第一幕 二
半刻とかからないはずの道が、その夜は長かった。
レオンは女の歩く速さに合わせ、先へ出すぎないようにした。日が落ちるほど、森の根や石は見えにくくなる。急がせて足をひねらせれば、結局はもっと時間を食う。
女は遅れても、止まりはしなかった。
足元ばかり見ているわけでもない。木の根をまたぐ前には一度周りを見て、レオンが通ったところへ足を置く。指で示した低い枝には、少し身を屈める。言葉は通じなくても、さっきから何度か繰り返した動きの意味くらいは拾っているらしい。
道を歩く者の足取りではなかった。薄い靴は土を踏むためのものではないし、荷を背負う位置も、夜まで歩く人間の格好ではない。
それでも、動けなくなるまで助けを待つタイプにも見えなかった。
前方の茂みで小さく草が鳴った。
レオンは手を上げた。
女がすぐ止まる。
気配を拾い直す。小さな獣が、こちらの気配に驚いて逃げたらしい。しばらく待ってから、レオンは腕を下ろした。
「行くぞ」
女は返事をしなかった。ただ、こちらの靴元を見て、また歩き出した。
野営地に着くころには、空に残っていた光もほとんど消えていた。
岩壁が北側の風を受け、二本の木が屋根を張る場所だった。街道からは外れているが、水場への道が近く、荷馬車の通る方角へ戻るにも困らない。ひとりで泊まるなら、十分な場所だ。
レオンは背の荷を下ろした。
女は少し離れたところで立ち止まり、周囲を見回している。
座れ、と言って地面を指すと、彼女はすぐには座らなかった。落ち葉を足先で避け、岩から少し離れた乾いた場所を自分で選んで、ゆっくり腰を下ろす。
警戒しているのは変わらない。
それでいい、とレオンは思った。
初めて会った相手の言葉も場所も分からないのに、何でも任せる方がよほど困る。
*
レオンは、何を先にするかを迷わない。
華は岩のそばに座り、男の動きを見ていた。
荷物を地面へ置く前に、周りを見た。次に、地面の枝や石をどけた。水袋を手の届く場所へ移してから、火をつけるためらしい細い木を集める。
最初に食事を出すわけではない。
休む場所を決めて、暗くならないようにして、それから水と食べ物を扱う。その順番には、何か理由があるように見えた。
レオンは乾いた枝を組み、片手をその脇へ置いた。低く短い声が続く。意味は分からない。
けれど、枝のあいだに赤いものが生まれた。
火だった。
華は息を止めた。
火をつける道具は見えなかった。手元にあったのは枝と、男の指先だけだ。小さな火はすぐに細い木を舐め、橙色の明かりを広げていく。
レオンは火へ薪を足すと、華の方を見た。
驚いていることは、たぶん分かっている。
それでも何かを説明しようとはしなかった。説明しても通じないからかもしれない。あるいは、今はほかに先にやることがあるのかもしれない。
華は火から目を離せなかった。
怖いと思うより先に、分からないものが増えたと思った。
空も、木も、言葉も、ここにいる理由も分からない。そのうえ、目の前の男は、木の枝に触れて火をつけた。
分からないことを、分かったことにはできない。
華は膝の上で手を握った。
レオンは小さな鍋へ水を移して火へかけた。さっき使った木の杯を流し水で洗い、布で拭く。次に袋から平たいパンと、乾いた実のようなものを取り出した。
食べ物を二つに分ける。
片方を華の近くへ置き、鍋を指してから、手のひらを下へ向けた。
待て、ということらしい。
華は頷いた。
頷きが通じたかどうかは分からない。だがレオンは鍋の方へ戻り、少ししてから火から下ろした。湯気の上がる水を杯へ移し、自分で口をつけてから、もう一つの杯へ注ぐ。
それを差し出すときも、腕が届くところまでは近づかない。
華は杯を受け取った。
熱い。すぐには飲めない。
レオンは自分の杯を持ったまま、火の向こうへ腰を下ろした。華が飲むのを待っているようにも、周りを見ているようにも見えた。
「……ありがとう」
日本語で言った。
通じない。
それでも、何もしないよりはよかった。
レオンは少しだけ顔を上げた。言葉の意味は分からないまま、声の向きだけを受け取ったように見えた。短く何かを返し、パンを指す。
華は食べた。
乾いて固い。けれど、さっきのものよりは食べやすかった。甘くはない。口の中の水分を奪う感じがして、湯を少し飲む。
火の音が、二人の間を埋めていた。
レオンが、何度か華を見る。
見張っているのかもしれない。具合を見ているのかもしれない。どちらなのか、今は決められなかった。
華も、レオンを見ていた。
彼は食べ終えると、鍋を洗い、火の近くへ伏せた。荷物をひとつずつ手元へ寄せ、腰の刃を抜いて布で拭く。刃は火の届かない側へ置かれた。自分の膝の近くで、華からは遠い。
使うものを使ったままにしない。
水を飲ませて、火をつけて、食べさせて、次に眠る場所を作る。さっきから、同じように必要なことを片づけている。
それが安全を意味するかは分からない。
でも、少なくとも、この男の行動は急に別のものへ変わらなかった。
*
食事が終わる頃には、女の顔色も少し戻っていた。
レオンは荷から荷布を出し、岩壁と木の間へ渡した。ひとりなら風除けにするだけのものだが、今夜は内側を女へ回す。下には乾いた草を敷き、その上へ自分の毛布を置いた。
女は毛布とレオンを見比べた。
受け取るか迷っている。
「寝ろ」
通じない言葉を言って、レオンは荷布の内側を指した。それから自分は火の外側、木の根元へ座った。背を預ける場所はある。夜を越すだけなら、それで足りる。
女はすぐには動かなかった。
レオンは気にせず、火を小さくした。薪を足しすぎれば、夜半には尽きる。明るすぎる火も、ここでは都合がよくない。
火の外へ出て、周りを一度歩く。
戻ると、女はまだ起きていた。
荷布の内側に入ってはいる。けれど毛布を肩まで引き上げ、こちらを見ていた。目が合うと、すぐに逸らさない。
無理もない、とレオンは思う。
言葉の通じない男に連れられ、知らない森で眠れと言われて、眠れる方がおかしい。
レオンは火のそばへ戻り、自分の外套を膝へ掛けた。刃は手の届くところにある。女の方へ背を向けず、けれど近寄りもしない位置だった。
しばらくして、荷布の中で布がかすかに鳴った。
女が横になったらしい。
レオンは火を見た。
明日の朝になれば、街道へ出る。荷馬車の者たちへ何をどう話すかは、その前に考えればいい。
今夜は、寝かせる。自分はいつもより浅く眠ればいい。それで足りた。




