第一幕 三
夜が明ける前に、レオンは目を開けた。
火は熾きの底に赤みを残している。森の中はまだ暗いが、枝の向こうの空だけが薄くなり始めていた。
荷布の内側を見る。
女は、毛布を肩まで引き上げたまま横になっていた。眠っているように見える。けれど、レオンが身を起こしたとき、閉じていたまぶたがわずかに動いた。
昨夜、どれほど眠れたのかは分からない。
レオンは声をかけず、まず周囲の気配を拾った。夜のあいだに警戒へ触れたものはない。近くに残っているのも、小さな獣の気配だけだった。
刃を腰へ戻し、熾きへ細い枝を足す。
炎が戻るころ、荷布の中で布が鳴った。
華は身体を起こし、すぐには立たなかった。こちらを見て、それから木々の間と空を確かめる。眠そうな顔をしていても、周りを見ることはやめないらしい。
「朝だ」
通じないと分かっている言葉をかけ、明るくなり始めた空を指した。
華は視線を上げた。意味を拾ったのか、小さく息を吐く。
レオンは水を渡し、残っていた平焼きを二つに分けた。食べているあいだに荷布を外し、毛布を畳み、火へ土をかける。熾きが残っていないことを確かめてから、荷をまとめた。
華は座ったまま、その手順を見ていた。
立ち上がったのは、レオンが最後の紐を締めたあとだった。
足取りは昨夜よりましに見える。食べて眠った分は戻ったのだろう。だが、歩けることと歩かせていいことは別だった。
街道までは遠くない。そこから先は荷馬車に乗せればいい。
レオンは落ちていた枝を一本拾い、余分な小枝を刃で払った。地面へ突いて強さを確かめ、華の前へ横向きに置く。
華は枝を見た。次に、自分の足元を見た。
すぐには取らない。
レオンは同じくらいの長さの枝をもう一本拾い、杖にして二歩歩いてみせた。それから最初の枝を指す。
華の眉がわずかに動いた。
今度は手を伸ばし、枝を取る。立ったまま地面へ突き、体重を少しかけた。使えると判断したらしく、そのまま手に残した。
「行くぞ」
レオンは街道の方角を指した。
華は言葉には答えず、杖を突いて一歩踏み出した。
*
昨日より明るい森は、暗いときより見えるものが多かった。
見えるから安心できるわけではない。
華はレオンの数歩後ろを歩きながら、木々の間へ何度も目を向けた。昨夜聞こえた鳴き声が何だったのかも、草の奥に何がいるのかも分からない。
手にした枝は、歩くたびに土へ沈んだ。
必要ないと思えば使わなかった。けれど今は、ある方が楽だった。レオンはそれを見ても、急がせる様子を見せない。
途中で一度、彼が立ち止まった。
華も止まる。
レオンは正面ではなく、斜め左へ顔を向けていた。しばらくしてから、木々の向こうを指す。低く何かを言い、指先を横へ動かした。
遠くから、鈍い音が聞こえた。
一定の間隔で重なる音。枝が風に鳴る音ではない。地面を打つものと、軋むものが混じっている。
レオンは音のする方へすぐ向かわなかった。華を見て、歩く速さを確かめるように一度待つ。それから、さっきまでより幅のある道へ出た。
土の上に、二本の深い跡が続いていた。
車輪の跡に見える。
華は道の先へ目を凝らした。
木々の切れ間から、最初に大きな獣の頭が見えた。馬に似ている。けれど、知っている馬と同じだと決めるには遠すぎた。その後ろに、荷物を積んだ車が続いている。さらにもう一台。何人か、人もいた。
ここへ来てから、レオン以外の人間を初めて見た。
胸の奥が強く鳴った。
助けが増えたとは限らない。
言葉の通じない相手が、一人から何人かに増えただけかもしれない。
レオンが道の端へ出て、片手を上げた。
先頭の車にいた男が声を上げる。レオンも返した。
声の調子は、昨日まで華へ向けていたものと違った。短い言葉が速く続く。男が笑い、レオンも口元を少し緩める。
少なくとも、初めて会った相手ではないらしい。
荷馬車が止まった。
レオンは道を下り、先頭の男のところへ行く。腰の刃へ手をかける者はいない。ほかの人間もレオンを見たが、警戒して囲む様子はなかった。
