↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/30

第一幕 一

 水袋が腰で鈍くぶつかるたび、レオンは日が沈むまでの残りを測った。


 今夜の野営地までは、荷を背負ったままでも半刻とかからない。明日の朝、街道を通る荷馬車に合流する予定だった。昼に終えた仕事の報せを運び、ついでに護衛へ混ぜてもらう。珍しくもない移動だった。


 水場から外れた細道へ足を向けたとき、気配取りに小さな引っかかりがあった。


 獣なら、もっと早く逃げる。人なら、もう少しは身じろぎをする。


 レオンは水袋の口を締め直し、背の荷を低い枝の陰へ置いた。腰の刃に指をかけたまま、草を踏まないところを選んで近づく。


 浅い流れから少し上がった木の根元に、人がいた。


 若い女だった。


 黒い髪が、乾いた草と土に半分ほど埋もれている。淡い色の薄い上衣に、濃い紺の短い裾。足元は薄い靴と、見慣れない長さの布で覆われていた。旅の者にしては荷がない。近くにも、落とした袋ひとつ見当たらない。


 服だけなら、どこか遠い土地の趣味だと思えなくもない。


 だが、そう片づけるには、女の周りだけが妙だった。


 息はある。目立つ怪我も見えない。なのに気配の輪郭が薄く、成人なら返るはずの石の感触がない。


 病人か。あるいは。


 レオンは眉を寄せた。


 漂着者、という言葉が浮かんだ。


 実物を見たことはない。けれど、話だけなら何度も聞いている。どこからともなく現れ、言葉も身なりも土地の者と噛み合わない人間。大抵は、後からもっと面倒な話になる。


 女が小さく眉をひそめた。


 その顔を見た瞬間、余計なことを考えた。


 かなり好みだ。


 それだけだった。黒い髪も、疲れて青ざめた顔も、薄く開いた唇も、どういうわけか目に残る。だからといって、ここで判断を誤るほど若くはない。


「おい」


 返事はない。


 レオンは刃から手を離し、少し離れたところに膝をついた。水袋を取り出して、自分で一口飲む。それから木の杯へ少し移し、女の目に入る位置へ置いた。


「飲めるか」


 声をかけると、まぶたが震えた。


 ゆっくりと目が開く。


 暗い色の瞳が、まず空を見た。次に木々を見た。最後に、レオンへ止まった。


 その目が大きく見開かれる。


 怯えた気配ははっきりしていた。逃げるか、助けを求めるか、そのどちらにも踏み出せないまま、こちらを測っている。


 レオンは手を引いた。


「動けるなら、飲め」


 通じない。


 女は何かを言った。細く、速い音だった。聞いたことのない言葉だ。問いかけているらしいことだけは、声の調子と視線で分かった。


 レオンは杯を指で示し、口へ運ぶ仕草をした。


 女の視線が、杯と水袋の間を往復する。さっき自分が飲んだのを見ていたらしい。しばらくしてから、彼女は震える手を伸ばした。


 杯を取り上げるまでにも、何度かこちらを見た。


 飲み込む音がした。


 急がせないよう、レオンは何も言わずに待った。二口、三口。女は途中で息を詰まらせたが、杯を離さなかった。


 腹も空いているだろう。袋から硬い平焼きの残りを取り出し、小さく割って草の上へ置く。


 女は食べ物を見た。次に、レオンの顔を見た。


 警戒は消えない。消えるはずもない。


 それでも、食べた。


     *


 知らない男がいる。


 最初に分かったのは、それだけだった。


 高瀬華は、目を開けたときからずっと、分からないものばかりを見ていた。空の色。木の匂い。土の硬さ。遠くで鳴く、聞いたことのない鳥の声。


 そして男の言葉。


 意味は一つも分からない。


「ここ、どこですか」


 言ってから、通じるわけがないと思った。


 男は答えるかわりに、何か短く言って、自分の胸を指した。


「レオン」


 たぶん、名前だ。


 華は口の中に残る乾いたパンを飲み込んだ。自分の胸元へ手を置く。


「高瀬、華」


 男――レオンは、その二つを聞き分けられなかったようだった。首を少し傾げたが、笑ったり、聞き取れないことを責めたりはしない。


 周りを見回してから、彼は立ち上がった。


 空はもう橙色ではなかった。木の間の影が、さっきよりずっと濃い。


 レオンは水の流れる方と、奥の暗い林を指した。短い言葉。手のひらを下へ向ける動き。声に混じる向きだけが、ぼんやり伝わる。


 ここにいるな。たぶん、危ない。


 続けて、彼は自分の荷を背負った。腰の道具を確かめ、少し離れた場所を指す。それから華へ目を戻して、待った。


 来るか、と言っているらしかった。


 華は、膝へ力を入れた。立ち上がると、足が頼りなく揺れた。


 レオンはすぐには近寄らなかった。こちらが倒れそうになってから、ようやく腕を出す。掴むためではなく、支えが要るなら使えという出し方だった。


 華は一瞬だけ迷って、その前腕を借りた。


 硬い。仕事でついた筋肉だと、そんなことまで分かる。男の体温が、手のひらに残った。


 怖くないわけではない。


 この人がどんな人間なのかも、ここがどこなのかも、何ひとつ分からない。さっきの水だって、たまたま同じものを飲んだだけかもしれない。親切に見える行動だけで、安全だと決める理由にはならない。


 それでも、今の自分にはほかに何もなかった。


 言葉が通じない。道も知らない。暗くなる森の中で、誰かひとりを探すこともできない。


 レオンは華の手を離すと、少し前へ出た。急がせず、振り返っている。ついてくるかどうかは、こちらに残しているように見えた。


 華は、息を整えた。


 この男を信じたわけではない。


 ただ、ひとりでここに残るよりは、死ににくそうだった。


 だから、数歩遅れて歩き出した。


 レオンの背中を、見失わないように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。