第一幕 十九
朝、宿の入口で男がレオンを呼んだ。
「レオン」
華は食堂の卓から、その音を聞いた。
レオンは荷袋の紐を結ぶ手を止め、入口の方を見た。男が近づき、短く何か話す。レオンは一度頷いてから、外へ出ていった。
同じ音は、前にも聞いたことがある。
森で、レオンが自分の胸を指したとき。荷馬車の男たちが、道の先にいるレオンへ声をかけたとき。乾物屋の前で、店主が手を上げたときにも、短い声の中にあった。
音のあとで、レオンが振り向く。
華は黒い板へ目を戻した。
*
昼を少し過ぎたころ、華は水差しを持って宿へ戻った。
入口の脇にある台へ置くと、食堂の卓にいた客が杯を持ち上げた。宿の女がその方へ行き、空いた水差しを見てから、何か言う。
華は、水を指すときに何度も聞いた短い音を、その声の中に見つけた。
女は華の水差しを見た。次に、食堂の奥を指す。
レオンは、奥の卓にいた。
知らない男と向かい合い、荷袋の口を開いている。声は聞こえるが、こちらを見ていない。
華は水差しを持ったまま立っていた。
女が、もう一度奥を指した。
あの卓へ水を持っていくのかもしれない。
けれど、レオンの前には杯が二つある。どちらへ置けばいいのかは分からない。男の話も終わっていない。
華は卓の方を見た。
近づいて、レオンの袖を引くことはできる。
ただ、朝にも聞いた、レオンへ向けられた音がある。
おそらく、名前なのだと思う。
華は息を吸った。
「……レオン」
自分の口から出た音は、聞いていたものより少し短かった。
レオンの手が止まる。
顔を上げ、食堂の入口の方を見る。
華を見つけると、短く何か返した。
華は水差しを少し持ち上げた。
レオンは向かいの男へ一言言い、卓の端を指した。空いた場所を作るように、杯を寄せる。
華はそちらへ行き、水差しを置いた。
レオンは頷いた。
朝の男が出した音と、自分が出した音は、少し違った。
それでも、レオンは振り向いた。
*
レオンが男と話しているあいだ、華は食堂の端の卓へ戻った。
水差しの置かれた方を見る。
水を持ってくるとき。杯が空いたとき。宿の女が指し、短い音を使う。
華は、その音を口の中で一度だけ形にした。
レオンが男を見送って、こちらへ戻ってくる。
華は水差しを指した。
「……ミァ」
レオンはすぐには動かなかった。
華の顔を見る。次に、水差しを見る。
華はもう一度、水差しを指した。
「ミァ」
今度は、聞いた音に少し近かった気がした。
レオンは水差しを持ち上げ、食堂の奥に残っていた空の杯を指す。それから華へ目を戻し、短く何か言う。
華には、その返事の意味までは分からない。
けれど、指したものと音は、まったく離れてはいなかった。
華は頷いた。
まだ一つずつで、手や目の向きがなければ足りない。
それでも、レオンがこちらを見ていないときに、自分から呼ぶことはできた。