華は森から道へ出る手前で止まった。
逃げるなら、今かもしれない。
そう考えて、後ろを見る。
戻ったところで、水場までの道も分からない。森に何がいるのかも知らない。目の前の人々が危険かどうかも、レオンが彼らをどれほど知っているのかも分からない。
レオンがこちらを指した。
何人かの視線が、一斉に華へ向く。
身体が固くなった。
先頭の男が車から降り、近づいてくる。華は杖を握り直し、一歩だけ後ろへ下がった。
レオンが短く言った。
男が足を止める。
何を言ったのかは分からない。守ったのか、近づかせない理由が別にあるのかも分からない。
ただ、レオンは華の腕を掴んで前へ出しはしなかった。
代わりに、自分の胸を指す。
「レオン」
次に、華を指した。昨日聞いた二つの音を、区切りもそのままに繰り返す。
「タカセ、ハナ」
男が首を傾げた。
「タカセハナ?」
華はすぐには答えなかった。
レオンを見る。彼はもう一度、華を指した。問い詰める向きではない。名前を確かめているだけに思えた。
華は自分の胸へ手を置いた。
「華」
レオンが繰り返す。
「ハナ」
華が頷くと、男も同じ音を口にした。
「ハナ」
それ以上近づかず、荷馬車の後ろを指す。レオンと何か話し、指を二本立てた。レオンは腰の小袋から小さな金属片を出して、男へ渡した。
金属片が何なのかは分からない。
けれど、それを受け取ったあと、男は荷台の荷を少し寄せた。
レオンが先に荷台へ自分の荷を置いた。板を叩き、華を見る。それから道の先を指し、二本の指を歩かせるように動かしたあと、荷台をもう一度指す。
ここから先は、これで移動する。
たぶん、そういうことだ。
華は荷馬車へ近づいた。
レオンは手を出さない。荷台の縁と、足をかけられる場所を順に示して、一歩離れた。
華は杖を先に置き、車輪の脇へ足をかけた。腕に力を入れ、自分で荷台へ上がる。
昨夜の疲れが残る脚には少しきつかった。けれど、上がれないほどではない。
荷の隙間に座ると、レオンは毛布を折って渡した。板の上へ敷け、ということらしい。
華は受け取り、自分で座る場所へ置いた。
レオンはそれを見届けると、荷台には上がらなかった。ほかの男たちと短く言葉を交わし、腰の刃と荷の紐を確かめてから、先頭へ歩いていく。
仕事を始める人の動きに見えた。
やがて荷馬車が動き出した。
車輪が窪みを越えるたび、板が大きく揺れる。華は荷台の縁を掴み、遠ざかる森を見た。
知らない人間が増えた。知らない道を進んでいる。レオンがどこへ連れていくのかも、まだ分からない。
安心できる材料は、ほとんど増えていなかった。
それでも、一つだけ分かったことがあった。
二人きりでなくなっても、レオンは言葉の通じない華を、身体を掴んで動かしはしなかった。何をするかを先に見せ、華が動くまで待った。
それがこの先も続くとは限らない。
ただ今は、森の中にいたときと同じだった。
華は揺れる荷台から、街道の前方を歩くレオンの背中を探した。
見つけると、そこから目を離さずにいた。
*
後ろの荷台を振り返ると、華と目が合った。
レオンは前へ向き直った。
歩かせるよりは顔色がいい。荷台の揺れには慣れていないようだが、自分で縁を掴み、荷が崩れない場所を選んで座っている。
朝から何度か試して、分かったことがある。
華は、ただ言われたまま従っているわけではなさそうだ。
枝も、荷馬車も、使い方を見て、自分で確かめてから選んだ。知らないものへすぐ手を出さない代わりに、必要だと分かれば使う。
なら、無理に動かすより、先に見せた方が早い。
街へ着けば、森より分からないものは増える。人も、道も、建物も、華にとっては何が危険か区別がつかないだろう。
何かを伝えるにしても、まずは同じようにすればいい。
見せて、待つ。
通じなければ、別の見せ方を考える。
それで街まで連れていくには足りる。




