、そういうことだ。


 華は毛布と杖をまとめた。荷台の縁へ手をかけると、レオンは先に地面を指しただけで、手を差し出さなかった。


 自分で降りる。


 華は足場を確かめてから、地面へ下りた。


 街の石畳は、森の土より平らだった。けれど人と車が近い。どちらから何が来るのか、目が追いつかない。


 レオンは華の前へ出るのではなく、少し横を歩いた。


 人とすれ違うたび、華の方が壁際になるように位置を替える。そのことに気づくと、今度は先に人の流れを見て、自分から端へ寄った。


 レオンは一度だけこちらを見た。何も言わず、そのまま歩いた。


 細い通りを二つ曲がった先で、彼は一軒の建物の前に止まった。


 木の扉の上に、湯気のような形を描いた板が下がっている。意味は読めない。中から、食べ物の匂いがした。


 レオンが扉を開ける。


 中には長い卓があり、何人かが杯を前にしていた。奥の壁際には、華が知らない形の灯りが並んでいる。硝子の中の光は、門の上にあったものより小さい。それでも炎を足す者はいなかった。


 レオンは帳場らしい場所へ行った。


 年嵩の女が、レオンを見て眉を上げる。二人は短く言葉を交わした。女の視線が華へ向く。


 華は、反射的に肩へ力を入れた。


 女は近づいてこなかった。


 レオンが自分を指し、華を指す。次に、指を二本立ててから、廊下の方を示した。


 女は帳場の下から鍵を二つ出した。レオンが硬貨らしい金属を置くと、そのうち一つを華の前へ滑らせる。


 レオンは鍵を拾い、華の手のひらへ置いた。


 それから、自分の鍵を見せる。廊下の奥を指し、華の鍵をもう一度指す。


 部屋が別にある。


 たぶん、そういうことだ。


 華は鍵を握った。


 ここが安全だとは、まだ言えない。扉の向こうに何があるかも、外へ出たあとにどこへ行けばいいかも分からない。


 それでも、森の中や荷台の上とは違った。


 レオンはこの場所で、言葉を交わした。金属片を渡し、鍵を受け取った。周りの人間は、それを不思議なこととして見ていなかった。


 彼には、ここで生きるための知識がある。


 華には、まだない。


     *


 帳場の女から受け取った鍵を、レオンは華へ渡した。


 部屋を二つ取る。


 金は余分にかかる。だが、まだ言葉も通じない女を、自分の部屋へ入れておく理由はない。華の方も、その方が眠りやすいだろう。


 女は鍵を見て、廊下を見た。それから、もう一度レオンを見る。


 分かったかどうかは、まだ判断できない。


 それでも、荷馬車へ乗るときと同じように、見せれば自分で確かめる。


 レオンは鍵を持つ手と廊下を指した。


「こっちだ」


 華は少し遅れて歩き出した。


 街へ入れたからといって、片づいたわけではない。


 食事を頼むことも、部屋を取ることも、道を聞くことも、華にはまだできない。今日のように誰かの前で立ち止まるたび、レオンが先に口を出すことになる。


 まずは、ここで困らないようにしなければならない。


 部屋の扉の前で、レオンは鍵穴を指した。自分の鍵を差し込み、ゆっくりひねる。金属の音がして、扉が少し開いた。


 内側にある金具を指し、それから扉を閉める。もう一度、鍵を回してみせた。


 華は鍵穴と、手の中の鍵を見比べた。レオンが動かした向きを確かめてから、鍵を差し込む。


 重い手応えがある。少しずつ力をかけると、鍵が回った。


 扉が開く。


 華は中へ一歩入った。振り返ると、廊下にレオンがいた。


 レオンは自分を指した。次に、通りの方を指す。二本の指を、少しだけ歩かせる。


 外へ行く。たぶん、そういうことだ。


 華を指し、それから開いた扉を指す。レオンはその場で、華がどうするかを待った。


 華は鍵を握ったまま、レオンを見た。


 それから扉へ向き直り、自分で閉めた。

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