第一幕 一
水袋が腰で鈍くぶつかるたび、レオンは日が沈むまでの残りを測った。
今夜の野営地までは、荷を背負ったままでも半刻とかからない。明日の朝、街道を通る荷馬車に合流する予定だった。昼に終えた仕事の報せを運び、ついでに護衛へ混ぜてもらう。珍しくもない移動だった。
水場から外れた細道へ足を向けたとき、気配取りに小さな引っかかりがあった。
獣なら、もっと早く逃げる。人なら、もう少しは身じろぎをする。
レオンは水袋の口を締め直し、背の荷を低い枝の陰へ置いた。腰の刃に指をかけたまま、草を踏まないところを選んで近づく。
浅い流れから少し上がった木の根元に、人がいた。
若い女だった。
黒い髪が、乾いた草と土に半分ほど埋もれている。淡い色の薄い上衣に、濃い紺の短い裾。足元は薄い靴と、見慣れない長さの布で覆われていた。旅の者にしては荷がない。近くにも、落とした袋ひとつ見当たらない。
服だけなら、どこか遠い土地の趣味だと思えなくもない。
だが、そう片づけるには、女の周りだけが妙だった。
息はある。目立つ怪我も見えない。なのに気配の輪郭が薄く、成人なら返るはずの石の感触がない。
病人か。あるいは。
レオンは眉を寄せた。
漂着者、という言葉が浮かんだ。
実物を見たことはない。けれど、話だけなら何度も聞いている。どこからともなく現れ、言葉も身なりも土地の者と噛み合わない人間。大抵は、後からもっと面倒な話になる。
女が小さく眉をひそめた。
その顔を見た瞬間、余計なことを考えた。
かなり好みだ。
それだけだった。黒い髪も、疲れて青ざめた顔も、薄く開いた唇も、どういうわけか目に残る。だからといって、ここで判断を誤るほど若くはない。
「おい」
返事はない。
レオンは刃から手を離し、少し離れたところに膝をついた。水袋を取り出して、自分で一口飲む。それから木の杯へ少し移し、女の目に入る位置へ置いた。
「飲めるか」
声をかけると、まぶたが震えた。
ゆっくりと目が開く。
暗い色の瞳が、まず空を見た。次に木々を見た。最後に、レオンへ止まった。
その目が大きく見開かれる。
怯えた気配ははっきりしていた。逃げるか、助けを求めるか、そのどちらにも踏み出せないまま、こちらを測っている。
レオンは手を引いた。
「動けるなら、飲め」
通じない。
女は何かを言った。細く、速い音だった。聞いたことのない言葉だ。問いかけているらしいことだけは、声の調子と視線で分かった。
レオンは杯を指で示し、口へ運ぶ仕草をした。
女の視線が、杯と水袋の間を往復する。さっき自分が飲んだのを見ていたらしい。しばらくしてから、彼女は震える手を伸ばした。
杯を取り上げるまでにも、何度かこちらを見た。
飲み込む音がした。
急がせないよう、レオンは何も言わずに待った。二口、三口。女は途中で息を詰まらせたが、杯を離さなかった。
腹も空いているだろう。袋から硬い平焼きの残りを取り出し、小さく割って草の上へ置く。
女は食べ物を見た。次に、レオンの顔を見た。
警戒は消えない。消えるはずもない。
それでも、食べた。
*
知らない男がいる。
最初に分かったのは、それだけだった。
高瀬華は、目を開けたときからずっと、分からないものばかりを見ていた。空の色。木の匂い。土の硬さ。遠くで鳴く、聞いたことのない鳥の声。
そして男の言葉。
意味は一つも分からない。
「ここ、どこですか」
言ってから、通じるわけがないと思った。
男は答えるかわりに、何か短く言って、自分の胸を指した。
「レオン」
たぶん、名前だ。
華は口の中に残る乾いたパンを飲み込んだ。自分の胸元へ手を置く。
「高瀬、華」
男――レオンは、その二つを聞き分けられなかったようだった。首を少し傾げたが、笑ったり、聞き取れないことを責めたりはしない。
周りを見回してから、彼は立ち上がった。
空はもう橙色ではなかった。木の間の影が、さっきよりずっと濃い。
レオンは水の流れる方と、奥の暗い林を指した。短い言葉。手のひらを下へ向ける動き。声に混じる向きだけが、ぼんやり伝わる。
ここにいるな。たぶん、危ない。
続けて、彼は自分の荷を背負った。腰の道具を確かめ、少し離れた場所を指す。それから華へ目を戻して、待った。
来るか、と言っているらしかった。
華は、膝へ力を入れた。立ち上がると、足が頼りなく揺れた。
レオンはすぐには近寄らなかった。こちらが倒れそうになってから、ようやく腕を出す。掴むためではなく、支えが要るなら使えという出し方だった。
華は一瞬だけ迷って、その前腕を借りた。
硬い。仕事でついた筋肉だと、そんなことまで分かる。男の体温が、手のひらに残った。
怖くないわけではない。
この人がどんな人間なのかも、ここがどこなのかも、何ひとつ分からない。さっきの水だって、たまたま同じものを飲んだだけかもしれない。親切に見える行動だけで、安全だと決める理由にはならない。
それでも、今の自分にはほかに何もなかった。
言葉が通じない。道も知らない。暗くなる森の中で、誰かひとりを探すこともできない。
レオンは華の手を離すと、少し前へ出た。急がせず、振り返っている。ついてくるかどうかは、こちらに残しているように見えた。
華は、息を整えた。
この男を信じたわけではない。
ただ、ひとりでここに残るよりは、死ににくそうだった。
だから、数歩遅れて歩き出した。
レオンの背中を、見失わないように。




